「自分」に触れる

『ある男』 平野啓一郎 文春文庫

もしも私の名前が違う名前だったら、と小さい頃よく考えた。

私は、とても女の子らしい特徴的な名前を、すぐには読んでもらえない名前を、嫌だなと感じていた記憶がある。今は少し突っ掛かりのあるこの名前が話のきっかけになることもあり、知らない間に愛着を感じるようになった。

器に付けられた名前、あくまで誰かに呼んでもらうためのー。

相手が呼びたい名前と、私が呼ばれたい名前。

言われたことに対して、自分はなんだかまるでそういう人間なのかもしれないと、知らない間に自分が誰かによって形作られることがある。

ーーー

『本心』に比べると、少し硬くて、読んでいて、気持ちの揺れを感じることが少なかった。

それは、主人公の年齢や職業もあるだろうが、主人公自体が自分の人生ではなく、他人の人生を辿っていくという流れになっているからだろう。

「突き詰めれば、どれもこれも、具体的に取り組むべき問題だよ。だけど、考え出すと、具合が悪くなるんだよ。自分の存在が、まったく保証されていないみたいな苦しさを感じる。それで、・・・さっき話した人の話を調べている間は、気が紛れるんだよ、なぜか。自分でもわからない。とにかく、他人の人生を通じて、間接的になら、自分の人生に触れられるんだ。考えなきゃいけないことも感じられる。でも、直接は無理なんだよー・・」(p287)

距離が近ければ、触れられるような距離にあれば、相手を深く知ることができるのか?

相手を知る、とは一体どういうことなのだろうか。

どれだけ他者を見ようとしても、どれだけ深い関係を求めても、その本人ですら、「自分」を捉えられていないのに、その存在を掴むこと自体はできないだろう。それと同時に、他人に触れる、ということはどこまで行っても、「自分」に触れることに他ならないのかもしれない。

では、「自分」に触れる、とは?


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