自然死

『本心』(平野啓一郎著/文藝春秋)

「結局、その平凡さになんとなく慣れてゆくことが、この時代の人生なのだろうか?問題は、『生きるべきか、死ぬべきか』ではなかった。ー『方向性』としては、そう、『死ぬべきか、死なないべきか』の選択」だった。」

現在以上の圧倒的な格差社会にある未来の日本を舞台に描かれる物語を、未来の話だと思うことはできなかった。まさに今の世界における、圧倒的な共感。

あっちの世界と、こっちの世界。私も物心付いた時から、そういった感覚と共に過ごしてきたなと思う。

違う世界でも、同じ法律があって、そこに従うことが大前提とされる。この物語においては、「自由死」という選択肢が国民に与えられている。

「自由」という言葉は、本当に怖い。全ての責任が、個人のものとされる。先日読んだマイケルサンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』では、アメリカの非大卒の絶望死の人数は、大卒に比べて3倍という事実が語られている。

ただ「生きていること」対して、存在に対して、責任を持たなくてはならない社会。自分という存在に対して申し訳無いと思ってしまうこと。目の前の人に対して、誠実でいること。。「家族」という繋がり。

自分の「本心」がどこにあるのか、人はいつも必死になって探す。そして、自分の本心を、どうにか正しく存在させようと努力する。だが、自分の「本心」とは、他人の心以上に日々止めどなく変化していくもので、掴もうと手を伸ばした時には、そこにはもう求めていたものはない。しょうがなく、それっぽく言葉で飾り、それっぽく認めてあげることで精一杯。

じゃあどうすればいいのだろうか。

そもそも、自分という存在が自分ではないということが、当たり前で、その上で、繋がりを求める。死なない為に生きるのではなく、ただ存在を認めて、繋ぐこと。

自然に、落ち続ける滝は美しい。その一部であることを全うできたら。滝を自分の一部とできたら。。

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