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古文書を読む

古事記 日本書紀 をひらいてみた 

古事記と日本書紀はどうして書かれたか
 古事記と日本書紀。共に7世紀に天武天皇の命令によって編纂された書物であることは学校などで習っていますね。でも、なんでわざわざ2つに分ける必要があったのでしょうか?そもそも古事記と日本書紀に違いはあるのでしょうか?

画像 日本書紀

記 ウイキペディア


 まず、古事記ですがこれは天皇家による支配を正当化するために国内向けに書かれています。ですから、日本人に読みやすいように漢文体を組み替えた「日本漢文体」というのが使われていますよ。そもそも、古事記以前にも歴史書として500年代に編纂された「帝記」といわれる天皇の系譜が書かれたものや「旧辞(きゅうじ)」という伝承を記した書物はあったのですが、修正に次ぐ修正で歴史書としての真実味は失われていっていました。その他の歴史書も焼けてなくなってしまったりしていましたから「正しい歴史書を後世に残さなければならない!」という理由で天武天皇は歴史書の編纂を命じたのです。

 ・・・というのは、表向きの理由。本当は、もっと天皇による支配に正当性を持たせよう。都合の悪いところは消してしまえっていうのが本来の目的!?だったのでは?と一般的にはいわれています。

 ですから、天皇の先祖はアマテラスという女神ということになっています。日本列島を生んだのはイザナキとイザナミという神。そのイザナキの左目から生まれたのがアマテラス。そして、その子孫が初代天皇の神武天皇ってことになっているんです。日本を造った神様の左目から生まれたアマテラスが天皇の先祖なのだから天皇による支配は当然ってことですね。

 さて、この古事記は「帝記」「旧辞」らを参考にし天武天皇の命によって編纂され(この最初の編纂は誰だかわかっていません)稗田阿礼(ひえだのあれ)というとんでもなく記憶力のいい人物に暗記させました。この稗田阿礼という人物は男か女かもわかっていません。
 古事記の序文に「一人の舎人(とねり・役職)がおりました。その氏は稗田、名は阿礼。年は28歳。生まれつき聡明な人で、一度目に触れたものは即座に暗誦し一度聞いた話は心に留めて忘れることがありません。そこで天武天皇は阿礼に仰せ下されて、「帝皇の日継」と「先代の旧辞」を誦み習わせなさったのです。」と書かれているだけです。もしかしたら、稗田阿礼という人物は記憶力が抜群だったのですでに焼けてなくなってしまった書物なども頭に入っており、編纂に大きくかかわっていた可能性はありますね。

 その後、天武天皇が突然亡くなってしまったため、古事記の編纂は中断。およそ30年経った711年に元明天皇によって再開され、稗田阿礼に口述させた内容を太安万侶(おおのやすまろ)によって執記、編纂させたのでした。

 一方の日本書紀。こちらも天武天皇によって命じられ、川島皇子(かわしまのみこ)ら6名の皇族、6名の官人らによって681年から編纂がはじまります。古事記の編纂はすでに始まっていましたので稗田阿礼がまとめた資料をもとに編纂は進められたようです。

 古事記が全3巻であるのに対して日本書紀は30巻+系図1巻という多さ!古事記の完成が712年ですが、その頃、まだ日本書紀は完成していません。日本書紀の内容を見ると藤原氏の地位の高さが強調されている部分がありますので藤原氏をはじめとする有力者の意見などが、まぁ~うるさかったんでしょうね。完成したのは720年になります。

 天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)によってまとめられ、やっと完成です。

古事記 日本書紀

発起人 天武天皇 天武天皇

完成年 712年 720年

巻数 全3巻 全30巻+系図1巻

編纂者 稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂 皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により完成
特徴 天皇家の歴史を中心として物語風に書かれている 年代を追って出来事を記す編年体
収録時期 天地初発から推古天皇まで 天地開闢から持統天皇まで

表記 日本漢文体 漢文体

目的 天皇家を中心とする国家統一の正当性(国内向け) 国外に国家としての日本のアピール(国外向け)

 以上のように書かれている内容は重複する部分があるものの古事記と日本書紀には結構な違いがあるわけですね。さらに古事記は物語風に書かれているためドラマチックに感じるところもあるのですが、日本書紀は結構淡々と語られるような感じで書かれています。

 大地が生まれ、神々が登場するくだりなどは古事記では、こと細かに書かれているのに対して日本書紀では、ダイジェスト版のような感じで駆け足紹介。また、内容としても三柱の神を古事記では性別のない独り神としているのですが、日本書紀では男神とされているなど、細かな点での相違はいくつかみられます。

 また、古事記の参考文献は「帝紀」と「旧辞」だけですが、日本書紀では豪族の墓記、政府の公的記録、個人の覚書、手記、百済の文献など多くの資料を参考として編纂されたようです。

 学校では、完成の年と編纂者、表記や目的くらいしか教わることはないと思いますが、実際に現代語訳されたものを読んでみると皆さんゲームや漫画でおなじみのイザナキ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミ、クシダナ、ヤマタノオロチ、ヤマトタケルなどが登場し、物語としても面白いですよ。(歴史引用)

歴史


検索「ウイキペディア」による「日本書紀」

『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

記紀編纂の要因

乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。
これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 献上されたことが事実であったとしても、天智天皇は白村江の戦いにて唐と新羅連合に敗北しており、記紀編纂の余裕はなかったと推測される。

既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。
まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原史料の1つであったとする説を出している。

なお、『続日本紀』和銅2年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人と三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている。

『日本書紀』とする説

この説を支持する根拠は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する点である。
例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。
『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』にて見られる体裁のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書における体裁をあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
神田喜一郎は書名を本来『日本書』であったとする。『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるし、これが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする。
なお、平安時代初期には『続日本紀』と対比させる意味で、『前日本紀』と称している事例もある(『日本後紀』延暦16年2月乙巳条所引同日付詔)(ウイキペディア)


サウジアラビア国立博物館蔵 国内展示
移牧民や遊牧民が墓や祭祀施設に立てた『人形石柱』。こうした石柱・石板などはアラビア半島各地に残っている 
前3500~前2500年頃 カルヤト・アルファーウ出土 サウジアラビア国立博物館蔵

初来日! イスラーム発祥の地「サウジアラビア」の絢爛たる「至宝」執筆者:フォーサイト編集部 2018年2月13日アラビア半島は、古代から重要な交易路が張り巡らされ、諸文明が繁栄してきた。このアラビア半島の大部分を占めるサウジアラビア王国は、アラビア語で「サウード(家)によるアラブ(の王国)」という意味を持つ専制君主国。マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)というイスラーム教の2大聖地を擁するイスラーム世界の中心的存在だ。

アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝 / 表慶館   2018年1月23日(火) ~ 2018年3月18日(日)

人形石柱 カルヤト・アルカァファ出土 前3500~前2500年頃 サウジアラビア国立博物館蔵古代より交易路が張り巡らされ、人々と諸文明が行き交ったアラビア半島。
本展では、その躍動的な歴史と文化を示すサウジアラビア王国の至宝を日本で初めて公開します。100万年以上前にさかのぼるアジア最初の石器、5000年前に砂漠に立てられた人形石柱、ヘレニズム時代やローマ時代に賑わった古代都市からの出土品、イスラームの聖地マッカ(メッカ)のカァバ神殿で17世紀に使われた扉、サウジアラビア初代国王の遺品(20世紀)など、400件以上の貴重な文化財をとおして、アラビア半島の知られざる歴史をお楽しみください。
(記事参照)

サウジアラビア王国の至宝



サウジアラビア王国の至宝


サウジアラビア王国の至宝


東京国立博物館表慶館 | metropolitana.tokyo [メトロポリターナトーキョー]


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