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修験道(役小角えんのおずの)

修験者
最近、テレビで山登り番組をよく見るが、前人未到の急峻な垂直の絶壁に、鉄の鎖が下がっているのを見て、なんだか不思議だなとは思わないか。

マジックショーの手品師が先にネタを明かして、それに沿ってマジックをしているようなもので、その鎖は、ほとんど山岳信仰の修験者たちが、古い時代より施工していたという事実がある。また苦労して山頂にたどり着くと、そこには自然界景色と不似合いな鳥居と神社が建っていてびっくりすることがある。なんのことはない、その頂上征服し最初に究めたのは彼ら修験者たちである。
似たような話で、世界最高峰の山岳登山は、地元「ガイド」がいないと成功しない場合がほとんどだ。

その頂上アタックとなると、季節と時間を慎重に読み込んで場合によっては直前でやめる決断をしなければならない。その尖兵役が「ガイド」たちであり、時として最初に頂上征服する場合もある。しかし「ガイド」が最初に登頂成功という話はきいたことがない。

日本の山々は、そうした修験者の信仰対象として古くから崇められてきた。その第一人者が「役小角」であり教祖である。しかしその実態はよくわかっていない。

岩手の神楽源流

修験道の祖とされる、役小角(えんのおずの) は、奈良時代の大和葛城山の山岳修行者でした。「続日本紀」には、役小角が弟子の讒言によって伊豆に流されたという記述があります。
役小角については、謎が多く、実在についても確証はありませんが、奈良時代に、山岳修行を行って、呪術や託宣に通じた修行者の存在があったことは推定されており、こうした山岳修行者が、山伏のルーツと考えられています。

やがて、おんみょうどう・陰陽道や道教仏教など 外来宗教の影響を受け、その後、平安時代に天台宗と真言宗の密教が成立すると、修験道は教理的な基礎を得ます。密教系の道場は山岳に定められたため、僧侶は山岳修行を行いました。こうして、徐々に古来の山岳信仰と融合していきます。

室町時代には、天台系の仏教と結び付いた本山派と、真言系の仏教と結び付いた当山派の2派が組織され、江戸時代に入ると、山岳修行者はいずれかの派に所属させられることになります。そして、それまで全国各地を遊行することが多かった山岳修行者は、村や町に定住し、人々の宗教的な部分に関与し、加持祈祷をはじめ、調伏、憑きもの落とし、祭りの導師など呪術に関わる活動を展開していきます。これらの術は、密教や道教の修法や符呪を簡素化したものと言われています。

明治5年、修験道は政府の神仏分離政策によって廃止されます。

修験者の多くは、僧侶と神職に分かれましたが、修験の要素は、民間の山岳信仰とともに、民俗慣行として暮らしの中に残りました。第二次世界大戦後には、再び独立を認められ、現在も修験教団や修験系の新宗教が存続しています。

ここで、岩手の神楽と修験道との関わりについて簡単に触れておきます。まず、岩手県内の神楽として最も数が多い「山伏神楽」ですが、これはその名の通り、山伏によって伝承されたものです。岩手県を含む東北地方においては、鳥海山や出羽三山、早池峰山など霊山を中心に修験道が広まり、神楽は布教手段の一環としての役割を担ったとされています。里に住みついた山伏は、安産祈願、火伏せ、雨乞い、四季の祭りなど、人々の暮らしに深く密着していきます。東北地方では、寺子屋を開くことも多かったようです。

明治政府の神仏分離政策によって修験道が廃止された後、多くの修験道場は神道に属しました。その際、山伏神楽も神道の影響で仏教色を払しょくしてしまったものが多く見られる中、仏教の要素を色濃く遺しているのが「大乗神楽」です。

舞の主題を神仏習合の本地垂迹説の思想で解釈し、手の型や足の踏み方にも修験道に基づいた意味づけがあるとされています。

修験道の廃止によって生まれた新しい神楽もありました。岩手県南地方を中心に、山伏神楽が衰退した後、農民の間で、歌舞伎や郷土の伝説を取り入れ、セリフを伴う「南部神楽」が成立します。山伏神楽の形式を伝えつつも、劇に近い娯楽性の高いものです。

また、社家神職が組織した神楽である「社風神楽」も、その演目から山伏神楽との関連があるとされ、神道的な要素と山伏の要素の融合について、宗教や歴史の見地からも重要な研究課題とされています。

資料サイト http://www.tohoku21.net/kagura/history/iwate_source.html

神楽とは何か、その歴史 

 神楽の舞では古代神話を想定して狩衣を身にまとい神としての具現化をはかる。そして顔に「神」であるための神面を装着する。

 演者はその面を着けてカミに化身する。演者は神の化身であり自然界に宿る諸々の霊であり人間存在の微塵も見せてはならない。

 奈良時代に外来芸能として中国より伝わった伎楽があるが、その面は縫いぐるみに近く頭部分を全て隠し神の頭だ。この伎楽、詳細なわけは判らないが惜しいことに廃絶してしまった。それを復活しようと狂言師の野村万之丞氏(故人)は一人孤軍奮闘している。

 「こうした里神楽の歴史、変遷の様子をはっきりさせたくとも無理な状態です。出来るだけ古きを尋ねるとすれば芸能的に見るより仕様がないように思われます」。

 教授にして研究家、西角井正大氏は詳細な裏付け情報をもとに「里神楽」をそう分析したのである。
 その指摘は神楽伝承者の当事者である槙田として共感できる。日本に伝わる伝承「芸」は諸々の理由如何を問わず、どんな障害があろうともその存在を世にアピールする必然性がある。それに携わる者たちはその使命感をもって神楽に臨んでいるが現実には生活様式の変化にともなう地方過疎、継承者不在そして衰退という厳しい状況の中にある。

 さらに生まれる子供の数が年を追うごとに減っている実態は将来の不安を予感させる。日常生活の断片とは考えにくい今日的な状況の中の伝統芸能の神楽に、その価値を認めようとする人間が究めて少ないことも槙田氏を憂鬱にさせる一因なのである。

 邦楽古典音楽のもう一つに雅楽がある。雅楽は明治以前まで宮中の秘匿性の強い音楽として門外不出であった。雅楽は人に聴かせるための音楽では無く、自然界の気象現象を音に変換し、天子がそれを奏でる音律を雅楽と呼ぶからである。

 古来より宮中内でしか演奏されていなかった。奈良時代に諸外国から渡来した雅楽は、もともと占い呪術的要素を含んでいるようだ。『史記』にもその記述があるくらいだから歴史は相当古いと思われるが、中国より導入され奈良時代では既に帰化し現在の雅楽に至っている。そのため詳細な定めごとが多くそして何より型と統一性を遵守する。

 今でも中国、韓国に雅楽は残っているが日本の雅楽とは趣を別にする。それでも親戚関係の音楽であるから韓国の雅楽はその片鱗を聴かせている。クラシック室内楽と同系と思えるのは、それが音の構成という本質が根底にあるからだろう。雅楽の場合の演奏者は伶人というが、伶人は楽器と譜面があれば全国どこに出向いても他のメンバーとセッション可能である。

 それは神楽とまったく正反対の音楽形態である。神楽は譜面など存在しない。当然、覚書き、指南書の類いなどあるはずがない。師匠連は弟子達にそれらを一切教えない。どうしてかと言えば師匠たちも又一切そのことを教わっていないからだ。知らないものは教えようがない。伝授するのは口伝による「舞」の形と音の律のみで、ひたすら習得完成するまで口伝で教え込む。そして免許皆伝は師匠が引退か、若しくは死んだ時である。したがって20年や30年は修行期間なのである。 

 狂言師の野村万之丞氏(故人)は三歳から舞台に立ったという。幼少の頃袴を佩くのに左足から佩けと躾られた。その時、「何故左なのか」と祖父に問えば、先代の教えであると一蹴され、有無を言わず納得したと述懐している。伝統とは「型」であり型を変形することなく伝承するものなのである。

 神楽伝承は苦行ではない。家族的雰囲気が伝統を支え、神楽師は地元氏子の跡継ぎ伜の長男であることが必須条件で必然的に神楽に集まる人々はよそ者ではない。ある地域では世襲の家系もある。一口で表現できないのが伝承芸能の神楽であり、そのような集まりであるから「捉え所がない」ようにも見える。そのことは神楽そのものにも反映し比喩として、歌舞伎にある「見栄を切る」しぐさのようなメリハリに欠ける。
 もともと神楽は神を対象に演じているのだから確固たる説は不要なのかも知れない。茫洋とか朦朧とか曖昧とか、なにしろ輪郭が見えない。ゆえに自分たちの神楽が何時から始まったのか、という伝承年代もはっきりしない。そのようなごく日本的な組織の神楽が全国約3000カ所あり、それぞれが独自のスタイルで民族的伝統を継承しているのである。

 勿論金銭は一銭たりとも貰わず無償奉仕するのが神楽である。そこには今でいう商業ベースのコマーシャル的要素など入り込む余地はまったくない。古代朝廷に神楽の発祥とも思われる御神楽舞がある。その出所が里の神楽と同一のもので時代の移り変わりによって変化したのか、またそうでないのか。
 古代信仰の対象は自然界の営みにあり樹々の生い茂る森である。後に祠を建て、やがて大きな建築物となって神が鎮座する。原始信仰の形は次第に変化し意識の中の神から具現の神へと進化している。そして一つの形式が確立した。

 古代朝廷の祭祀における儀式では「御神楽」が行われていた。前述の猿女君一族による鎮魂の儀式で、これは呪術の系統が色濃く残っており古代雅楽と同じように、宮中の儀式であり外に出ることはなかった。それは全国の里に伝承される神楽とは趣を異にする。

 日本では古代より独自の音楽があった。アジア一帯にルーツを持つ雅楽が導入される以前である。神楽歌・催馬楽・朗詠・東遊・久米歌・大歌・倭歌、などであり、これらは神武天皇や安閑天皇にまつわる音楽と伝え聞く。

 神楽歌は宮中の「内侍所御神楽」という儀式で歌うもので古代歌謡の基本的な歌である。この神楽は、これまで述べてきた里神楽とは異質のもので朝廷の神楽歌なのだ。内侍所は賢所ともいい八咫の神鏡を安置する御殿をいう。内侍の司、その長官は天皇に常侍し、その配下の内侍の司は、尚侍・典侍・掌侍・女嬬の職があり総て女の職である。 

 ほかでも内侍は巫女をさし、安芸国(広島)厳島神社に奉仕する巫女で、「優なる舞姫多く候」と平家物語にある。 

 内侍所の八咫の神鏡を安置する御殿。その神鏡を舞にした里神楽「八咫宝鏡」が天鈿女命によって今でも「玉前神社」の神楽として舞われているが、内侍所との関連性を伝え聞いたことは全く無い。また、宮中で行われる神楽は古来より巫女の手によって舞われてきた。御巫・猿女らが参加し鎮魂祭の呪儀を執り行なう。

 伝統的にその祭は猿女が奉仕するのが習わしである。また倭歌、なども鎮魂祭に楽奏される。この猿女君とは、前でも述べたが女系の一族で朝廷の神事では欠かせない祭祀を担う一族集団であった。

『四時祭式』『皇太神宮儀式帳』などの記載の中に「猿女君が鎮魂祭の神事に奉仕」とあり、そして猿女君の遠祖は天鈿女命なのである。里の神楽にもこの天鈿女命がいる。

 天鈿女命は里の神楽においても重要な神である

 
天照大神にまつわる天の磐戸物語は天鈿女命なくして成立しない舞だ。とすれば宮中の呪儀に参加する猿女君と、里の神楽の天鈿女命は朝廷のそれとは形は違うにしろ「話の基」の出所が同一と考えても不思議はない。

 ところが里の神楽においては伝承伝記が無いため、その事を検証するための書物が存在しない。
 書き記した文書がないという事の一つには、代々伝わる家系で世襲性の一子相伝と同じく他に流出することを嫌った事情がそうさせたと思われるが、そんなことも証拠がなければ無意味な詮索だろう。

 御神楽と里の神楽の起源を追ってみたが、その概要が依然として姿を捉えらえられない。神楽は修験者によって行われてきたという有力な説があるが、ある時代の説であって総括的な意味と思えないところに神楽の不思議さがある。

 他の説として、律令時代の制度で舎人(とねり)という職があった。官僚のなかでも末端の役職で種々雑多なセクションを担っていた。その一つに芸能を専門にしている集団がいた。芸能といっても今のそれとは性格を異にして、おおかた神事や祭を司る呪術要素の儀式を担っていた。おそらく、それは日本の古代社会において先進文化を導入するための他民族集団と思われる。猿女君、忌部、土師などがそれにあたる。朝廷の神事に仕え、そしてそれに関係する祭祀用具などを作る一族である。それは日本書記にも載っており、又それを裏付ける遺跡発掘もあった。 

 日本書記によれば雄略天皇(456~479)の時代に渡来系氏族を飛鳥の住まわせた、との記述がある。その遺跡は奈良の清水谷遺跡で古墳時代中期の大壁建物と呼ばれる朝鮮半島系の建物跡六棟の遺跡であった。  

 この遺跡年代は五世紀後半であることが判っている。そのことは、かなり早い時代より渡来系民族が日本に渡っていたことを裏付けるものである。この出土発掘は平成13年12月8日の読売新聞で報道されている。

 雄略天皇の時代からおよそ1世紀後に聖徳太子が摂政として出現している。太子の功績は何といっても憲法十七条制定にあるが太子は音楽についても言及し、「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」と述べており外国の音楽を日本に導入することにも力を入れている。

 太子は蘇我馬子と協力して国史の編纂に着手する。国史の編纂は古代日本を国際社会の仲間入りとして諸外国に向けアピールする重要な案件である。国史ということになれば国としてのアイデンティティが必要不可欠となる。隣国の中国、朝鮮諸国の歴史に準じて勘案する必要もあった。近隣諸外国に比肩する建国の年紀を創設する必要にせまられた。 紀元前の古代中国の春秋戦国時代に興った陰陽五行説思想に太子は倣った。

  冠位十二階は五行思想の徳目に、それを総括する「徳」を加えそして衣服の色も五行思想に基く。また憲法の条数十七は陽の極数九と陰の極数八との和である、と陰陽説が引き合いに出される。この十七という数は古代ペルシア宗教の詩篇ガーサーの詩の数で、それは『アヴェスタ』に収められている。世界宗教文献の中で最も貴重で深遠な教義を語るとされる。

--讖緯説は未来を予言しそれを書にしたもので漢時代に普及しているが、そのもとは陰陽五行説にある--

以下は長くなるのであらためて、また別項で書くとして・・・。

それにつけても、昨今の時勢風潮というべきか、そうしたものに関して社会の関心が究めて希薄になった、というのが実感だ。

その裏では、わけもなく社寺に足繁くかよって参拝し札をもって帰るが、そのギャップの差が理解できない。最近の流行でポケモン出現騒動は、そうしたものとは種類が違うので、一緒には論じないが、もしかすると部分的に重なるかもしれない。

というのは、若い(圧倒的に女性)参拝者のほとんどは「スマホ」必須で神社に乗り込んで来る。べつにポケモンを追っているわけではない。もちろんスマホはナビゲーターだから、それがないと知らない神社にたどり着けない。

そして到着しても片時もそれを離さない。「この人朝から晩までこの日程か?」と思ってしまうほど、それを頼り切っている。いまさら始まったことではないので、これ以上詮索するのはやめにする。が、老婆心で云わせていただくと、将来の子育ても、それと同じレベルでやられてしまうと、やはり日本消滅か?

いやいやその前に婚期適齢未婚者続出日本で、この日本に人がいない、そのほうがより深刻だ。

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