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西と東、そのユーラシア大陸史

フランスにおける内乱 作者:カール・マルクス 1871年 第三章(中.2)
続編中.2 冒頭 
コミューンが農民たちに「勝利は彼らの唯一の希望だ」と言ったのは、まったく正しいことだった。
ヴェルサイユで作られ、栄光のヨーロッパのペニーアライナーによって繰り返されたあらゆる嘘のうち、最も恐ろしいものの一つは、ルーラルがフランスの農民を代表しているというものであった。
フランスの農民が、1815年以降、何百万ドルもの賠償金を支払わなければならなかった相手に対して抱いていた愛情を考えてみてください。
フランスの農民の目には、大土地所有者の存在そのものが、1789年の彼の征服に対する侵害に映るのである。ブルジョワは1848年に、自分の土地に1フラン45セントの追加税を課したが、その時は、革命の名の下にそれを行った。 部分引用

きようは日曜ということですから、「マルクス」連載も二度目のお休みです。なにしろ゛膨大字数 ゛なので、かくのも大変だし、前後が旨くつながるか、と云うのが最大の注意点です。

ですから今朝は、たまっていた日本史の「八咫烏」を少しばかり書いてみようとおもったりしました。

ま気分転換もあって、近現代史経済哲学マルクスと、そのヤマトタケルが、どうリンクするのか、と訊かれたら弁解の余地がない。もともと時事的な日常ニュースがテーマですから、あちこち変幻自在に飛んだとしても、ネット上のSNSを見れば、それと変わりない、とかいって誤魔化すのは方便の一つとご理解ください。

ヤタガラス、は黒いカラスか、それとも純白の白鳥であるのか

そもそもそうした記述の根拠は古事記と日本書紀をもとにしていますので、
ここでは黒いカラスであり、あちらでは白い白鳥、という一定の約束と解釈があります。
それを確定しないと、その案内人(鳥)MRNマリアンディーのキャラクターも色付けできないと云うことになります。

白鳥伝説については、日本の古文書で詳細に書かれています。以下は、その伝記を写したものです。(画像は玉前神社の白鳥伝説の井戸)


日本武尊伝説

ヤマトタケル 東征  
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。

千葉上総、玉前神社の境内に「白鳥井」がある。
日本武尊は東征の後尾張に戻ったが、再び伊吹山で戦い亡くなる。そして一羽の白鳥と化して飛び去ったと伝えられる。
その白鳥が弟橘姫命の亡くなった上総の地へ飛来した。白鳥が玉前神社の上空を舞っていたとき一枚の羽根が神社の井戸へ吸い込まれた。また、太東岬近くにあった湖に一羽の雌の白鳥が現れた。この白鳥は弟橘姫の化身と思われる。これを見た玉前神社の白鳥はすぐに湖の方に飛んでいき、湖で二羽が仲よく泳いでいたという。夕方になると、一羽の白鳥が西の空へと飛んで行った。九十九里浜の海岸では砂鉄がよく取れていた。日本武尊の東征目的の一つでもある鉄の産地を支配するという大和朝廷の権力拡大を物語る白鳥伝説は、その一節を語るものとして語り継がれた。


伝記
宇宙のサイクルは1320年伝記
日本書紀の宇宙観が讖緯説によってできていることについては、諸学説間に異論はない。讖緯説の説明は、簡素な事典では説明が足りないかもしれないが、説明があっても、その時間観・歴史観は、現代人のようなベクトル的な時間・歴史ではなく、表象と顕現の差異を時間・歴史として構造化したものなので、現代人には理解しづらい。だが、理解しづらいからといって避けるわけにもいかない。日本書紀の讖緯説の影響のなかでも、特にその起源の設定は讖緯暦運説に依存している。これに基づいて、日本の神話的な起源の時刻が算出されている。であれば、逆に算出基準となった時刻が存在することがわかる。そして、この算出基準となった時刻こそが、この宇宙観に実質的に最も意味をもった事実を反映していることも明かだろう。つまり、それが日本の実質的な起源の時刻なのだ。
ではそれは、いつなのか?
まず、その算出の方法論だが、一般的には、このように理解されている。つまり、干支は60年で一巡し、このサイクルを一元とする。また、21元で一蔀となり、世界が改まる、と。このため、一蔀を単純計算で1260年とする。井上光貞の日本歴史の概説書などを一瞥すると、信じがたいことだが、これが日本の古代史学の定説になっているようだ。坂本太郎(「古事記の研究」)に到ってはそれゆえ、起源に1260年を加算し、日本書紀の算出基準年を推古九年として、なにも特記すべきできごとのないこの年に対して、それゆえなにか重要な年であるかような倒錯の議論まで発展させている。この定説化の根は明治時代の那珂通世の論考なのだが、これは再考するまでもなく、先のような単純計算に依存しているにすぎない。これらは実は明白な誤りなのである。 
讖緯暦運説の原点は『六芸論』や『駁五経異義』を著したとされる後漢代の経学の学者鄭玄(127~200)の説であるが、その算出を説明する原典はすでに存在しない。幸い、日本の三善清行の『革命勘文』(901年醍醐天皇に献納)にはその引用と思われる文が残っている。「鄭玄曰く、天道は遠からず、35にして変ず。六甲を一元と為す。46、26交相乗ず。7元に3変あり。37相乗じ、21元を一蔀と為す。合わせて1320年」

これを読めば誰でもわかるように、那珂などは「21元を一蔀と為す」だけに注目しているので、鄭玄が最終的に1320とする算出過程を理解しているわけではない。しいて言えば、那珂などの近代の史学者はわざと鄭玄の説を誤読している。
鄭玄の算出については、那珂などのように、明治という近代国家の精神風土に毒されていない近世以前では、取り分け問題として指摘されることもなかった。代わりに、どちらかといえばこの算術自体が秘儀のようにみなされていたふしもある。いずれにせよ、算出方法の内部過程の正しさは広く信任され、算出結果も当たり前のこととして信頼されていた。
 そこで、このような秘儀の内側に1320年という算出結果の真偽を探ろうとする試みにも意味はあるだろう。だが、さしあたって、この算出方法の探求自体は必要ない。当面重要なことは、1320年という算出結果が正しいかどうかだけだ。結論を言えば1320年で正しい。なぜなら、鄭玄自身が宇宙のサイクルを間違いなく1320年としていたことは、中国史の知識があれば、簡単に理解できることからだ。(引用記事〆)

好都合なので作家の林房堆氏著『神武天皇実在論』から引用させて戴くと 「平田俊春教授は『神武天皇紀の紀年の意義』と『古代、中世における神武紀元の使用』の二論文を書いている。
その趣旨を要約抜粋すれば、「神武天皇の時代から少なくとも十数代は、全く暦の行なわれなかった時代であるから、紀年のない古事記的形態が書紀より古いものであり、書紀の紀年は故事伝承をもとにして作為したものであることはいうまでもない」。
「神武天皇元年が讖緯説(しんいせつ)に基づいて、西暦前660年に置かれている事は学会の定説になっている」。
「この讖緯説は中国の道家の学説で、1260年ごとに大変革が起こり、その年を辛酉(しんゆう)と甲子(こうし)とするものであるが、これを日本にあてはめて神武元年を推定したのは、聖徳太子の時代であったと考えられる」。

神武紀元が讖緯説によって作為されたことは、すでに本居宣長や伴信友によって論じられたことであるが、那珂通世博士はそれを受けて、朝鮮史その他の紀年と参照して、神武紀元は約600年、不当に引きのばされていると判定し、百歳以上の天皇や武内宿祢のような三百歳以上の重臣が現われているのは、紀元延長の故だと論じた。
このあとに林氏は一つの私見として「神武天皇即位の年は『古事記』にはなかったので、『書紀』の編纂者たちは当時の暦学の最高水準と信じられていた讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。まさしく推定であって史実とはいえない。
しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。

東洋大学の市村其三郎教授の説である。『神武東遷』を書いた安本美典教授は「数理文献学」という独特の学問の上に立って、「自分の説も市村説に一致する。つまり神武天皇は『日本書紀』の記載よりもずっと後代の人で、まず九州に国をつくって、それから大和に東遷した」と結論している。

讖緯説
讖緯説とは中国の漢代の末から盛んになった思想で、歴史や政治上の変革を占星術や暦学の知識によって解釈し予言しようとする説である。
干支が一巡する60年を一元とし、21元を一蔀として、一元ごとの辛酉の年や甲子の年には変革がおこり、さらに一蔀すなわち1260年ごとに国家に大変革がおとずれるというのである。
601(推古天皇9)年が辛酉の年にあたっているから、これより逆算して1260年さかのぼった紀元前660年をもって神武天皇の即位元年とし、それ以後の事件を適当な時代にあてはめて歴史書としての体裁をととのえたもので、後に編纂された「日本書紀」の紀年もこのとき採用した紀年法がもとになっているといわれる。笠原一男 『詳説日本史研究』

参考サイト(画像アナトリア ギョベクリ・テペ遺跡)


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