見出し画像

八十歳の海馬の道祖人

アナトリア.スパイラル 改題.2

エーゲ海に吹く西ジェットの大風

隣りのガレージに車がすべりこんできた。誰だかしらない。2.3日前に不動産屋が、ウロウロ歩き回り写真をとっていたので、きっと募集住居者が決まったのだろう。

湯沸しの沸騰音がけたたましくなっていたので大急ぎて、ガスを止めにいった。
「うるさいなそんなに大声、出さなくていいのに」と、端野は思ったが、愛猫のミーシャのカゼも気になっていたので、その分も静かにしてほしいと内心おもっていた。

端野の友人は大小さまざまな個人商店(シャッター通り店主)で、一様に低収入。こんな小さな街でいったい何ができるのか?と全員おもっているものの、これといって対策を講じているわけではない。(せめてコンビニくらいか?)

生活レベルを下げられぬ初老会長役の結論としては、「首を括る」ではなく、銀行の負債をまず帳消しにして、余った小銭を、よくしてくれた仲間に返済すること、それが先決だった。

地方銀行のその融資係は、中央官庁官僚出の切れ者に見えたが、喋ってみると、昨今カタカナ流行ことばの「英和手帳」みたいなノーなしで、こいつと折衝していてはラチがあかない、と諦念していた。

それよりも、行内で頻繁に接客している女性行員が、以前より気になっていた。たいした美人でもないし、器量がとくべついい、というのでもない。なにがいいかといったら、見事なプロポーシンをもつ女の肢体、銀行制服の上からもそれはわかった。

女性行員の「ハダカを見たい」それしかないといつも思っていた。

後姿だけをみるなら、芸能人の○○そっくりで、前からみると途端に踵を返す、そんな一体感がたまらなかった。

その胸の名札には「今棟真美」と書いてあった。行内だから偽名を使うはずはない。いつも室内ATMにいくと必ず「いらっしゃいませ」とハスキーな声でマニュアル通りの挨拶をするが不愉快だとかんじたことは一度もなかった。

行く度におもっていたこと、どんな言葉をかけたら不自然にならないか、と彼女をみるたび思う。ポッケの中に隠してる握り拳に微かな汗をかいていることが、すでに不自然だった。

どうしていつもうまく行かないのだろう。気がつけばアラサーにもなり、恋愛ならいくつも重ねてきたはずなのに。

なぜか、たいてい男に振り回される、金をかす、逃げられる。消耗させられる。幸福な家庭~とは程遠いダメ恋を繰り返してしまう自分。

一体、何がいけなかったのか。どこで間違えてしまったのか、と自虐してい自分。

「今棟真美」は、そんなことを考えているのだろうか。いやそれは「東京カレンダー」の読みすぎに違いない。それ以前に「今棟真美」はそれをしっているのだろうか。そして「今棟真美」とは実名なのだろうか。

それは昔、恋愛ごっこして遊んだ恋人とは、まるで似ていなかった。というより敢えて、そんな選定の仕方をしている自分が惨めだ、というジレンマはなかなか払拭されない。

昔、付き合っていたその女の別れ言葉は、そのままテープにしてあるので、記憶の残滓とともに「端野」のドット素子にきちんと収納してある。問題は、それを出すのに、メモしたタイトルとパスワードをなくしたことだった。

それを探してすでに30年がたつ。


自画像

昔の遠い遠い記憶はいずこに

先日、仲間の連れ合いが、くも膜下出血で緊急入院した、という話しを訊いて知った。

老齢を重ね、その知己たちは一人消え二人消え、数えてみれば両手の指では間に合わなくなっている。次は自分か、そんなやりとりが交わされ、そして笑いながら別れる。

そう「笑いながら別れる」のであって自分は絶対死なない、とおもっているからだった。それは美しい誤解であり、また醜い解釈でもある。

そのことは歴代の「王」たちの履歴をみれはよく判ることで、一様に不老不死を願い、懇願して世界中の妙薬を部下に探させた。その薬が手に入らなかった場合、その部下を獄門に課し最終的に「火炙り刑」として見せしめに処刑した。

その数知れず、古代中国「殷墟」の発掘現場からは夥しい数の屍が綺麗に整頓され埋められていた。

本当にこの世のどこかに「不老不死」という全能薬が、どこかの「桃源郷」にねむっているのだろうかと、本気で考えたことがあった。

それはある神話を読んでいて、そこに「ヒント」らしいものが書かれてあったからだ。といっても、懇切丁寧に「シンセン」薬がそこにある、という大学入試の4選択肢問題回答としてではなく、あらゆる情報を動員して、その中からあぶりだされた、たった一つのアンサーであり、仮にそれが入試問題出題例だったとしても、ことごとく不正解として処理される。そのくらい難易度の高い複雑な経路解説である。しかし実話である。

であるからそれは社会的に認知されないし考古学的にも提唱する人物がいないという点で、マイナー領域であり、下手をすると物理学界の仮説「エーテル理論」のように全否定され却下されるという運命にある。※特殊相対性理論と光量子仮説の登場などにより、「エーテル」は廃れた物理学理論だとされている。

詳細リンク http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52143924.html

「稲荷様」神話

神話では、キツネの棲む山「三長の稲荷様」として女人禁制はもちろん、「何人も諾されべからず」という謂れが伝えられ、麓では神の不文律として囁かれていた。(「三長稲荷」は一宮町にある実在する稲荷様で、古来より村の鎮守として崇敬されていた。それ以前では直系天皇子孫を思われる古墳があり素焼きヒラカが埋葬されていた/注釈 筆者)

勿論そんな札をみたことも訊いたこともないという領域で、「それに触るとたたりで即死する」という子供じみたその話しを、80歳の老婆がするものだから、それは嘘とわかっていても、いまだにそれを触ったものがいない。

似た話しで地中海伝説、レバノンのフンババ物語がある。

画像 巨木レバノン杉

ウイキペディア


toyoeiwa.repo.nii.ac.jp  ギルガメシュ叙事詩』の新文書


レバノン伝説

話しはこうだ。

森の守護神フンババは、メソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』に登場するレバノン杉を守る森の番人だった。

太陽神「ウトゥ」により育てられた巨人として伝説化している。日本神話のアマテラスに相当する。また他説では「恐怖」「全悪」「あらゆる悪」などと形容されるが「巨人」としての赴きは決定されているようだった。

メソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』に登場するレバノン杉を守る森の番人の神話である。

それは粘土板クサビ文字として記述され、ウル第三王朝 、紀元前22世紀から紀元前21世紀にかけてメソポタミアを支配した王朝のころであり、その時代に書かれたものとされている。


エトガル・ケレット氏の作品  Keret, Etgar


1967年イスラエル・テルアビブ生まれ。両親はともにホロコーストの体験者。義務兵役中に小説を書き始め、掌篇小説集『パイプライン』(1992)でデビュー(注・秋元孝文/訳『早稲田文学』2014年冬号掲載)、『キッシンジャーが恋しくて』(1994)で注目され、アメリカでも人気を集める。

『突然ノックの音が』(2010)はフランク・オコナー国際短篇賞の最終候補となり、作品はこれまでに37か国以上で翻訳されている。絵本(注・『パパがサーカスと行っちゃった』評論社刊)やグラフィック・ノベルの原作を執筆するほか、映像作家としても活躍。2007年には『ジェリーフィッシュ』(注・予告編動画)で妻のシーラ・ゲフェンとともにカンヌ映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞している。テルアビブ在住。

と、現時点で和訳されている氏の作品は『突然ノックの音が』、『あの素晴らしき七年』、『パパがサーカスと行っちゃった』の3冊と、岸本佐知子/編・訳の『コドモノセカイ』(河出書房新社刊)収録の「ブタを創る」「靴」、『早稲田文学』2014年冬号に「パイプ」と共に掲載された「イスラエルにある別の戦争」(秋元孝文/訳)、同じく『早稲田文学』2015年夏号に掲載された「ハッピー・エンディングな話を聞かせてくれよ」(秋元孝文/訳 ※イスラエルのアラブ人作家であるサイイド・カシューア氏との往復書簡)と、まだまだ少ない状態。

しかし『あの素晴らしき七年』の訳者あとがきにある「イスラエルの新しい世代を代表する作家としてとくに若者の間で人気が高く、『もっとも作品が万引きされる作家』『囚人の間でもっとも人気のある作家』だという形容からも評価の雰囲気は読み取れよう。」というテクストからも伝わってくるように、今後注目すべき作家のひとりとも言える存在なのです。というか、ヘブライ語というハードルがあるとはいえ、なんで最近までケレット氏の作品が日本で紹介されていなかったのが不思議なくらいです。

ちなみに自分が初めて読んだケレット氏の作品は38の掌篇が収録された『突然ノックの音が』。以下、出版元のサイトにある内容紹介となります。

人の言葉をしゃべる金魚。疲れ果てた神様の本音。ままならぬセックスと愛犬の失踪。嘘つき男が受けた報い。チーズ抜きのチーズバーガー。そして突然のテロ——。軽やかなユーモアと鋭い人間観察、そこはかとない悲しみが同居する、個性あふれる掌篇集。映画監督としても活躍する著者による、フランク・オコナー賞最終候補作。

初めて読んだとき自分がちょっと驚いたのが、各作品の読み応えっぷり。短いものは見開きで終わり、長いものでも22ページという、まさに〈掌篇〉という表現がぴったりなボリュームなものの、まるで栄養素とカロリーがぎっしり詰まった非常食(もしくは登山や長時間マラソンをしているときに摂取する行動食)を食べているかのような読み応えがそれぞれにあるのです。

しかも具体的な道徳的教訓は示されていないものの、イソップ物語などの寓話のように読み手に訴えかける〈何か〉があり、その〈何か〉も読書中に着眼するポイントによって形を変えていく。読み返すごとに、読了後の印象が変わってくるようにも思え、まさにフィクションという様式が持つ力を最大限に活かした作品群だと感じました。

ケレット氏は、こんな読み応えのある作品をどのようにして書いているのか? その答えは『突然ノックの音が』の訳者あとがきに書かれているので、気になった方はぜひ『突然ノックの音が』を手にとってみてください。

「イスラエル文学って、なんか敷居が高そう」「海外文学なんて普段は読まないし、なんか難しそう」と読むのを躊躇されてしまう人もいるかもしれませんが……

映像作家でもあるケレットはインタビューで、「映像は制作側と視聴者側が九対一の関わり方になります。小説の場合、登場人物の声や姿や展開への関わり方は、通常、作者と読者は七対三、しかし、ぼくの場合は作者と読者が半々、五対五です」と語っている。自作を朗読して聴衆が反応することで作品が完成するともいう。真意は、彼の作品は双方向的で読者は自由にそれぞれの読み方ができる、一つに限定されないということだろう。

……と、訳者あとがきにあるように、ケレット氏自身が「作品をどんな風に解釈してくれてもOK」と言ってくれているので変にきばらず、それこそ何かの寓話を読む感覚で手にとって良いかと。

ちなみに自分がこの掌篇集に強く惹かれたのは、どの作品に登場する人物たちも、自分が今いる場所にどこか違和感を覚えているように感じられたからです。

雲田はるこ先生の『昭和元禄 落語心中』にしかり、近況報告でもチラリ(いや、けっこうガッツリ)と触れた『文豪ストレイドッグス』にしかり、どうも自分は〈自分の居場所を探し求める人々〉を描いた作品に強く惹かれてしまう傾向があるのですが、この〈居場所探し〉というのは普遍的なテーマだと思うし、今後これをテーマとした〈世界文学〉が増えていくんじゃないかと秘かに思っています。

さて『突然ノックの音が』に強く惹かれた2015年の自分ですが、刊行記念として早稲田大学にて開催された「エトガル・ケレット×円城塔 公開講義『僕たちの書き方』」を聴講し、ますますケレット氏の作品が好きになる体験をするのでした。それがどんな体験だったのか、そしてケレット氏の日本語での最新作『あの素晴らしき七年』については後篇にて。

【BOOK DATA】ラテン語のPost-scriptの略称で追記・後書
Post-script
エトガル・ケレット氏の作品

-- 以下〈偏読書評〉、2016年7月11日投稿の加筆修正版 --


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?