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日本の水稲耕作

昨日に続き、日本の「稲作」について書こうとおもいます。、これがまた驚いたことに、スキと併せてダッシュボート記録では高いPVを示して、関心の高さを語っていたようです。

まあ、今更「稲作御飯」鮨ネタシャリには不可欠な「炊飯米」ですから、どうしたって、今更訊けない部類で、学校でも歴史は教えますが、米、糠、籾、については教えない、ということなんでしょう。

私にしても一昨日観たテレビの「農作家 山下惣氏」を観なかったら、そこまでしなかったという思いはあります。

また別項では、米アップル社、日本で「iPhone」を販売するために「日本企業に年間1億円」支払っていたという裏話、

という記事を書いてますが、まったく水と油のようなはなしですが、現代のデジタル産業のコメ半導体、といわれる機材の米アップル社、日本で「iPhone」を販売するために「日本企業に年間1億円」支払っていたという裏話

という記事を書きましたが、まったく水と油のような話題のようですが、現代産業のコメ半導体の傑作が「iPhone」と換言されますので、あながち弥生水稲の歴史と匹敵するような、また類似点も多いような気がします。

またその歴史も、発祥が東南アジアであったり、そのスマホ(基礎回路は日本人が書いた)は、当初、日本が優位でしたが、今ではシェアの殆どをアジアに譲り、その筆頭が中国産appleという、落日のおもいですが、起死回生のバッターボックス番がいつやってくるのか、まったく知る由もありません。

2023年09月30日

日本のコメ(籾の力)

稲作とは、イネ(稲)を栽培することである

腐植物質 (難分解性有物)

腐植物質とは、通常の有機化学分析では同定できない土壌有機物の総称である。腐植物質には、土壌中の暗色ないし黒色な有機物の総称という意味もあるが、これは前述の定義の物質と必ずしも一致しない。

腐植物質の形成過程を以下に示す。
植物残渣が分解されると、難分解性の物質が形成される。まず、改質リグニン、油、脂質、ワックスが現れる。
次にポリサッカライド(多糖類)やポリウロニドなどが合成される。これらの産物と、タンパク質といった窒素化合物が化学反応し、植物残渣中の窒素やその他の植物栄養素は取り込まれて無機化を回避する。以上の物質群が混合し、化合して腐植物質が現れる。

腐植物質の分類

腐植物質は酸と塩基に対する溶解度に基づいて3つの物質群に分類される。一つの土壌からこれら物質群を分離することができるが、各画分は単一の物質ではなく、様々な有機化合物の混合物である。フルボ酸 - 酸と塩基の両方に可溶なグループである。最も分子量が低い。腐植質の中では微生物に分解されやすい。フミン酸(腐植酸) - 塩基に可溶で酸に不溶なグループ。中程度の分子量と中程度の難分解性を有する。フミン質(腐植素) - 酸にも塩基にも溶けない。分子量は最も高く、色は最も暗い。腐植物質の中で最も難分解性である。
主に米を得るため、北緯50度から南緯35度の範囲にある世界各地域で稲作が行われている。現在では、米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカのブラジルやコロンビア、アフリカのエジプトやセネガル、マダガスカルでも稲作が行われている。
画像 弥生時代前期の小区画水田の例

中西遺跡(奈良県御所市)2019年発掘調査時

稲の栽培には水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。

収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれる。これらは再利用でき有用な資源である

伝播の理由

稲作が広く行われた理由として米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である。

イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)。

施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない。

水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)。

などが考えられている。

歴史起源

曖昧さ回避 この項目では、稲の栽培史である稲作の起源について説明しています。植物としてのイネの起源については「イネ」をご覧ください。

インドの田植え

イラン北部、マーザンダラーン州の田植え

ブラジル南東部サンパウロ州パライーバ渓谷の水田

インドネシア、ジャワ島の牛耕田

ネパールの田植え

稲作の起源地は、栽培イネOryza sativa 1083品種とその起源種とされる野生イネO. rufipogon 446系統 などのゲノム解析や考古学的な調査により、約1万年前の中国の珠江中流域あるいは長江流域と考えられている。 かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた。

長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている。

東アジア中国

中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。

日本

日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山県の朝寝鼻貝塚から約6000年前の「プラント・オパール」(顕微鏡で覗いたケイ素分析像 筆者注)が見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。
縄文時代に稲作があったことはほぼ間違いなく、熱帯ジャポニカが栽培されていたと考えられ、水田稲作ではなく、他の雑穀との混作や「焼畑の稲作」あるいは「水陸未分化」の稲作と思われる。また、広い面積が田に占められたり、ひとつの場所が長期にわたって耕されるという環境にはなかった。

従来、水田稲作に関しては紀元前5~4世紀頃に始まったとされていたが、2016年に農林水産省は近年の研究成果から、日本では縄文時代後晩期(約3000-4000年前)には中国伝来の水田稲作が行われていた可能性が高いことが判明した、と公表している。

水田稲作の伝来経路としては『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』、『南方経由説』があり、議論については後述。

なお、稲のプラント・オパールは20-60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっていると報告されている。

朝鮮半島

水田稲作に関しては朝鮮半島南部では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前7世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。

結核との関連

古代の東アジアにおける結核は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている。2019年時点では、中国・朝鮮半島・日本列島から出土した人骨にある結核による脊椎カリエスの痕跡の年代と場所の関係から、結核と稲作文化は長江流域にある広富林遺跡(現在の上海市)の付近から日本に伝播した可能性が示唆されている。

東南アジア・南アジア

東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。東南アジアにおいても、稲作文化と同時に結核も伝播したという指摘がある。

中央アジア・西アジア

トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である。

アフリカ

栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国のニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガル、ガンビア、ギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている。

アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。

植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。
また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった。
1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性に劣っていると報告している。

画像 イタリア、ミラノ近郊の水田

ヨーロッパ

ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる。

アメリカ大陸

16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった。

日本国内での歴史[icon]

この節の加筆が望まれています。 (2014年2月)

縄文稲作の可能性

日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、近年では縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が出てきた。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年の山内清男の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった。

縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から出た
プラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられるが、土器の年代に対し疑問が出され、多方面からの分析が必要と指摘されている。

しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない。

プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。
具体的には畑で栽培する陸稲である。特に焼畑農業が注目されている。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている。

水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。

日本への伝来ルート

イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』、『南方経由説』の3説がある。

朝鮮半島経由説

長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説などである。

2001年当時、佐原真は「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」と述べ有力であった事を示しており、佐藤洋一郎らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としていた。
趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている。

分子人類学者の崎谷満は、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしている。

池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている。

従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出たまた、水田稲作(水稲)についても渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が指摘されたため、有力視されていた説が揺らぎ、朝鮮半島を経由する説の中にも下記のように時期や集団規模などに違いのある複数の説が登場した。
しかし、この年代遡上説に関しては時期が確定してないとの批判や慎重に見る意見もあり、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」との疑問も呈されている。

広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている。

藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている。

山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている。

佐藤洋一郎は、水稲の伝来ルートについては、稲のDNA分析による研究もおこなわれている。DNA解析よる「水田稲作」に係る水稲の源郷は「長江下流の江南地方」とされ、その伝達経路は中国から日本への直接ルートとされる。朝鮮半島に存在しない中国固有の水稲が日本で出土しており、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートもあった可能性を示唆している。また、水稲についてはイネの開花時期との関係で少なくとも遼東半島や朝鮮半島の高緯度の北方経由ではないとされる。

更に、研究の進展から、朝鮮半島での水稲耕作が日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する説もある。

江南説(対馬暖流ルート)

農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説。

考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。
以下割愛

参考資料 神戸大学

参考文献

『現代農業 2018年11月号』(農文協、2018年)参考文献



https://note.com/29530503/n/n85199d56310f



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