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BC古代「コロッセオ」の音響

コロッセウム(: Colosseum, : Colosseo コロッセオ)
ローマ帝政期に造られた円形闘技場。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場(ラテン語: Amphitheatrum Flavium)。現在ではイタリアの首都ローマを代表する観光地である。

話題が豊富でネタに尽きないが、如何せん、ペラペラと喋りたくなる性癖で、これは遺伝子だから治せない。その真逆もしかり、ほとんど、むしろまったく喋らない奴もいる。

「饒舌」とは誰なのか、どんなすばらしい語り方をするのかと考えると、だれも見当たらない。よく「~は饒舌に語った」と表現するが、どうも漢字だけが独り歩きしているようだ。

政治の演説でそれに相当する人材がいない。そもそも政治自体が饒舌ではないから。

字と言葉と文は、それらを全部リテラシーと括ってしまうと変哲もなくなるが、字が旨い、言葉が巧み、文が理路整然としているなど、場合によって喩え方も変化する。昨日の引用記事ではこんなのがあった。

彫虫篆刻、(ちょうちゅうてんこく) 彫虫とは虫の形に刻むこと、篆刻は篆書体文字を象牙など印体に彫り込み印影を作ることですが、文字内容としては体裁を繕うことを云うようです。美辞麗句と同義語思えばいいでしょう。私は篆刻も彫りますが、ある日伐採した倒木杉の表皮下におかしな文様を発見して、それをよくよく観察すると、それは虫食い痕でした。そのスタイルが真に篆書そのもので古代の人間は虫から文字のヒントを得たのだ、と感慨を抱いたものです。
その篆書は古代中国の文化遺産でおそらく2000年以上の歴史があるでしょう。では何故それを現在の日本人が使っているのかという問題意識は、私がいましている雅楽演奏と根底で繋がっています。前ブログで書いたように奈良時代の遣唐使によって「唐の国」から持ち帰った、当時としては先進文化であったのです。

いわゆる漢字の原点、象形文字であり、甲骨文字など呪術に使うための記録媒体として発明されたという説明だ。中でも「彫虫篆刻」文字は、今でも特化したコンテンツとして専門化している。私も自分で彫った篆刻印を30本ほど持っている、残念なことにそれを使う場所がない。

それで、最近の社会はほとんど喋ることもなく、ひたすらスマホに傾注する、またはさせられている。電車に載ると乳幼児を除いて全員スマホ。片時も放さない。アナウンスがあっても辞めない。おそらく生きているか死んでいるかも判らない感覚でスマホをしている。日本だけではないらしい。世界的傾向。「ああヤバイ」の感嘆節゛はとっくに陳腐している。

そうした中、喋ることがいかに大事かという実体験説話をこれからしよう。

「あなたさあ、最低限それだけはいっておいてよ」~という思いは誰でもあると思うが、文書にしても同じで「寡黙」と云えば文学的だが、早い話、語彙不足で口先が空回りしている、というのをよく見かける。それも遺伝だからしょうがない。と思うが・・・。

あるとき、「演奏」でこんなことがあった。三人の管楽器合奏で、普段の稽古のときは、普通に演奏しているのに本番となると、何が起こるか判らない、というリスクがある。

そのときもそうだった。さあ、演奏の中盤に入って、イントロを笛が吹いた。その後をおって私の立笛の番がきて、二管演奏になる。笛の最初の音が違うことに気付いていたが、すでに進行しているので修正はきかない。肝心かな目のキー音が合ってない。咄嗟に変調できるほど技量(アマ)はないので、そのまま、移調している二つの旋律で、その曲を終えた。むしろ慌ててぶち壊すより、新曲だ、という顔をして演奏しきってしまうほうが得策と考えたからである。そのときは、何ごともなかったような顔で、三人は演奏を終了して、その会場を後にした。

それから数ヶ月して、「あの時のキー、違っていたよね」ともう一人の奏者が私にいった。いつかそれを云う、と予想していたので別に驚きもしなかった。事情は全部把握していたので、そいつには黙してなにも云わなかった。

それはどういうことか?キーが違うのは笛の奏者で、本番前のリハーサルで、そのことに気付いていたので、可笑しいな、とは思っていたが、そいつは普段から喋らない奴で、たまに云ったとしても、即座に答えるタイプではないし、「わかってんのかこいつは」と、ほとんど諦めていた。

それがそのときの最大の山場で訪れた。キーが違うのに、そのまま吹いていて、それを指摘するべき「間」を与えない、という態度をする。嫌をする、ではなく、「わかってない」ことを理解していない。普通それを言葉を介して調整し、一つの方向性を模索して全体のコンビネーションが完成する。それが欠けていると、10人20人編成のバンドは成り立たない。数の問題でもなく、そこに意思疎通が図れているか、である。だからそれは「わかっていない」ことである。

そのことは20年経過したいまでも鮮明な記憶として残っている。

***

さてそれで古代ローマ「コロッセオ」大演劇舞台の音響装置についてである。

ウェスパシアヌス帝が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68年-70年)の甚大な被害から完全に復興しておらず、ネロ帝が行った放漫財政を正し財政の均衡を目指しながら首都の再建を進めている時期であった。緊縮政策を取りながら、市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場の建設が検討された。当時、ローマで剣闘士試合を行えるのは木造仮設で仮復旧していた収容人員約1万人のタウルス円形闘技場(英語版)と、専用施設ではないため仮設の観客席を設ける必要があるサエプタ・ユリアやキルクス・マクシムスしか無かった。 この新円形闘技場(コロッセウム)はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなった。
この人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため円形闘技場建設時には基礎工事をいくらか省略することができた。工事はウェスパシアヌス治世の70年に始まり、ティトゥス治世の80年に、隣接するティトゥス浴場と同時に完成・落成した。使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ、模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落としている。なお、続くドミティアヌス帝の治世中にも施設の拡張工事が続けられ、一般市民や女性が座る観客席の最上層部と天幕が完成した。地上から50mもの高さに天幕を張るために、ミセヌム海軍基地から派遣された海軍兵士が工事に従事したと言われる。

とんでもない工事であることがわかる。今で比較すると日本の「黒部ダム」エジプトの「アスワン・ハイダム」に相当する、しかもブル、ショベル、大型掘削機がない紀元前ローマ時代の話しだ。人海作戦工事施工はいうまでもない。

この話題を想起させたのはEKIDEN News さん 2019/07/30 3:27「LONDON DL #4 」の書いたnote記事だった。今風のスタジアムでの音楽コンサートにおいて、日本の場合、ほとんど音響効果の設計がなされていない、という指摘となげきだった。

ならば、本家本元の古代大規模演劇舞台は、どんな音響設計をしていたのか、それが古代ローマ劇場「コロッセオ」だった。今では世界の観光名所として引きも切らない名刹となっている。


EKIDEN News さん 2019/07/30 3:27「LONDON DL #4
欧米と日本のスタジアムの圧倒的な差は音響にあらわれていると思う。通常はスタジアムの付帯設備だけで音響をまかないがちだけど、グラウンドからスタンドに向けたスピーカーがフェンス全体に配置されている。だから、手拍子も歓声もタイムラグがなくビシッとシンクロする。あと、そもそものチューニングが素晴らしい。チューニングが素晴らしい。つまり、大きな音でもうるさくないから、このおっちゃんがスピーカーの真横に座ることができるのだ。いい音と大きな音は違うのです。

(有料記事)


※いろいろ、色々書いてますが、かなば強制的自虐的です。実を申しますと~なんていうと大学教授のようなハーバード、サンデル先生のような、高尚なことでもいいそうですが、そんなことはありません。

日本家屋の音響効果

「だから手拍子も歓声もタイムラグがなくビシッとシンクロする」、それは物理的に難しいことではない。私の体験談話として、ある電話会社の展示大型の巨大パラボラアンテナが両サイド50メートルに設置してある場所で体験したこと。音を一点に集中させるという仕組みだ。 そこに立ってひそひそ話しをすると、まるで隣にいて喋っているようなボリュームで聴こえる。その間50メートルあった。

だから設計段階で、そのように計算すればいいだけの話しである。あとは費用コストの問題で、出来たりできなかったりする。私が専門家プロではないので、話し半分として理解してもらうとして、日本古典芸能音楽では音響という思考がないように思った。もちろん能舞台の床の施工は、柔軟性があって大きく響く施工というのはある。

年に数度、大きなホールで洋楽コンサートに出向くこともある。3年前にクラプトンライブを聴きにいった。最近のコンサートは数を入れて採算を取るといった方法らしい。その時も1万は居たような気がした。プロ中のプロだから、音に関しては妥協しないクラプトン。だが建物の設計をしたわけではないので細部の調整はできない。まして音響装置でカバーしようとしてもそれは無理がある。しかしライブだから、クラプトン本人が演奏しているのを見るだけで充分価値はあった。

とどのつまり、基本設計、防護壁の素材、観客の服装(プロエディターはそこまで考慮するという)等、チェック項目は云ったらキリがないが、最終的には石の文化、それがないとダメ、なような気がした。あと、日本の気候風土として湿度がある。それはほとんど意識しない項目だが、湿度というのは水粒子の空気配分率であり、1センチ㎥に幾つの水粒があるか、という物理学の話しだ。音波は、その空気伝道帯であるから、粒が多いと抵抗も大きいという計算になる。「標準大気中の音速 1225 km/h」であから、その値に影響することは無視できない。

確かな計測値も知らないので確かではないが、湿った音質とはそれを指しているように思う。いわゆるオフビートのテンポが遅れる、という効果だが、意図しないのにそうなってしまうのは石の文化でなく紙の文化による音響効果に思われた。実際私がやってい雅楽の楽器は、湿度によって色々部品を使い分ける。図紙の巻き数、セメの寸法、葦舌の乾燥具合など、その日に併せて調整する。乾燥している日は最悪で、かといって高温多湿もダメ、その中間がいい。では、その中間とはどんな日なのか、いまだにその日を、日記にメモした記憶がない。ということは永遠にその「中間日」がない、ということを物語っている。

古代ローマ劇場「コロッセオ」の形状は、あの巨大パラボラアンテナとそっくりの形をしている。2000年前に彼らは、パラボラ音響効果をすでに知っていたということだ。



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