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なにわのスタートアップ社長「谷井等」

日経ビジネスXで取締役会長・谷井等の連載

2022.04.07 日経ビジネス

日経ビジネスXで、当社創業者であり現・取締役会長の谷井による連載、谷井等の「なにわのスタートアップ魂」 がスタート。
(写真 的野弘路)


写真 的野弘路


関西のスタートアップへの投資と支援を精力的に行い、自らも新たな事業会社を運営する谷井が、関西の個性的な起業家やスタートアップを紹介するこのシリーズ。
第1回の記事では、谷井自身の学生時代から続く起業家としてのキャリアから、シナジーマーケティングの創業、売却、買い戻しを経て、現在に至るまでの半生を振り返っています。

1回:商売文化の街でスタートアップを興す

まずは自己紹介を兼ねて、僕の生い立ちやキャリアについて触れられればと思う。
 大阪のとある商店街で洋服屋を営む家庭に生まれた。小さい頃から商売は身近にあり、父親からは「一国一城の主になれ」と言われてきた。跡継ぎを期待されての言葉だったのだろうが、僕は解釈を間違え、起業への意欲を燃やすようになった。「起業しよう」「将来は経営者になろう」との思いで神戸大学経営学部に進学したものの、入学後はそのような決意も忘れて自由を謳歌する毎日を過ごした。

 そんな自分にとって転機が訪れた。1995年1月17日に発生した阪神大震災だ。兵庫県は大きな被害に見舞われ、僕も友人を亡くした。

 友の死に触れて、ふと立ち止まった。「いったい何のために大学に来たんだろう」。そのとき、自分でビジネスを立ち上げようと思っていた初心をようやく思い出した。「やりたいと思ったことには、一刻も早く取り組もう」。そう思うと居ても立っても居られなくなり、中古の教科書の転売ビジネスを始めた。無邪気に「もうかる」という動機もあったが、学生のニーズに応えられると思ったのと、全国規模で展開できるビジネスだという魅力も感じた。

 特別大きな成果を上げたわけではない。だが、テレビに取り上げられたこともあって、ある経営者の方とお話しする機会をいただいた。その際、経営者の方から「谷井くん、この商売、一生やるんか?」と問い掛けられた。勢いで始めたビジネスだったため別段じっくりと考えたこともなく、即答できなかった。「一生やるつもりがないならやめなさい」。いただいたアドバイスに従い、教科書転売ビジネスをやめ、就職の道を選んだ。

 時は1996年。インターネットが一般人に広がる兆しを見せ始めていた。勃興するであろうインターネットビジネスに携わりたかったため、NTTに就職した。しかし、やりたい仕事ができる部署に配属されるには10年くらいかかると分かり、気が遠くなった。

 NTTはあらゆる仕組みがしっかりと構築されている素晴らしい大企業だった。だが、一刻も早く裁量権を持ってビジネスを動かしたい僕のような若手にとっては、どうしても遠回りに思えてしまう環境に思えてしまった。20代のキャリア人生を下積みに充てるのは嫌だと思い、1年足らずで退職した。

 退職後、しばらくは無気力な時間を過ごした。仕事もせず、昼に起きて夜中まで遊ぶ生活を続けていた。親から「両親共に必死になって働いているのに、申し訳ないと思わんのか!」と叱られたこともあり、「おやじの店で働かせてくれ」と頼み込んで洋服屋で働かせてもらうことになった。働き始めて目的ができると、気持ちは前向きになるものである。売り上げを伸ばすにはどうすればいいか、必死に考える日々を過ごした。

 いろいろな策を試した結果、店前の通行量調査の結果を基に、取り扱う商品のブランドチェンジを決断した。若者向けのスーツをメインとした、ビジネスアイテムに特化した店に転換したのだ。すると、売り上げが一気に上がり、黒字化した。

 大きな手応えを感じたが、取引先の担当者と話をしている時に、「等くん、羨ましいな。こんないい店、お父さんに残してもらって」と言われたのである。自分で工夫して店を黒字にしたのにもかかわらず、だ。僕にはその一言が「お前、親の七光りやぞ」と聞こえてしまった。「本当に自分自身を認めてもらうためには、ゼロからビジネスを創るしかない」という思いが膨らんでいった。

ビジネスの世界を離れて旅人に
 NTT時代の同期と一緒に新しいビジネスを模索する中で、目を付けたのがメーリングリストのサービスだった。日中は洋服屋で働き、夜中から明け方まで仲間と一緒にビジネスを立ち上げる毎日だった。当然だが、すぐに売り上げは上がらない。最初は、3人で毎月2万円ずつ運営費を出し合った。

 2年、3年と続けているとユーザー数が3倍、10倍と順調に増加するようになった。同時期に、インターネットバブルが訪れる。勝負をかける時だと思い、父親に「申し訳ないけれど、洋服屋を辞めてインターネットの事業に専念したい」と伝えた。これが僕にとって、最初の起業ストーリーである。

 紆余曲折(うよきょくせつ)あって、その会社は2000年に楽天(現楽天グループ)に売却した。幸い、順調に成長を遂げている過程でのバイアウト(事業売却)だったが、当時は珍しい例だったため、かなり話題にも上った。

 話題性を追い風にする形で、同年に2社目を立ち上げる。それが、現在のシナジーマーケティングだ。この事業を立ち上げたのは、洋服屋時代の成功体験がきっかけとなっている。店頭で売り上げを上げるために試行錯誤する中で、顧客データを記録し、データを基にお客様とメールでコミュニケーションを取ったり、お客様が好みそうな商品をメールで案内したりと、今で言うメールマーケティングを実践したところ、大きく売り上げが改善した実績があったからだ。

 「小さな街の洋服屋でもこれだけ成果が上がるのだから、様々な企業で活用できるのでは」と顧客データを用いた販売促進に注目し、CRM(顧客情報管理)システムを開発した。会社は順調に成長し、2007年に上場。さらに、 ヤフー(現Zホールディングス)から魅力的な提案が舞い込み、我々の成長戦略とも合致していたため、2014年には株式をすべて売却してヤフーの子会社となった。

 立場が雇われ社長へと変わっても、これまでと変わらず真剣にビジネスに向き合い続けた。ただ、会社売却から2年ほどがたった頃、「このままヤフーグループで働いていけるのだろうか」と考えるタイミングがあった。胸に手を当てて自問してみた時、資本を手放して以降、根源的なやる気を失っていることに気付いた。「今の気持ちのまま続けるのは失礼だしよくない」と思い、その意思をヤフーに伝え、2017年1月に退任した。

 退任してすぐ、新しいビジネスに向かう気にはなれなかった。若い頃から長らく会社を経営してきて、疲れていたからだろう。ビジネスから離れるように、趣味だった旅行に没頭するようになっていった。

 外国へ飛び、日本に戻ってきて予定をこなし、また別の国へ飛ぶという生活を繰り返して、世界50カ国ほどを旅行した。世界中の人がどんな生活をしているのか、何を考えて生きているのか。ずっと仕事に没頭してきた自分にとって、これらを知ることはとても刺激的だった。肩書など一切関係ない世界で、ただ1人の日本人として僕を受け入れてくれることもうれしかった。心地良い自由さを感じながら、旅行にのめり込んでいった。

後半戦はやりたいと思うことを全部やる

 しばらく旅行漬けの日々を送っていたが、2019年にオーストラリアへ飛んだ際、自分の心境の変化に気付いた。シドニーの空港に降り立った時、何の感動も抱かなかったのだ。まるで、大阪から東京への出張と変わらないような気持ち。そのまま旅行は続けたものの、最後まで心を動かされることはなかった。

 「ああ、もう旅行に飽きたんだな」と実感した。後から振り返ると、自分の娯楽のためにお金を使い続けるのは、もう終わりでいいと思ってしまったのだろう。旅行をしていると、当然ながら渡航費や宿代などにお金を払う。その行為で楽しさは買えるけれど、それは僕にとってはもはや浅はかな喜びでしかなかった。

 一方、仕事は自分のためではなく、お客様のために行う。お客様に喜んでもらうために必死になって仕事をするし、最後に「ありがとう」と言ってもらえたら、すごく大きな喜びを感じられて、自分の存在意義も確認できる。『山月記』の著者である中島敦が、「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」という言葉を残しているが、同じようなことを当時感じた記憶がある。

ビジネスの世界に戻ろう。決意して、帰国した。以下割愛

谷井 等(たにい ひとし、1972年6月2日 - )は、日本の実業家(シリアルアントレプレナー)、創業間もないベンチャー企業に資金を供給するエンジェル投資家。大阪府出身。 大阪市西区九条出身。紳士服店を営む家に生まれる。インターネット・バブル期の1997年に、神戸大学経営学部で同期だった中村崇則ら… - 2023年4月13日 (木) 01:38

シナジーマーケティング

マーケティングシステムである「Synergy!LEAD on force.com」の提供を開始。 2013年セールスフォース・ドットコムとVAR契約を締結した。 2015年1月5日にヤフー株式会社の完全子会社となったが、2019年7月に創業者の谷井等が全株式を買い戻しヤフー傘下から離脱している。…

- 2024年2月20日 (火) 15:10 ウイキペディア















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