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「哲学」とは何かの哲学

作家に必要なのは哲学か?


三島賞に朝比奈秋さん 山本賞は永井紗耶子さん
共同通信 / https://news.infoseek.co.jp/article/kyodo_kd-newspack-2023051601001434/?tpgnr=life  2023年5月16日 21時1分

第36回三島由紀夫賞、山本周五郎賞(新潮文芸振興会主催)の選考会が16日、東京都内で開かれ、三島賞は現役の医師でもある朝比奈秋さん(41)の「植物少女」(朝日新聞出版)に、山本賞は永井紗耶子さん(46)の「木挽町のあだ討ち」(新潮社)に贈られることが決まった。

 朝比奈さんは1981年京都府生まれ。2021年に「塩の道」で林芙美子文学賞を受け、同作を収録した「私の盲端」で翌年デビューした。
 永井さんは1977年静岡県生まれ、横浜市育ち。新聞記者などを経て2010年「絡繰り心中」で小学館文庫小説賞を受け、デビュー。22年の「女人入眼」は直木賞候補になった。
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という何時もの文学賞受賞者"のニュースでした。ちまたクリエイター(note)の皆さんは、金科玉条、日々ストイックな生活と、それを目指して精進している訳で、換言すると人生の中での大博打をしている訳ですから、その目標があって生き甲斐もある、ということで、その「当りはずれ」次第では、人生が狂うこともありますね。

そこにある、なにか特別な芳香をさがし求めて

文学の分野ではなくて、それでも何かしらの縁というのもが本人に影響することも多々あるようです。

先日亡くなった「坂本龍一」氏の父親が、出版社編集者で、その若き「三島由紀夫」を世に送り出した敏腕編集者であったことが後日談の中にあって、成る程と、刹那に納得したものでした。

音楽と文学とでは、嗜好も違えば感覚も違いますが、優れた才覚者からすれば、何が本物か、という察知能力が格段に優れていて、さッと分別する能力に長けているのでしょう。

そのまったく反対の私などその典型ですが、どう思ってみても自分がスターだ、という意識過剰から離脱することもなく、仮想とか桃源郷のような、ありもしない空想世界を作るのは十分ですが、実際のはなしになると、その「絵空事」が、ただの一度も換金に至ってないというただの凡人、を自覚しないという致命傷は死ぬまで着いて回るのでしょう。

そんな諸々を抱いて日々、漫然と生活してますが、このネット世界という奴は、そんな個人心象などまるで頓着しなくて淡々と過ぎっていく、感じがします。何しろ仮想ですから、この記事にしたって、購読者向けに書いている訳ですが、そもそも、その相手が誰なのかという不特定多数という個人集団としてのマスメディアは、まったく理解することができないのがホンネです。だから、その対処として「匿名」があって、向こうがしらないんだから、こちらも目隠しして、そんな感覚なのでしょう。

だから、私のIDが漏洩していて、勝手に使われてます、というポータルから忠告されますが、そのIDとパスワードを変更することによって、その紐づいたサイトの立て直しとか、新規パスワード変更したことの煩わしさが、その数倍もあることを考えたら、だったら最初からなにもしない、と云うことになる。

またnote記事を書くにしたって、ほぼ自分の事しか書けないし、それ以外だったら既成記事を、さも自分らしく書いたというテクニックが必要で、このところのChatGPTなんてのは、ちまた舌足らず人間にとっては重宝するでしょう。それでも今は、初期ですからいいとして、半年もすれば、そのChatGPTの使い手がSNSネットを席捲して、その、いまのYouTuberのように熟練者が生き残るというイタチごっこなのです。

いや、どうしようもない~、それだけです。インターネットとは、所詮そんな世界じゃないかと、最近思い始めました。

■(昨日、「夜明け前」ですが、長くて1.2までしか書いてません。よく読んでみると日本歴史が、そこに書いてあり小説というより歴史ドキュメントですから、折をみて全巻アップしたいとおもっています。 著者)

2023年05月16日記事

哲学を語るのにマニュアルはない

意見がないなら対話しちゃいけない、なんてない
2022/02/10 永井 玲衣 cLIFULL .

日本全国の学校や企業、寺社など幅広い場所で哲学対話の活動を重ねてきた永井玲衣さん。哲学対話はその場ごとにテーマを設けて、複数人で話しながら思考を深めていく活動だ。数え切れないほどの回数を重ねながらも、未だ「対話は怖い」という永井さんだが、ではなぜ活動を続けるのだろうか。哲学対話、そして他者と話すことの怖さと面白さについて話を伺った。

「論破」……議論して他者の説を破ることを指す。2015年には、毎年恒例のユーキャン新語・流行語大賞の候補として「はい、論破!」の語が入っていたし、ここ数年のSNS上でも、互いを論破しようとするようなやりとりをよく見かける。論破は、他者を言い負かすことが目的であるため、基本的には相手の意見を否定する姿勢をとる。
こんなブームの一方で、密かに、しかし急速に日本で広がり始めているのが「哲学対話」という取り組みだ。答えも正解もない哲学的問いをテーマに、複数人で話し合う。最後に何かまとめがあるわけでもない。スピード勝負で短絡的な答えが拡散されたり、明確な主張が求められがちな現代において、この取り組みは改めて対話の重要性を提示してくれる。
この、哲学対話の場を日本全国さまざまな場所で開いてきたのが、哲学者の永井さんだ。もともと他者との対話は苦手だったと話す永井さんが、哲学対話の場を開く理由は一体何なのだろうか。
対話で大切なことは、みんなでその場を「ケア」すること大学に進学し、哲学科に通うこととなった永井さん。当時は本の虫で、生身の人間との関わりよりも本の中の世界に没頭することが多かったという。そんな永井さんが哲学対話に出合ったのは、ある先輩からの誘いがきっかけだった。
「当時は、本の世界に居場所を見つけて、生身の人間ではなくて、すでに亡くなった本の著者や物語の中の人物とばかり対話していたんですよね。そんな中で、大学の先輩に哲学カフェに『人が足りないから』と誘われました。嫌だなと思いながらも参加してみたのですが、私は一言もしゃべれなかったんです。終わった後の雑談さえもうまく話せなくて、自分の言いたいことも言えない、分からない自分自身にびっくりしました」
永井さんが初めて参加した哲学カフェで、対話のテーマとされていたのは「自由とは何か」だ。大きくてシンプルなテーマだ。しかし、そんなテーマで話してもなお、他の参加者が言っていることが簡単には理解できないこと、さらには自分の考えさえも分からなくなるといった経験に、改めて他者との対話に難しさを感じたという。
「今でも対話は、基本的には不快な経験だと思っています。他者は思わぬことを言ってくるし、それを怖がっていたのですが、それに加えて自分自身が分からなくなることも怖い。本の中と違って安住できないし、快適でいられるとは限らない」
他者と話すことで「私」の言葉がつくられていくそんなふうに感じながらも、永井さんは現在、日本全国の学校や企業などを対象にさまざまな場で哲学対話を開いている。さまざまな定義のある哲学対話だが、永井さんが考える哲学対話とはどんなものなのだろうか。
「哲学対話にはいろんな定義がありますが、私は普段生活していて過ぎ去ってしまうことや当たり前だと思っていること、思い込んでいることに対して、あえて立ち止まって『なんで?』と、人々とともに問うてみることだと思っています。日常生活の中で一瞬頭をかすめているはずなのに、すぐに忘れてしまう問いを、他者とともに考えるのが哲学対話なんです」
哲学対話にはマニュアルがない。誰でも開くことができ、それぞれの場ごとに「ルール」が設定される。このルールの存在によって、一般的な会話と違う哲学対話の場がつくり上げられていく。永井さんが哲学対話の場を開く上で参加者へ伝えることは「よくきく」「偉い人の言葉を使わない」「“人それぞれ”は無し」の3点だ。

「私はルールというよりは、『みんなで気にしてほしいこと』という言い方をしますが、一番大切なのは『よくきく』ことです。話すのも難しいのですが、聞くこともすごく難しいんです。相手の話をじっと『聴く』ということも大事なのですが、さらに相手が何を言おうとしているのか、どうしてそう思うのかについても『訊く』。『偉い人の言葉を使わない』のは、例えば古代の哲学者・アリストテレスの言葉などではなく自分の言葉で考えましょうということです。そして、『人それぞれは無し』は、例えば自由とは何かについて考える時『人それぞれでしょ』と言ったら対話が終わってしまいますよね。人それぞれなのはゴールではなくてスタートです。だからこそ私たちはわざわざ集まって考えるのだと思うんです」

先にも述べたように、永井さんは対話を「不快なもの」だと語る。しかし、それでも哲学対話をしようとするのにはどんな思いがあるのだろうか。初めての哲学対話での衝撃から数年、活動を重ね感じることがある。
「私が哲学対話を体験して大きく感じたのは、他者によって自分の言葉が引き寄せられるっていう感覚だったんです。私たち一人一人は強い主体で、合理的に理性的にモノを考えられ、トランプのようにいくつもカードを持っていて、意見をぶつけ合うことができるという議論モデルの考え方がありますよね。すでに割とはっきりとした答えや意見を持っていて、だからこそ私たちは戦える、というような。でも、哲学対話をしてみると自分の意見が分からなくなるんですよね。そんな中で、他者からの問いに応答するという、受動的な経験を経て初めて自分が形作られていく感覚があるんです。暗闇の中で誰かに腕をつかまれて自分の存在を感じることに近いです。
論破をしたくなる時って、そんなふうに他者から問われたり触れられたりするのが怖い時だと思うんです。だから相手を『モノ』化して、意見をぶつけてしまう。他者によって変容していく自分のことも同時に怖がっていると思います。そんな時私は、『対話はつらい、だから、話そう』と言いたくなるのかもしれません」
「大丈夫」だと思える場所をつくるために哲学対話は文字通り、「哲学」する場所でもあり対話する場所でもある。対話に似た言葉に会話や議論などがあるが、そのどれも少しずつやることが異なってくる。哲学対話に限らず対話の場において、永井さんが重要だと考えるのは「ケア」の感覚だという。
「私たちは、思ったことを安心して話すことのできないような危険な場では生き生きと対話ができない、もろくて弱い存在だと思います。哲学対話のご依頼を頂いた時に、その組織の課題を聞いてみると『若い人が話せる雰囲気じゃない』『偉い人しか意見を言えない』などと言われることが多いんです。そんなふうに対話の準備ができていない場所って世の中に無数にあると思います。
だからこそ、対話するためにはまずその場を『大丈夫』な場所にすることが重要です。『大丈夫』な場所というのは、何を言っても傷つかないというわけではなく、もし傷ついたとしても立ち直れたり、誰かに頼れると思えるような場所です。
もともと完全に『大丈夫』な場はほとんどなくて、それは対話に参加する人みんなでつくり上げていくものです。そのために周りを気にする、つまり『ケア』することが必要になってきます。誰か特定の人だけではなくて、その場全体を気にかける。みんなは話しやすいだろうか、話すだけではなくて考えやすい場所になっているだろうか、そして私はこの場所にいて大丈夫だろうか。そんなふうに緊張感を持って行うのが対話だと思います。対話によって変容していく自分を知り、今いる環境を『ケア』する、そんな感覚を知ってほしいと思って哲学対話の活動をしています」
取材の後、筆者は実際に永井さんが開く哲学対話の場に参加させてもらった。互いのささいな言葉に引っかかりながらも、参加者皆でその場全体を「ケア」しながら進む哲学対話の後には心地よい疲労感が残る。まとまらない言葉を発しながら、他者との対話によって自分の考えが形作られていく感覚に、どこかしら懐かしさを覚えた。はっきりとした答えが求められることの多い毎日の中で、今こそこういった体験が必要なのかもしれない。
どんな人でも、完全にオリジナルな意見なんて持っていないのではないでしょうか。意見や考えは、誰かの影響を受けて、みんなによって形作られるものなんです。対話が怖いと感じる時、もしかしたら人は明確な主張を持っていないことでためらったり、後ろめたく思っているかもしれませんね。でも、誰かと対話することによって「私」がつくられていくんです。対話はつらい、だから、話しましょう

取材・執筆:白鳥菜都撮影:服部芽生

永井 玲衣 Profile1991年、東京都生まれ。哲学研究と並行して、学校や企業などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。
Twitter @nagainagainagai​HP はい哲学科研究室です



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