「卑屈の星」になるかあ
こんな自分になりたい
理想主義な私には、理想の人物像もいろいろある。
夢や目標といってもいい。
さらに具体化してみると、理想の人物像はこんな感じ。
一言で表すと、「周囲に良い影響を与えられる人」ってところだろうか。
ああ素敵な人だな、こんな人は皆から好かれるだろうな、こんな人になりたいな、と思う。
一方で、現実の私はいかに。
あふれ出る卑屈……
こう並べてみると、理想と現在地の距離の遠さをまざまざと実感する。
すると、理想から遠いのはわかった、でも遠くても目指す努力をすればいいじゃん、と。
そんな声が聞こえてくる。
こうなりたいな、こんなことがしたいな、と思ったなら、それで終わりにせず、実現に向けて行動する。ここ数年の私は、そういうエネルギーの使い方をしてきた。
意志の力で人は何にでもなれる。
そう信じているけれど、内に存在する現実の自分を無視できないのも確か。
まずは行動からと、理想の振る舞いを真似てしばらく、他人を演じているような窮屈さは一向に消えない。
雑談でいくら注意深く言葉を選んでいても、ふとした瞬間に卑屈な反応をしてしまい、ああ今すぐ空気に溶け込みたいと思うこと数知れず……
そうなると、認めざるを得ない。
どうやら理想の自分像は、今のありのままの私には、合わないみたいだ。
どうしたら幸せになれる?
幸福学(ウェルビーイング)をかじってみたことがあるのだが、その領域では「4つの因子がバランスよく備わっている状態」が、長続きする幸せな状態と定義している。
この考え方を初めて知ったとき、素直に「自分には欠けている要素ばかりだな」と思った。
自己否定しがちで、一人を好み、悲観的で、周りの目が気になってばかり。
だから私は幸福感を感じにくいんだろうな、というのも腑に落ちた。
実際、卑屈な自分には、もうほとほと嫌気が差している。
理想の「周囲に良い影響を与えられる人」はまさに、この幸せな状態を継続しやすい人だ。
そんな人で在れたなら、きっと幸福を感じやすい。
ああ、元々幸せを感じやすい特性をもった、素晴らしい性格に生まれていたならどんなによかったか。そう願い、嘆かずにはいられない。
でも、こんな自分は変えられず、一生付き合っていくしかない。
そんなことはもう、これまでの人生でよくわかっている。
ただ、やっぱり自分はダメだなぁと思うばかりの日々だけど、多少はえらいというか、やるじゃん、と思えるところも、実は少しある。
それが、幸せへの執着が強いこと。
私には、どうしても幸せになりたいという強い願望がある。
何度も何度も挑戦して、挫折して打ちひしがれて、それでも「幸せになるために乗り越えなければ」と、最終的に成功にこぎつけた経験がある。
自分はダメだと嘆いて腐って投げ出した方がよほど楽だろうに、幸せになるために頑張る気力はあるんだな、と。
何もできないと思っていた中で、こんなにしぶとく粘れる自分がいたことに驚き、少しだけ自分を見直す気持ちが湧いた出来事だった。
その時の話は、またいつか書ければと思っています。
とことん卑屈で幸福感を感じにくい自分と、
それでも絶対に幸せを諦められない自分と、
どちらもが、どうしようもなく確かに内にある。
今日も明日も、私は卑屈なりに、幸せな人生のやり過ごし方を模索し続ける。
積極的で前向きで、自信があって。
そんな素敵な、かっこいい人になれたらよかった。
でも、私はそうじゃない。
その星の下には生まれていない。
その道で幸せにはたどり着けない。
なら、違う道を探してみよう。
私は、私のままで。
卑屈な人間でも絶対に幸せになれる、と。
いつか、自分みたいな誰かに伝えられるようになったらいいなと思う。
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