「みぎて」のはっけん

右手って自分から見て右にあるわけですよ。当然のように。
「右」って概念や定義の話をしたいわけではない。
私たちにはごくごく当たり前のように右手と左手があって、それを動かして何かをすることに疑問など感じない。
右手を見たところで、たぶん、とくに、何も思わないと思う。
怪我をしていれば「あ、怪我してる」と思うだけだし、右手が視界に入ったところで何も考えないだろう。
たぶん、「右手とは」とあえて考え込むのでなければ、なんとも思わない。

先日、友人の家に遊びに行った。
生まれてふた月経たないくらいの赤ちゃんがいる。
赤ちゃんの成長って本当に早い。
すくすく育つ、そんな表現があるけれど、まさに言い得て妙だなと思う。

赤ちゃんって、よく見ていると、両腕や両足をじたばたうごうごしているけれど、どうやら私たちのように自覚的に動かしているわけじゃないようだ。


別の友人の赤ちゃん(この子は生後3ヶ月だった)はもうすでにうつぶせになって、うごうごしている。
「なんかこれ、腕が動くようになったらきっとはいはいするんじゃ???」
そんなことを、見ていて思ってしまう。
ちょっと遠くにあるおもちゃに手を伸ばそうと、じりじりうごうごと近づいていく。この赤ちゃんは右手をむいむいと伸ばしていたのだが、肝心の左手がうつぶせた体の下に入り込んでしまっていて、体がうまく前に進まない状態だった。足もうごうごしているのに。

あとちょっと!
もうちょっと!

私と友人はそう思いつつ拳を握りしめ、じっと見守る。

……残念ながらおもちゃに手は届かなかった。
届かなかったことが悔しかったのか、それとも思うように動けなくて悲しいのか、はたまた左手がしびれたのかはわからない。赤ちゃんはみるみるうちに大きな口を開けて泣き出した。
母たる友人は、届かなかったおもちゃをそっと赤ちゃんが見えるように右手近くへ差し出した。
しばらくすると、きょとんとしたように、ふつりと赤ちゃんは泣き止んだ。
おもちゃはつかんだ。


さて。
生後約2ヶ月の友人の赤ちゃん。
まだうつぶせにはなっていない。
日常的に赤ちゃんを見慣れていない子育てのイロハもわからない私からすると、首が座ったらうつぶせになれるのかどうかすらというくらい、わかっていない。

この赤ちゃんはよく左手をうごうごしている。右手も動くけど、左手に比べると小刻み。
そのせいか、友人は「たぶんこの子、左利きだわ」などと言う。彼女、左利きなのだ。
じっと見ていると、左手の動き、なんとなくライブとかでペンライトを振っているような仕草にも見える。実際は鈴かな、それがついたバンドをしている。左手を動かすたび音がちりちり鳴る。

友人は赤ちゃんのお世話を適度にしつつ、私とおしゃべりをしていた。
けっこうな時間、一緒にいた。
うごうごしていたはずの赤ちゃんが突然止まった。鈴が鳴りやんだのだ。
あやしがりて、よりてみるに、(竹取物語風に)
じいいいいぃっと、右手を見つめていた。
「あ、この子、いま右手発見したわ」
友人があっさりと言った。
赤ちゃんのつぶらな黒い目は、ただ右手だけを映し出していた。
まるで驚いたように、目を見開いて。
左手を積極的に動かしていたのは、左手があると認識できていたからじゃないかと友人は続けた。
「左手はね、もう発見してたんだよね」

みぎての、はっけん。
ひだりては、はっけんしてた。

なんかすごいこと言われた!!!!

そう思った。
私たちはもう成人してだいぶ久しい。
新しく発見することって、何か未知のことに行き当たらないと、なかなか出会えない。
というか、「発見」って。
今まで知っていたことでも新たに<知った>とか<見えた>とか認識できないと「発見」だなんて言葉に結びつかない。

赤ちゃん、すごいな。

それと同時に、友人、すごいなって思った。
もしかしたら赤ちゃんと毎日一緒に過ごしているからわかることなのかもしれないけど。
それを赤ちゃんがきちんと「発見」したことを、彼女もきちんと「発見」しているという事実に。
当たり前のように私たちが行うことを、「発見」だと言える彼女がとてもすてきだなあと。

みぎてのはっけん。

友人の旦那さんごめんなさい。私は一切お世話もしてないのに、そんな「はっけん」の瞬間を見つけてしまった……。
そんな少しの罪悪感より、「みぎて」のはっけんの瞬間を見つめてしまったことへの驚きと喜びが勝ってしまっている。
きっと、私はこの感動を、きっと何年経っても忘れられないんだろうなぁ。

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