見出し画像

ぬるいコーラ

小学生の頃
よく母親方の親戚の家に遊びにいった。
小さい平家でおじいちゃんおばぁちゃんしかいなく
特に面白い遊びもなかったが、唯一喜ばしかったのがお小遣いをもらえることだった。
その僅かなお小遣いを手に近所の商店街に駆り出す。
3つ年上の姉と。

親戚の家は商店街に近い。歩いて6分ぐらい。
夏休み遅い週に行くと丁度秋祭りの時期に当たり商店街には赤い提灯がぶら下がり何台か祭りの山車が太鼓を鳴らして闊歩する。田舎のお祭りは規模は小さくとも意外と盛り上がるものだ。
子供目線でいうと、親戚の家は自分の家より都会だった。商店街には色んな店があり僕らがいつも行くのは大体、本屋とCD屋と駄菓子屋だった。
駄菓子屋で僕がいつも挑戦した「コスモス」というおもちゃが出てくる高額自販機。そう。僕が貰ったお小遣い500円はこの自販機一回で無くなる。それなのに僕はコスモスに夢中だった。コスモスの自販機ショーケースにはこんなのが当たりますよ、とそそる物ばかり並んでいて、飾ってあるとそれが当たるもんだと信じていた。そのショーケースを一旦見てしまえば最後、そのレバーを下げる数秒で笑か泣きかが決まる。一瞬で。

大きな音がして景品が落っこちてくる。
数ある駄菓子屋のお菓子より、数ある駄菓子屋のおみくじより、僕は何故かこのコスモスの一発勝負にかけるのが好きだった。まあ、結果はいつもハズレのしょーもないオモチャが出できて負け勝負になるのがオチなのだが。
何故か駄菓子屋の入り口に置いてあるコスモスの前に行くと「今度こそは、当たる」気がした。
そんな僕を姉は「どうせ外れるからコスモスやめなよー。毎回毎回お金もったいないわ」と女らしい現実的な言葉を発してくる。
コスモスのレバーを下げるあのドキドキの緊張感は子供心にたまらなかった。。
今度こそは!と引くレバー。「ガタン。」と出てくる景品は音の割にしょぼいものだった。
結局何回も親戚の家に行くとコスモスをやったがこれと言って良い思い出はなナイ。コスモスの自販機の前に立ちコスモスの景品が飾られたウィンドウを見るとどうしても当たる気がしちゃうのは不思議な感覚だ。その都度のウィンドウの飾り方が子供心をくすぐる仕掛けになっていたのだろう。
まんまと僕はコスモス社の餌食になったという訳だ。
その点、姉はしっかりものでありお金を使い切る僕を尻目に500円あるうちから200円ぐらいのものを買い、残り300円を貯金するのだ。
姉は小さい頃の思い出も振り返ると堅実だった。
この調子でお金を貯め、たまにドカンと大物を購入する。CDプレーヤーや服などだ。その反対で僕にはそれが出来なかった。お小遣いをもらうと手に持ったものをすぐあるだけ使ってしまう。小物をコツコツと消費し、いつも僕は大した事ないものしか買ってないことに気づくが、どうしても姉のようにはお金を貯められなかった。
そして今大人になっても同じことを繰り返している。
なので、たまにドカンと大物を姉が買ってきた時はとっても羨ましく悔しい思いをした。でも僕には出来ない。

一瞬の買い物を外すとお金が無い僕は本屋へ行ったりCD屋へ行き最新作を一応チェックした。
当時はインターネットも無い、情報は脚で掴み取るものだった。本屋へ行き新しい物へドキドキする。CDもそうだ。ジャケットを見てこの音楽はどんな曲なんだろうとウキウキする。タワーレコードのように視聴も出来ないから想像が頭でメロディを奏でた。
親戚の家は小川のすぐ近くにあった。
親戚の叔父(母の父)はよくそこに釣り糸を垂れて遊んでいた。大抵何も釣れないのにだ。
叔父に
「なぜ釣れないのに釣り糸を垂らすの?」と聞くと、「釣り糸を垂らしている時間が好きなんだ」と答えた。流れる小川を見ているのが好きなんだろう。照れ屋の叔父には釣り糸はダミーなのだ。叔父が釣り糸を垂らすのを姉と見ていたら、僕らが退屈にしているように見えたのか、叔父は釣竿をしまい家に帰り僕たちを自分の部屋の中に案内してくれた。今思うと叔父の部屋に招かれたのはその時ただ一度だけだった。
叔父は押し入れを開けると下段からひとケースの瓶コーラを引っ張り出してきた。赤いプラスチックの箱に瓶コーラが満載積んである。叔父はその中から2本の瓶コーラを取り出し栓抜きでシュポンと開け僕らによこしてきた。「ほら飲め」叔父も一本開け一緒に飲む。押し入れから取り出た瓶コーラはぬるかった。喉が渇いていたがぬるいコーラははじめてだった。姉と顔を見合わせてお互い言葉を交わさないが「ぬるいよね、」の交信は通じた。叔父にはぬるいじゃないの、とは言えなかった。これは叔父の〝おもてなし〝という好意だ、不満は言えない。一本目を飲んで、ごちそうさまと言い部屋を出るつもりでいたが、一本目を飲みきるか飲み切らないかのタイミングで叔父は目計らったかのように2本目をシュポンと開けてきた。えっ、、とまた姉と顔を見合わせる。勧められと断れないのが人間の心理。そのまま2本目にも手をつけてしまう。流石に1本目よりペースは落ちたが飲み切れた。お腹がゴポゴポする。2本目を飲むのに集中して気が付かなかったが叔父は既に3本目のコーラを開けていた。2本目を飲み切ると3本目を渡してくる。〝なんだ、これ。〝まるでわんこそば大会じゃないか。。ゲゲーとゲップが出た。ゲップもぬるい。ぬるいコーラは甘い味があるせいで不味くはなかった。ただ、ぬるい違和感と炭酸がぬるい分冷やされたものと違い何倍にも膨らんでいる気がした。それだけ腹がパンパンになっている。ゲップも大きく出る。叔父は飲んではゲップをする僕らを見て面白そうに見てニヤついていた。3本目の途中で一息つく。姉も同じだった。それなのに叔父は4本目の栓を既に抜いていた。これじゃまるで宴会だ。コーラで囲うボジョレヌーボー今年物解禁試飲会のような。おつまみは何も無い。コーラいっぽん勝負。味も一種類のみ。ゲップを我慢すると一体人間の身体はどうなってしまうのだろう。
4本目を飲んでお腹を撫でて床にうずくまっていると母親が叔父の部屋に入ってきた。
瓶コーラの赤い箱を囲んで僕らが座っている状況と、空になった瓶の尋常では無い残骸を見て母親は驚いていた。「お父さん!何飲ませてるの!酒飲む相手がいないからと言って子供達を相手にしないで。」と一喝。。
どうやら叔父は寂しかったようだ。
昔はよく友達を呼んでこんな感じで瓶ビールの栓をシュポンと抜き宴会をしていたようだ。今は無いその過去の宴会の模様を擬似体験して遊んでいたようだ。子供の僕らをつかって。そして瓶コーラだ。栓をシュポンと抜くのも楽しかっただろう。
叔父の家から自宅に帰る車の中は瓶コーラの飲み過ぎで具合が悪くなった。そりゃそうだ。小学生の体格で一本190mlの瓶を4本飲んだ。お腹はほぼコーラでアップアップだ。車の振動でお腹の中の炭酸が刺激される。このまま車内でもどしてしまえば悲惨な事態になる。
車の程よかな振動のせいか姉も同じだった。家に帰りしばらく炬燵の横で横になって動けなかった。瓶コーラのダメージはなかなか大きい厄介な物だと知った。看護師の母が言うにはコーラのカフェインを摂りすぎたせいだろうと言っていた。瓶コーラは特にカフェインが濃いのだろう。電源の入っていない炬燵の側で横になりながら天井を見て叔父の楽しそうな顔を思い出した。あんなに楽しそうな叔父の表情ははじめて見た。いつも怖い顔をしていたからだ。
叔父はお腹具合はどうだろう。カフェインは効いてないのか、空になった瓶で足元を取られないだろうかしばらく気になったが僕は知らずのうちにうたた寝をしていた。眠気はカフェインより増して強い効力を発揮したようだ。
大人になった今たまにコーラを買って夏場は特にぬるくなったコーラをたまたま飲む時がある。
瓶コーラはあまり姿が見えなくなったが、缶コーラを飲んでいる途中、ベンチに置いて数分でも経つと既にぬるくなる。
そんな時僕はぬるいままでもグイッと飲む。
その味はあの時あの部屋で行われた叔父との唯一の思い出のコーラの味だ。いつ飲んでも忘れない。何本も飲んだあのぬるい瓶コーラはしっかりと嫌となるぐらい僕の舌に味は沁み込んでいた。
叔父が亡くなった日。
僕は中学生だった。第一限目の授業がはじまる時に担任の先生から「今すぐ帰るように‥」と通知された。僕は野球の部活動で脚を骨折していて松葉杖を付いて通学していたが、なぜかその日は脚が完治し歩けるようになったかも、と朝から友達と騒いでいた朝だった。松葉杖を使わないで歩いて調子にのっていた朝だった。
僕は叔父の訃報をきいてその時、瞬時に理解した。〝叔父が脚をなおしてくれたんだ〝と。
完治するにはまだ早いはずだった。それに急に治ることはないのだ。僕は朝から不思議に思っていたからだ。
叔父の葬儀には涙が止まらなかった。
身内ではじめての葬式であり、死というものをはじめて身近に感じ、生きること、死ぬことをはじめて意識した。大人になった今でもその時ぐらい泣いた事は無い。それだけ泣けた日だった。

今でも、瓶コーラをたまに見かけたらそのまま持ち帰る。
押し入れは無いが冷やさず飲むのもいい。
叔父の年齢に一歩一歩近づく今
その時の叔父の気持ちも段々と分かるようになるだろう。記憶はうすれていく。だから記憶を留めるようにぬるい瓶コーラを飲んで思い出す。
お腹は炭酸とカフェインで窮屈だったが、
今となればいい思い出だ。

この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?