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カゴの外で生きるということー映画「カナリア」

#映画感想文 #PS2021 #日々の生活 #カルト宗教

おかしな環境で生活していると、外の世界と比べて何がおかしいのかわからない。
考え方だけでなく、食事・服装・日課など「まともな生活と考え方」がわからないのだ。
例えば、学内テストを受けるときは制服着用する校則。家で家族と食事をするときは正座(正座しないと父親から殴られる)。
始業30分前に出勤して仕事の準備をしておく。

テストを受けるときは私服で構わないし、正座が辛いならテーブルで食事すればいいし、サービス残業だから始業時間から仕事を始めればいい。だけど、それがおかしいと思えない。おかしいと思えば呼び出され、体罰を受け、「あの人は働かない」と評価される。
おかしな環境と気づいていても、同調圧力で周りと同じ行動をする。

なぜおかしな環境と指摘されても、まともな生活と考え方に変えられないのか。
自分の中に染み付いている習慣や考え方は、ひとつでもなくなると喪失感に襲われ、不安をかき立てられる。
喪失感がその人を不安定にさせて、元のおかしな環境に戻っていく。
その人にとっての「まともな世界」が、居心地悪い自分の不安をかき立てる世界なのだ。
カゴのなかで飼っていた鳥を、急に野原に放しても生きていけない。
当然のことだがカゴで育った鳥は、カゴの外の世界の生き方を知らない。

映画カナリアのストーリーは、母親が崇拝したカルト教団「ニルヴァーナ」に、主人公光一とその妹朝子は母親とともに入団する。「修行」しながら数年過ごしたが教団は崩壊し、光一と朝子は児童相談所に保護された。
迎えに来た祖父は妹の朝子だけを引き取り東京に戻る。光一は朝子を取り返すために東京へ向かう途中、身体を使って稼ぐ由希という少女と出会う。父親から虐待される日々を送る由希も今の生活から抜け出したいと光一に伝え、2人で東京の祖父の家に妹を取り戻しに向かう。

カルト教団で生活している時光一は教団の教えに反抗的だったが、マントラを唱えて修行をする。
信仰を深めてないが、体罰や周りの行動に飲み込まれて修行が日常になっていく。
カルト教団から脱会しても、光一はマントラを唱え教義に忠実だ。
頭に触れられると「霊的エネルギーが落ちる」と激怒し、マントラを唱え続ける。
教義に反抗的だったが、度重なる体罰や隔離された生活で出来上がった洗脳が完全に外れてない。洗脳から外れると拠り所のない世界が広がっている。
それなら洗脳というカゴの中にいる方が安心できる。

日本脱カルト協会は、「脱会は困難で気持ちは簡単に切り替えられない」と述べている。
体罰や薬物を使って精神構造を変えられ、周りの人間関係から遮断して洗脳する。
一度変えられた精神構造を元に戻すのは困難を極める。
洗脳が解けても、社会生活に簡単に戻れない。財産はない、教団にいた年月は履歴書に書けない。元信者と知られると、まず雇用されることはない。さらに人間関係は全て断たれている。失った信用を取り戻すためには地道に生活を続けなければならない。
自分を支えていた教義を失い、虐げられる日々が続くと元の教団に再び戻り自分の信仰心を強くする。

由希は自分がいる環境がおかしいことは自覚している。父親からの虐待、裸を見せることでお金を稼ぐ、万引きをする。真っ当な生きていく手段を知らないけど、他に生活する手段を知らない。虐待する父親からも住む町からも出ていきたいと、出会った光一と一緒に東京に向かう。
由希のいるカゴの中は居心地が悪い。カゴの外には自分の住みやすい世界があると信じているが、カゴの外での生き方はわからない。
由希は光一に「どうするん?これから」と何度も尋ねる。光一ははっきりと答えられない。
「東京に行って朝子を取り戻して一緒に暮らす」と漠然とした答えしかない。光一はカゴの中でも外でも生き方がわからない。

ケンカしながら東京へ向かう途中で光一と由希は脱会した信者に出会い、ささやかな共同生活をしていることを知る。由希と光一は短い間だが、元信者たちが営むリサイクル業を手伝い生活を共にする。完全に洗脳が解け脱会したからこそ、過去に自分たちがやってきたことを後悔する。
おそらく今の落ち着いた暮らしを手に入れるまで、相当な困難があっただろう。
ニルヴァーナから脱会したといっても、誰も信じてくれなかった日々を送ったのだろう。
つつましいが他人を騙し陥れることをしない今の生活は、笑い声が絶えない穏やかな暮らしだ。

かつてシュローパという名前だった伊沢彰は、「おれはシュローパじゃない、伊沢彰だ。嫌いになったか?」と光一に尋ね、別れ際に「俺にとってニルヴァーナは夢だった、未来だった。修行によって自分を完膚なきまでに造り替え、いつかは世界そのものを造り替える事ができると信じていた。だけどそれは間違いだった。ニルヴァーナもまた一つの現実に過ぎなかった」と過去を述懐する。
そして光一に「お前は神の子でもニルヴァーナの子でもない、お前自身だ。だからこれからお前自身が何者であるのか決めなくちゃならない、俺が俺でしかないように、お前がお前である事に絶対に負けるな!」と伝える。

人間は弱いから何かにすがりたくなる。すがりついた先がカルト教団である可能性は圧倒的に高い。いつ洗脳されて自分で勝手に作り上げた正義で他人を傷つけるかわからない。自分自身が何者であるかを認めることは辛い。
平凡で凡庸な人間がどれだけ自分探しをしても、自分しか見つからない。その弱さにカルト宗教が漬け込んでくる。そして信じ続けないとと自分が壊れる恐怖を植え付けられる。

自分自身の無力さ/無能/凡庸さと対峙しながら生きていくのは辛い。自分自身と向き合うことほど辛いことはない。だから自分の作ったカゴの中だけで生きていく者がいれば、自分を全肯定する団体や根本から変えられる団体に依存して生きていく者もいる。
自分の弱さを社会に責任転嫁せずに生きていく。伊沢の「お前がお前である事に絶対に負けるな!」は、強い自分であれという励ましではなく、弱い自分も認めろということだろう。

カゴの外で自分と向き合って生きていく。カゴの中も外も現実だ。
思い通りにいかない人生を、自分と向き合って生きていく勇気と力は自分でなんとかしなければならない。
弱い人間と他人を非難するのは簡単だ。それは自分の弱さに気づいてないか、カゴの中でしか生きられない人間だろう。

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