ひと粒の星屑よりも
Twitterを始めたのは大学生の頃で、なんだかんだミーハーな私はいつもどこかで「いいねをもらえる私」を夢見ていた。起きた出来事をつぶやくにも、好まれるのはこんな感じかな、とか、ここらでちょっと抽象的かつセンチメンタルな内容でもぶっこんでみようかな、とか、すぐに飽きて言いたいことしか言わなくなるのだけれど、時にはミーハー心から作為的なつぶやきをしたこともあった。
だから時々鞍替えというか、つぶやくジャンルを変えることがあって、文学かぶれなつぶやきを続けたタームのあとには仕事嫌いで残念な日々を軽々しく述べたり、と思えば読んだ本について小難しく語ってはアニメについて延々と叫んでいたり。多面体を転がして次の面を表に出すように、自分の部分部分を時期ごとにわけてつぶやきに昇華させていた。
でも、飽きる。私が極度の飽き性なのもあるが、すぐに面倒さや息苦しさを感じてしまう。でも理由なんて明確だ。人間なんてみんな多面的であるはずなのに、無理くり一元化させて統一させようという願いを持つこと自体が傲慢なのだ。
すきにすればいい。本を読む私もアニメを見る私も私でしかないし、格好をつけたい日もあれば残念さを笑って慰めてほしい日も巡ってくる。私をまじまじと見ている人なんていないのだし、ちっぽけな自分がちまちまと削り出した「見せたい自分」なんて星屑のようなものでしかない。
星はガスと、そのガスのもえカスからできているらしい。無形の、よくわからないものたちの集まりで成り立っているだなんて、少し意外だ。あれだけの夜空でやっていくには、何でもかんでも集めて自分を形作る必要があるのかもしれない。それならばなお、小さな小さな輝きを求めるのはどれだけ矮小な行為なのだろう。
ちっぽけな私を形作る、どんな欠片も余さず注いで、やっと星がひとつ生まれる。茫漠たる宇宙の中では、そういう丸ごとの生き様こそが輝けるのかもしれない。
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