言葉にしきれる虚構
時間にゆとりがある時、何もしなかった時間に後ろめたさを感じる日が続いた時には、何かものを書かなくてはいけない気持ちになってしまう。
昔からそうなのだ。無為に日々を垂れ流す己を、自分が一番許せないでいる。だからせめて、何か書いているときだけは自分が自分を認められる。ある意味猶予のようなものだ。
本音を言えば、言葉にしきれぬほどの何か腑に落ちないものを物語に仮託して語れればいいのだけれど、生憎私にはそれだけの度量もないので考え事のような言葉だけをひたすら垂れ流すばかりである。小説家になれたらと安易にも憧れてしまい、自分の生産性のなさにため息をつきたくなる。
それにしても人はどうして、語るための手段に虚構を含めたのだろう。言いたいことは全て言葉に直接乗せてしまえば済むようなことも虚構の世界に描かれることがある。一層の肉薄感が増すからなのか、虚構の構築に必要な多少の現実との接合点として機能を果たしているのか、言いたいことは言葉で片付けられてしまう私には見えてこない部分である。
1を1と書くしか能のない私が感じる後ろめたい義務感など、虚構の中の石ころひとつにだってなれやしない。けれどそんな「何かを書いている私」という虚構の中に、私だって「何かをしている私」を見出しているのかもしれない。
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