見出し画像

意味は後から分かるもの

三連休明けの怠い朝、いつも乗る電車が大幅に遅れていて、少しほっとする。このくらいでいい。私は弱っちいから、遅延や台風や雪で遅刻する度に叱られるような職場は向いていない。転職して4年3ヶ月、電車が遅延していてもドキドキせずに出社できるようになった。眠くて仕方ない日は、いつもより一本遅い電車(駅から会社まで小走りでないと間に合わない、少しでも遅延したらオワる時間に到着する電車)をなんでもない顔して選べるようになった。私の路線は遅延が多いから、私が遅刻してくる度に、隣の席の「軽率に線を踏み越えてくる」同僚がうるさいのだけれど、それだけが煩わしいのだけれど、何言われたって、それはあんたにとっての正しさであって、私には関係ないでしょう、って気持ちでいることにする。始業20分前には駅に着くように起きて家を出てんだよこっちは。それ以上は私がどうにかできる範囲じゃないし、しない。しなくていい。

どんな素晴らしい人と付き合ったって、一度纏った孤独感は霧のように一生晴れないって堅く信じていたのとおんなじで、どんな環境でどんな仕事したってきっと私は文句言うし、苦しむのだ。気持ちが疲れたな、って思ったら比較的すぐに休みがとれて、退勤後の自分の世界に侵食してこない仕事。自分の「いつも通り」を守れる仕事。生活の土台の部分を揺るがさない仕事。それで十分じゃん。仕事楽しそうな人、忙しそうな人、向上心持って一所懸命な人見て、薄暗い気持ちにならなくていいよ。豊かってことじゃんか。自分をすり減らさずにそこそこお給料もらえて何不自由なく暮らしていけるなんてさ。入社した時、あんまり仕事が退屈で絶望していた私に、整体の先生が言ってくれたじゃんか。「きっとその会社入ったのも意味があんのよ、今は自分に時間を使いなさいっていうお告げかもよ」。当時「目の前の人を喜ばせられる仕事」に就くことが目標だった私はひどく気落ちしていたけど、先生の言葉を噛み砕くうち、知らない人なんて私にとってはどうでもいいし、すぐそばにいる大切な人だけ幸せでいてくれたらいいと思うようになった。そんで、有り余る時間で部屋を整えたり、note書くのに精を出したり、たまにケーキ焼いたり、平日昼間に友達と会ったり、恋愛してはうまくいかなくてくだ巻いたり、親と揉めたり、しょっちゅう実家帰ったりした。そうこうしているうちに、そもそも自分が自分自身を幸せにできていないことに気がついた。「人のこと幸せに」なんて余計なお世話。みんなそれぞれがんばって生きてんのに、自分のこと満足させるだけでも大変なのに。

私は私のこと幸せにするために働いている。衣食住に困らず、たまに美味しいもの食べたり、旅行したり、欲しい本買ったり、ライブのチケットとったりするために、きっとお金を稼いでいる。職場のギャルの先輩、「私は美容にお金かけるために働いてる」ってハッキリ言い切ってて最高だった。そういうのがいい。そういうのでいいんだと思う。生きる意味を仕事に求めなくていい。これは否定ではなく冷静な分析なのだけど、私は普通の会社では働けない気がしている。どこに行ったってほどほどのポジションにはいられると思うよ。昔からそうだった。何度転校しても、どこへ行っても、不思議とその時々の環境における「中の上」をいつも維持していた。それも自他の境界の薄さのせいだったんだろうか。真面目で几帳面で責任感が強いので、どこでもほどほどにはやれると思う。けれど、今の仕事は私の弱っちい性質には合っていると思う。なんにもできないはずの私なのに、些細なことですごく喜ばれる。中の上でいられる環境を自分から選んでいるのかもしれない。新卒から3年目までは希望と自己実現(それが理想で、現実には牢獄)、4年目は我慢料、5年目は自己肯定、6,7年目は成長と報酬。今8年目。とても単純なことだ。自分にできることは少ない。自分にできることやって得られる給料があるならそれでいい。その金を使って暮らしてゆくだけ。今はそれだけ。勉強するだけして、今の部署の仕事ぜんぶやってみてから、もっかい同じこと考えたっていいじゃんか、その時にはまた働くことの意味がきっと変わっているから。来月新しいこと教わるのうれしいって思えてるのも、勉強が軌道に乗ってきて楽しいって思えてるのも、確かなことじゃんか。その先は考えなくていい。今考えなくても分かる時には分かるから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?