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愛は生活

初めて会った日、3月の終わりにしては初夏のように暑い異常気象で、私はノースリーブに薄手のカーディガンを羽織っていた。着るものに迷う予定は久しぶりで、出掛けに服が山になっていた。学生時代しょっちゅう遊びに行った街には、年齢を重ねるごとに馴染めなくなった。駅前の開発が進み長い工事が終わってからはさらにツルツルの生まれたてのようになり、知らない場所然としている。もはや私達の街ではなくなったというだけだ。長く東京に暮らすということは、この感傷を繰り返し味わうということだ。好きだった飲み屋も古着屋もなくなった。数少ない知っている店で軽く昼食をとった。

テラス席では、テーブルを挟んで向こう側に座ると、背中の方から燦々と日が差し込んで、透けたグラスが反射する。いっときダブルウォールのグラスばかり探し回っていたのは、いつもこの店のお冷やがKINTOのクロノスで出てくるのに憧れていたからだ。光るグラスに目を開けていられなくて、初めてこのグラスでお冷や飲んだ時のことを思い出す。眩しい。日の当たる背中と左腕だけが熱い。
「席替わりましょうか」。日陰になった向かいの席から彼が言った。俺、暑さとか痛みとかそういうの鈍いんで、と付け足した。暑いのも痛いのも眩しいのも得意でない私は、彼の申し出をありがたく受け取り、日陰の席へと移動した。初対面の彼は、私の日を避ける仕草を見て気を配ってくれたのだろう。私はおんなじこと人にしたくても、できない。日にだって焼けたくない。自分にできないことをできる人というのは、男だろうと女だろうと格好いいし、少し悔しい。

ふと思い出して、あの時優しかったねって話したら、「本当に優しいって言えんのかな」と返ってきた。「その辛さを体感として分かっている人が代わってあげるなら優しいかもしれないけど、俺は感覚的に鈍いから代わっても問題ないってだけで、それは優しいって言わないんじゃない」。ええ、そうかな、たどり着き方が違うだけでどっちも優しいと思うけど。「その辛さを感覚として分かっている上で、相手の気持ちに寄り添って、自分が身代わりになってあげようって方が、俺のよりも優しくない?」
そうかな。そうなのかなあ。そんなことないと思うけどなあ。それって、自分を犠牲にしてでも相手の快を優先するということでしょう。どっちの方がより優しいかなんて分かんないけど、必ずしもそれが褒められるべきこととは私には思えないなあ。もちろんそういう優しさだってあると思うけど、それってなんか不健康でもある気がする。自己犠牲の上で親切にされたって私はちっとも嬉しくない。だったら席なんか譲るなよとか、私の前にまずは自分を大事にしてくれよとさえ思うかもしれない。
私は、素敵だと思うけど。自分には分からない感覚だとしても、相手にとっての感じ方を想像して気を配り、行動に移せるってことでしょう。同じ気持ちになれなくてもフォローできるってことでしょ。それって、「自分にとっての嫌な場面」が来た時に声を掛けてあげるよりも、場合によっては全然難しいことかもしんないじゃん。それに、自分を擦り減らさなくても相手を助けられるのって、最強じゃない?ものすごく良いことじゃない?逆に自分が擦り減るような局面では、素直にそう漏らせば案外相手の方がへっちゃらで、余裕で助けてもらえたりするかもしんないし。

心地よさって、どれだけむりしていないか、どれだけ個としての自分の過ごし方から乖離していないかで決まると思うんだよ。どっちだって優しいけど、私はお互い心地よく一緒にいられたらなって思うから、彼の振る舞いは素敵だと思った。それに、自己犠牲と愛情を履き違えると相当にこじれるって知っている。ソースは私。愛情ってそんなに重たいものじゃない。自分が他人に与えるのも、人から貰い受けるのも、本当はもっと身軽な応酬なのだと学んだ。ここ3ヶ月で特に。できないことしようとしなくていい、できることだけすればいい。どうせ人にやさしくするのなら、私もそういう軽さを携えていたい。優しいねって言うといつも「俺はやって当たり前だと思うことをやっているだけで、優しいって言われたくてやってるわけじゃない」って言い返されて、その度に、ほんとうにやさしいひとだなあって思ってる。

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