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自分で自分のこと抱きしめられない日に代わりに抱きしめてあげることしかできない

生きるってことは死ぬってことだ。自分もまわりの人間も例外なく、緩やかに死へと向かっている。日常生活に表出せずとも、人は常に誰かの生死とともに生きている。歳を重ねるほど、人が死んだ経験を重ねていく。どうしたって避けられない。いつか必ず行き当たる。それがいつかは分からない。去年の冬にチバユウスケが亡くなった時、大ファンの幼馴染が気に掛かり連絡すると、その日は会社を早退すると言っていた。彼女には一緒に泣ける家族がいたので安堵したが、同時に、分かったことがある。自分にとって大切な誰かが亡くなった時、私はとても一人の部屋には帰れないということ。どうやって眠りにつけばよいかわからないから、せめて人のいる家で眠りたい。自分の心の有り様を見つめ、言葉を掛けることはできても、自分の身体を抱きしめることはできない。自分を愛せるようになって初めて、自分で自分にしてあげられないことに目がいくようになった。私は一人ではなく誰かと一緒に生きたいのだと、はっきりと認識した重要な出来事だった。

これまでずっと自分のことばかり考えてきて、200本以上書いたnoteがそれを如実に表しているけれど、そこへ費やした膨大な時間が、好きな人間の傷をほんの少しでも癒やす力となることを願う。私がひたすらに自分と向き合い続けてきたことが、どうか、私が私以外の人間と向き合いたい時に、愛している人と向き合いたい時に、生かされていますように。これからも悲しいことはなくならないけど、それは私の世界だけの話ではない。一人の部屋に帰れない日があるのも、眠り方がわからない日があるのも、私の世界だけの話ではない。大切な誰かにとっても同じこと。そういう時、抱きしめてあげたい。自分のことは自分で抱きしめてあげられないから、代わりに私が抱きしめてあげたい。私にはそれができる。してあげられる。

電話を掛けたらできるだけいつも「今大丈夫?」って聞こう。大丈夫じゃない時は、何があったのか、何もなかったのか、聞こう。それから、電話を切った方がいいか、繋いでた方がいいか、聞こう。遠くに住んでいると抱きしめてあげられないから、せめてノイズにならないように、いつでも私の方から離れてあげられるように、一人の時間を選べるようにしてあげたい。できることの範囲内で相手を大事にするのがきっとよくて、私の中での最適解は今そこ。

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