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【小説感想】『同志少女よ、敵を撃て』/逢坂冬馬~戦争に身を投じた少女の「敵」とは~【大ネタバレ】

※注意:本感想文は読了した方向けです。あらすじの記載もなければ人物紹介もなく、1スクロールするとラストシーンのネタバレがあります。








2022年度本屋大賞受賞。
第11回アガサ・クリスティ賞を史上初の満点受賞。
第166回直木賞候補作にして第9回高校生直木賞受賞。

華々しく彩られた本書の受賞歴である。
これが兵士の勲章なら昇進していてもおかしくない。

その人気ぶりはすさまじく、私が住んでいる町の図書館には本書の貸出予約が223件入っている。ちなみに、所蔵数は10冊である。何か月待ちなのか。

そんな受賞歴と人気にふさわしい内容の本書だったが、今回は感想・考察として「戦争作品で女性を描くこと」と「ラストシーンでミハイルが撃たれイリーナが撃たれなかった理由」を書いていきたい。


・戦争は女の顔をしているか

著者の逢坂冬馬氏は、インタビューにて『戦争は女の顔をしていない』というノンフィクションを読んで、本書を書くことを決めたと語っている。

『戦争は女の顔をしていない』は『同志少女よ、敵を撃て』の最終盤にも登場する。ソ連生まれのベラルーシ人であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの代表作であり、500人以上の従軍女性から聞き取りを行うことで、女性の視点から独ソ戦を見つめ直したインタビュー集である。
スヴェトラーナは2015年に『戦争は~』を主著としてノーベル文学賞も受賞している。

『戦争は~』は類まれなるドキュメンタリーであり、従軍女性のインタビューはすべからく胸が締め付けられる内容で、所々で本を置きつつ息継ぎしながら出ないと読み切れないタイプの名著なのだが、私には少しだけ引っかかるところがあった。

本当に戦争は女の顔をしていないのだろうか?

というのも、日本における戦争を扱った作品には、戦時下における女性目線の作品が割とある。恐らく最たるものはNHKの連続テレビ小説シリーズで、『とと姉ちゃん』や『エール』など「戦前・戦後の女性の一代記」をメインテーマにしているものがいくつかある。ジブリ作品ながら凄惨な戦時下の子供の生活を描いた『火垂るの墓』も主人公の一人は4歳の節子だ。アニメ化もされた、こうの史代氏の漫画、『この世界の片隅に』も主人公は女性である。

作品でなくとも、沖縄県糸満市には学徒隊として従軍していた女学生たちの慰霊碑である「ひめゆりの塔」が建てられている。修学旅行等で訪れた人も多いのではないだろうか。また、日本軍の大きな汚点であった慰安婦問題もいまだに各所で火種となっている。

と、ここまで整理して当たり前のことに気付いた。そうだ、私が生まれ育った日本は敗戦国だった。
日本において、戦争にまつわる物語は往々にして悲劇、もしくは悲劇からの復興で、そのような話にしか女は登場できなかったのだ。
戦争が特に男の顔をしているのは戦勝国において顕著なのではないだろうか。

そう、戦争における数少ない光は男にしか当たらない。知略に長けた将軍たち、各国のエース・パイロット、何百人も撃ち殺した狙撃兵、勇敢にたたかった歩兵達、戦争で得た資源で国を大きくした政治家たちetc…。例外はそれこそリュドミラ・パヴリチェンコぐらいか。

ここで、『同志少女よ、敵を撃て』の話に戻るが、私が思うこの作品の持つ大きな意味のひとつは、戦時下における女性目線のもの達に触れる機会があった日本人が、ソ連軍の女兵士を描いたことである。

逢坂氏が生涯でどんなものに触れてきたかは正直分からないので、妄言だと言われればそれまでである。
しかし、戦争における女性の悲劇を肌で感じることができた人間だからこそ(しかも男性が)、『戦争は女の顔をしていない』を読んで一人の女兵士の成長記を描こうと思った時、ここまでの解像度と悲壮感で書ききることができたのだし、セラフィマの「女性を守りたい」というセリフにも説得力が生まれたのではないかと思えてならないのだ。

そして、その解像度と悲壮感と僅かな救いが本書を名作にしている。

・撃たれた男と撃たれなかった女

村を焼かれた当初、セラフィマには特に殺したい人間が二人いた。
母を撃ったイェーガーと母を焼いたイリーナである。
それと同時に、セラフィマには生きていてほしいと願う人々も当然いた。村を焼かれた時点での最筆頭はミハイルだろう。

しかし、ラストシーンでセラフィマはミハイルのこめかみを撃ち抜き、「自分を撃て」と言ったイリーナは撃たなかった。

それは何故か考えたい。

まず、タイトルにもある「敵」だが、セラフィマには以下三種類の敵がいると思う。
①ソ連軍の敵
②セラフィマ個人の敵
③女性の敵
ドイツ兵やルーマニア兵は①だ。終盤までのイリーナは②。イェーガーは①かつ②だが、②の意味合いが強い。そしてミハイルは③になってしまったことで②にもなる。

ここで重要なのは、①は撃たなければいけないもの、②と③はセラフィマが撃つかどうか決めるものだということだ。さらに言えば、イリーナとミハイルはソ連軍なので、撃ったらセラフィマ自身が処刑されかねないのだがそれでも撃つ判断をするかどうかというところだ。

つまりここで、セラフィマはミハイルは撃つがイリーナは撃たないという判断を下したわけだがそれを決定的にしたものは何なのか。

ポイントは、ミハイルもイリーナもセラフィマを騙していたというところにあると思う。
ただ、その騙し方が決定的に違ったのだ。

ミハイルは、ビャウィストクでセラフィマに会った際、「自分は女に手を出さない」と言った。そしてそれが嘘になった。ビャウィストクの時点でミハイルが嘘をついていたかは定かではない。その時は本当にそうだったのかもしれない。ただ、彼も戦争に心を蝕まれた。
そして、最悪の形でセラフィマの心を裏切り、セラフィマの心を殺した。
ミハイルの嘘はミハイル自身を守るための嘘だった。

対してイリーナである。彼女の場合はセラフィマを騙したというと語弊があるかもしれないが、教え子たちに真意をくみ取らせなかったという意味では騙している。
イリーナは、狙撃兵の教え子たちに対して「お前たちが人を撃つのは、私がお前たちを殺し屋に育てたからだ」と繰り返している。つまり、先ほど分けた三種類の敵のうち、①のソ連の敵を撃つのはイリーナがさせていること、としたのである。これにより、教え子たちの殺人者としての苦悩を和らげていたのである。セラフィマより前に女性を守っていたのだ。
また、セラフィマの村を焼いたのも伝染病の進行を食い止めるためなのだが、そのことは言わない。それは、自分が恨みを買うことによってセラフィマをより強く育てるためであり、より強く育てることでセラフィマの生存確率を上げるためである。
イリーナの嘘はセラフィマの心を救うための嘘だった。

この騙し方の対比がミハイルとイリーナの生死を分けた。
極限状態で自己保身に走ったものと他者救済に走ったものの差である。

そして何より、イリーナの真意にセラフィマが気付き、正直に心を開いたこと、ここが本作の成長記としての素晴らしいところである。


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