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文体練習1-あるバーでの一幕-

ぼくは適当なバーに入ると、シーバスリーガルのオンザロックとナッツを注文した。それから眼を閉じて、昨日のことを考えてみた。それはいなくなった猫のことであり、差出人のない手紙のことでもあった。
ぼくは目の前に置かれたグラスをすぐに飲み干し、二杯目を注文した。
頭に浮かぶ情景のひとつひとつが、自分が間違った方向に向かっていることを暗示しているようだった。ぼくは感覚と無感覚の狭間にいて、実体のない痛みに貫かれていた。そこには絶望もない代わりに答えもなかった。ふと隣から視線を感じ、体をそちらの方に向けた。古くなったテニスシューズのゴム底が、良く磨かれた床を鳴らした。

「村上春樹の登場人物みたいな飲み方をされてますね」
どうやら、僕の行動描写が村上春樹のようだと言いたいらしい。

「そんなに重大なテエマがあるように見えるってのかい?しかながら突然話しかけてくるとは君も無粋だね。胡散臭うさんくさくて信用のない人間だと、自ら披露しているようなもんだぜ」
「すみません、つい気になってしまって」

ぼくの口調に、彼女はたじろいだようだった。きっと今頃、クレタ島では魔術的な月の光が魔術的な湧水を照らしていることだろう。
「しかし、僕が村上何某なにがしの登場人物のようであることは、君が本当に判断したことだと思うかい?これが仮想現実じゃないという保証を君の脳はしてはくれない筈だがね。いや、そもそも君が君自身だという保証すら―」
「...ああ、話し方は京極夏彦なんですね。ていうか、京極堂も初対面の人には敬語使うでしょ」
それは本当だらうか。もしくは脳漿のうしょうを暖かい液體えきたいひたしてゐるがごとざれごとだらうか。ゆつくりと目を閉ぢてこえを聴いた方が良いやうだ」
「京極夏彦の前書きの話し方やめてください」

そういうと彼女は、自分の目のまえにあったピンク色のカクテルをくくっと飲み干し、やけに血色のいい手でカウンターにグラスを戻すと、ふぅと息などはき、その指の長さはまるで、あれ、作画崩れとらん?と言いたくなるアニメみたいで、逆に気味が悪かった。その長すぎる指で細いたばこを持つもんだから、なおさらこちらの遠近感が狂ったみたいになって、もう少し仲が良ければ、どっちが指やねん、と即座につっこめたものの、まさかそんな距離感でもないので云えずじまいだった。

「何だい、君の描写は川上未映子氏みたいじゃあないか」


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