連載小説|寒空の下(3)
伸弘は俺が1人暮らしをしているアパートまでついてきた。意地でも親に連絡をさせるつもりらしかった。彼女ができてからはめっきり遊びに来なくなっていたので、彼の訪問は久しぶりのことだった。だから、心の穴を埋めるために俺と一緒にいようとするのは気味悪く思えた。俺はただ伸弘の孤独を和らげ、次の女を見つけるための踏み台にされるだけだ。今まではいつ電話しても彼女といて、全ての誘いを断ったくせにこれだ。
伸弘は小さな玄関をくぐると、雨で濡れたナイロン製のジャンパーを着たまま、ずけずけと部屋に上がりこんだ。そして、自分の家だとでも言わんばかりに、俺の寝床にもなっているソファーベッドに座り込んだ。彼女と付き合う前より態度が大きくなっているのは気にくわなかった。
「さっさと電話しろよ、俺見てるからさ」
「そんなに急かすなよ」
「別に急いでるわけじゃないけど、お前のために言ってんだぞ」
嫌々ながら実家に電話をした。面倒な男を早く家から追い出したかった。最初に電話をかけた時は誰も出なかったが、5分もしないうちに折り返しがかかってきた。すぐに出るか少しだけためらったが、背後から伸弘がずっとこちらを見ていることに気付き、引き下がれなくなった。
電話をかけてきたのは母親だった。1年くらい実家には帰ってない。まだ成績表を見ていなかったのか、電話越しの母親の声は穏やかだった。久しぶりに息子の声を聞き、自分が母親であることを思い出した明るい声だった。
はじめは、たわいもない会話しかできなかった。元気にしていたかとか、最近調子はどうだとか、病気してないかとか。それから、母親の身の上話も聞いてあげた。パートで若いアルバイトの大学生がろくに仕事をしないとかいう文句をひたすら俺にぶつけてきた。「あんたならもっとましに働けるんでしょうね」などと言われ、本当は違うけれど、いざとなれば働き者だと即答した。俺は今アルバイトをしていないし、母親が文句を言う大学生よりもっとひどい人間だという自覚があった。
本題に触れることなく、母親との会話は終わりを迎えようとしていた。そこに伸弘が近づいてきて「成績のこと話せよ」とささやいた。彼は俺の背後に居座り、会話を盗み聞きしていた。鬱陶しかった。何も話さないまま電話を切りたかったが、そうはいかなかった。俺はとうとう成績のことを母親に打ち明けた。今まで猛烈な勢いで喋っていた母親は突然静かになり、何も言わなくなった。
次に口を開いたとき、母親は豹変した。予想していたことではあったが、説教が始まった。ただ、大人になるまでは母親がこんな風に振る舞うことはなかった。兄が捕まえてきた昆虫を潰して遊んだときも、長い滑り台の上から車のタイヤを転がし、同い年くらいの知らない子どもを吹っ飛ばしたときも、家に帰れば「次からは気を付けなさいね」という一言があるくらいで、叱られはしなかった。きっとその頃と変わってしまったのは、今まで教育方針を間違えてきた分を取り返そうとしているからだろう。
母親は卒業できないこと以上に、俺がぎりぎりの単位しか取っていなかったことに憤慨していた。電話越しながらかなり興奮していて、耳元が熱くなったように感じた。何とかしなくては会話が終わらないと思い、どうしたら許してくれるのか尋ねた。すると母親は春休みのうちに30万円稼いでこいと言った。しかもアルバイトをして。俺はアルバイトをすることが大嫌いだった。母親からは許さないと言われるほうがましだった。後悔したが、もう手遅れだった。
つづく
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