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家には帰らない|ショートショート

 ある夜のこと。時刻は23時を過ぎようとしていた。

 しとしと振る雨は冷たく、もうじき雪に変わりそうだった。傘を持つ手の甲は赤くなっていた。仕事の帰り道に沿うようにして走る国道にはあまり車が走っていなかった。水溜まりが少しずつでき始め、街頭の白い光と信号機の三色の光がてらてらとその中で混ざり合い、不思議な色になって反射していた。
 
 近くには営業している店などなかったし、ほとんどの家から光という光は見えなかった。街はすでに寝静まっていた。信号機が歩行者信号を点灯するのを待つこともなかったのだが、私は仕事を終えてくたびれていた。少しの間、立ち止まっていたかった。 
 
 ようやく信号が変わってとぼとぼ歩き始めると、黒い車が急ブレーキをかけて目の前で止まった。イヤホンを付けていたので近くまで車が迫っていることに気付くことが出来なかった。車は完全に止まったわけではなく、またすぐにでも動き出しそうだったので、私はイヤホンを外しながらも足早にその場を通り過ぎた。
 
 ドライバーは信号が切り替わるのを待つことなく、ものすごい勢いで車を発進させた。回転数が限界を超え、スピードメーターが振り切れてしまうかのような音が静寂を切り裂いた。濡れた路面でタイヤがスリップしてしまったのか、ひどく蛇行しながらも、あっという間に遠く彼方へと消えていった。目には見えなくなってからもその泣き声のような音だけは聞こえた。
 
 その後、男が走ってきた。冷たい雨の中、傘を差していなかった。車がすでに見えるか見えなくなるかの瞬間だった。車が止まっていた交差点までやってくると膝に手をつき、腰を落した。息を切らしているようではあったが、手に持ったスマートフォンを耳に当てて何かを話し続けていた。再び静まり返った街の中、その声だけが聞こえるのだが、男が小声で話していたので、内容まで聞き取ることはできなかった。
 
 しばらくうなだれた後、男は再び走り始めた。どうやら走り去った黒い車を追いかけているようだった。私には明日も朝から仕事があった。早く家に帰って暖かい湯に浸かり、夕飯を済ましてベッドで眠るべきだったのかもしれないが、どうしても男の行方が気になってしまった。

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