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連載小説|寒空の下(11)

 花蓮さんと手を組んだことによって、労働環境は見違えるほど改善された。午前に2時間、午後に1時間くらいしか労働しなくなった。それでも日給は同じだった。

 悪いことをしていると言われてしまえば否定できなかったが、それはあくまでも道徳的な問題であって、実務上は何の問題もなかった。トラブルは何一つ起きなかった。わざわざ俺たちが何分仕事をして、何分休憩しているかなどということを監視している客もいないわけで、クレームもなかった。とはいっても、出勤しているという事実を作らなければならなかった。大して働かなくてもいいわけだったが、働かなくてもいいとまでは花蓮さんの書類にも書いていなかった。

 時々は街頭に立ち、それなりに働いた。その度に「寒いのに大変ね」「ご苦労様」とか言って颯爽と通り過ぎていく通行人と出会った。大半は、見知らぬおばさんとかおじさんとかで、飴をくれたりする人もいた。彼らは憐憫の眼差しで俺を見つめた。言葉をかけてくれても嬉しいと感じることはなかった。俺は「どうも」と返事をしながらも心の中では彼らのことを偽善者だと思った。

 俺はただの見知らぬ、ださい制服を着た男に違いなかった。家に帰れば俺のことなど少しも思い出さないはず。それなのに、目の前を通りかかったほんの一瞬だけ声をかけて心配をしているような素振りをする。本当は声をかけるほどの余裕があることに優越感を感じているというのに。「私はあなたのように、寒い中働く必要がないのよ」なんて言って。

 自分なりの目的があって街頭に立っていた。何も世のため、人のためにやっているわけではなかった。声をかけられる筋合いはなかった。偽善者たちに嘘のお礼を言われる度に、仕事を辞めて逃げ出したくなった。

 警備員として初めての給料を得た。10万円ほどだった。だからといって、全てを貯金できるわけではなかった。働くだけ働いて、無駄遣いをしない生活なんてしていたら息苦しくなる。しまいには死んでしまうかもしれない。放蕩生活の果てにどれだけ貧しい思いをしようが、ありもしない未来のためにお金を残して死んでいきたくなかった。

 給料をもらった翌日、仕事をサボり、家の近所にある喫茶店に向かった。伸弘と約束をしていた。働き始めてからは連絡をしていなかったので、もしかしたらすでに賭けに勝っているかもしれないという淡い期待を抱いていた。

 彼はいつもの席で寝て待っていた。前に会った時は薄汚れた白のパーカーを着ていたが、この日はまだ新しそうな水色のノルディックセーターを着ていた。とりあえず給料の入った封筒から1万円札を取り出し、テーブルの上に置いた。その音で伸弘は目覚めた。

「なんだお前か」
「お前が呼んだんだろ」

 伸弘はすまんと言いながら軽い会釈をして右手を挙げると、テーブルの上に置いてある1万円札を不思議そうに眺めていた。

「どうした、お前人生で一度も1万円札みたことないのか?」
「そんなわけねぇだろ。そんなことよりお前さ、賭けた金は5万円だぞ?」
「は?」
「だから賭けに負けたほうは5万円を払う約束だろ?1万円じゃ足りねえよ」
「仕事はまだ辞めてないよ」
「え?お前まだ仕事続けてんの?信じられねえ・・・」
「俺ってそんなにダメな奴だと思われてんだな」
「これは奇跡だ」

 お気に入りのウェイトレスが注文を聞きにやって来た。いつもより目元のメイクが濃くなっていて、大人びて見えた。少しだけ奮発してブレンドのLサイズと1500円のモッツァレラピザを頼んだ。

「この金使えばいいからお前も何か頼めよ」
「じゃあ、カフェオレをもう一杯追加で」

 ウェイトレスは注文票に書き込みをすると満面の笑みを浮かべてくれた。女神だった。小走りで去って行く背中を俺たちはじっと眺めていたが、すぐに本題に戻った。

「そういえばお前はどうなんだよ?」俺は言った。
「もちろん続いてるよ」
「そうか」

 俺は急激に気分が落ち込んだ。賭け事をする相手を間違えたことに気が付いた。伸弘はとにかく長く付き合うことに美学を見いだす人間だということを忘れていた。前の彼女だって3年は付き合っていた。数ヶ月乃至数週間で別れてしまうことは考えづらかった。

「もうやったのか?」
「ああ」
「そうか・・・」
「おいおい、喜んでくれよ友達だろ?」
「そうだな・・・」

 伸弘は優雅にカフェオレを飲み干すと、彼女が待ってるからと言ってそそくさと店を出て行った。5万円を失う可能性はかなり高くなった。それならばいっそのことケチケチと手元にお金を持っていても仕方がないと思った。

 仕事終わりを狙ってウェイトレスの女の子に声をかけ、近くの街まで繰り出した。まずは馴染みの古着屋に行って、女の子にコーデュロイのブルゾンと花柄のスカートを買ってやった。それからコンクリートがそのままでモダンな外観をした映画館に行った。特に観たい映画はなかった。仕方なく彼女が観たいと言った大して面白くもない恋愛ものの邦画に付き合った。暗くなってからは学生ばかりが集まる狭い居酒屋に行き、カシスオレンジやレモンサワーばかりを飲んだ。女の子は終始楽しそうにしていた。

 これからも喫茶店に通うからと言って連絡先は交換しなかった。ホテルに連れ込むこともなく俺は紳士的な態度で彼女を駅まで送っていった。俺は何をしたいわけでもなかった。ましてや彼女に惚れ込んでいるわけでもなかった。

つづく

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