学校での学びとはバイキングである。

このままいけば数学の先生になるはずの私が考える、

「学校で学ぶ」

とは何かを伝えたい。

それは「バイキング」である。

学校はバイキング会場であると考えると、ごく自然に私たちの学びとはどうあるべきかがみえてくる。

学校では、様々な知識を提供する。これら一つ一つがいわば「料理」である。この料理は食べれば食べれるほど良いとさせる。だが、決してその料理たちはお皿に乗る切るほど少なくないし乗ったとしても、そうやすやすと食べきれるものではない。

学校では時折、生徒たちがお皿に残し物がないかチェックさせる。「テスト」だ。生徒はもちろんのごとくなんとか食べ切ろう口いっぱいにいれると努力するものもいれば、食べることもあきらめ残すものもいる。

生徒や保護者さらには先生自身までも、「残さず食べきる人が偉い」と思っている人は多いだろう。しかし、これは誤った考えであるといいたい。多くの人が【食べきれないを詰め込むということをすればそのあとどうなるか】を知っているにもかかわらず。

ご想像通り、お皿チェックというなの「テスト」のあとに、吐いてしまうが正解である。いわゆる暗記に頼った学習で飲み込めなかったものは、若干の消化はあったとしてもほとんど栄養を得ずに吐いてだしていく。いわば「忘れて」しまうのだ。

テストの意義がもし、知識の定着の確認だというのなら、この現状に背を向けていることはよくない。みんな吐き出して忘れているではないか。それとも、「テスト前に口に入れ、そのあと吐き出す」訓練をさせているのか。であれば、願ったり叶ったりのシステムであるがそれは「学び」ではない。

私が思う学びはみなさんと実は変わらない。「食べたものを消化し、それを栄養として成長する」ことだ。しかし、成長したかどうかの確認は「テスト」ほかならないとは思っていないだろうか。これではテストするたびに食べもの詰め込みコンテストをしてるようにしか見えず、ちゃんと消化したものも、詰め込んだものすら区別がつかない。「じゃあ、また時間を開けて消化したかテストすればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれないが、
これはもちろんさらなる詰め込みに加えてまた同じものを詰め込む苦痛を記憶するだけの負の行為である。

また、そもそもバイキングでしか食べられないと思ってもならない。食べ残しをする学生は少食とは限らない。もうすでにどこかで食べてきているのだ。

私たちは学校以外の場所で様々なことを経験し学ぶ。彼らはそれを好んで食しているのだ。家族かもしれないし、友人や恋人かもしれないし、本の世界かもしれないし、ネットの世界かもしれない。
すでに、そこで食べてきたのに、わざわざ学校で好きでもないものを「食べなさい」「食べれば成長できる」というのを強いるのはいかがなのだろうか。健康的でない学びの促進になりかねない。

みないつだって、なにかしらを学んでいる。しかし学校が評価することできることは学校のカリキュラムの範囲内でしかない。(これでこそ公平なのだが、その評価方法とそれによる周囲の価値観が、より生徒の学びを阻害している)

また今日において、学びたいことは調べれば出てくるのだ。しかも義務教育においては教科書はもちろんのこと塾やネットあるいは自分のコミュニティーで知識そのものが学ぶことが可能であり、しかも自分の実力にあった指導は受けやすいのだ。

では、今学校に求められているいや、求められてなくてもやるべきことはなんであろうか。教師ならば、このバイキングをどう経営すべきだろうか。

まず、やることは知識という名の料理をひと工夫して食べたことない味にできるか。多少カリキュラムを逸脱してもいい。教科の垣根をこいてもいい。自分が時間をかけて学ばせるべきだと思うことを、まず自分のクラスからやることだ。

次に、「テスト」以外の評価方法を与えることも必要である。できる子にはいい点をあたえて、できない子にはできないという記憶をあたえる。こんな教育ではクラス間で格差は収まるどころか広がる一方だ。すべきことはともに学ぶことが自然に行われるクラスを歓迎するクラスづくりである。

そうして最後にすべきことは「生徒が、適切な量を適切な皿に彩を考えて料理を置けるか」になってくる。自分の学びはなんたるかを知り、この場で何が学びたいかということを意識をもって配置できることである。そのためには教師は学んでいることを実感させなければならないし、学びが自分にとって生産的活動であることを生徒が自覚できるようにしなければならない。

以上のことは、たとえ上から反対意見が出たとしても、全力でやならなければならない。

私たちは彼らが卒業した後も使うのは、学校の知識ではないという事実を心から受け入れなければならない。もう生徒たち自身も我々もそれを深く知っている。

だとすれば、

本当に必要なのは、

消化する方法を学ばせること、

そして誰もが消化できることを教えることである。

これを身につければ、

どの世界でも学べる人間になれるのだ。

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