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住田㈱さま×せとうち未来共創_街角に佇むお地蔵さんへのリスペクトはデザインで回復できるのか?《前編》

平和都市,広島,お地蔵さん

相性の良さそうなこの言葉の組み合わせ.広島の繁華街エリアの名所である「お好み村」のビルに鎮座する地蔵尊(お地蔵さん)があるのをご存じでしょうか.実は,広島出身である僕自身が知らなかった(だって,広島の人は自分の近所にそれぞれ行きつけのお店を持ってるので”お好み村”に行くことが滅多にないのです)ので,観光客の方が馴染みがあるかもしれません.

場所は若者で賑わうエリアで,正面には「アリスガーデン」と名付けられた都市の広場に面しています.アリスガーデンは大昔は新天地公園と呼ばれていて,僕がまだ中学生の頃は,周囲を2階建て3階建てくらいの個人衣料商店などの建物が緑豊かな公園を囲んで,大通りを挟んで広島一の繁華街「流川」に程近いエリアとして,まだビルに収まる前の昔の「お好み村」から出てきたり買い物途中の人々がベンチで休んで過ごす,そんなやや猥雑で都市の色んな面が露出してくる一角だったことを覚えています.佇まいは変われど,その雑踏とした空気感は現代にも引き継がれている気がします.

さてさて,話をお地蔵さんに戻しますと,これは「お好み村」が入っているビル(新天地プラザ)の初代オーナーであった住田一也さんが1992年にビルの竣工と合わせて建立したものだそうです.アリスガーデンが整備されたのが1994年という記録が残っている(隣接する広島パルコもこの時に一体的に開業)ので,まだ古かった昔の公園のころから,そのお地蔵さんは街の人たちの営みを眺めてきたというわけです.それから約30年が経過しているということになります.いま,お地蔵さんはどんな気持ちなのでしょうか.もちろん,お地蔵さんは何も語らないので,僕たちは自分たちの行いを通して想像するしかありません.

お地蔵さんに込められた願い

とは?その疑問を解き明かすのには,地蔵尊の横に掲げてある立札を読んでみましょう.そこには,このお地蔵さんを1945年8月6日に広島に落とされた原爆のために住田さんの妹さん(当時12歳)と弟さん(当時9歳)を失ったことに由り,その他多くの同じく原爆で命を無くした幼子たちの供養のために建立したと記されています.地蔵尊の周りを池が囲んでいるのは,当時原爆で亡くなった多くの人たちが亡くなる直前まで水を求めていたとの証言からだと紹介しているサイトもあります.いずれにしても,第2次世界大戦の末期に起こった広島(と長崎)が被った悲劇により命を失った多くの人々への鎮魂の思いが込められています.新天地プラザに入る「お好み村」を含めたビルの店子さんたちは,みなさんこのお地蔵さんに秘められた供養への想いを共有しつつ,また,多くのお地蔵さんがそうであるように,このビルの守り神としてあたたかくお世話をしているのです.

ただ,そういうお地蔵様をケアしている方々にとって,

心が痛むことが時々起こる

んだそうです.それは,池の周りにちょうど腰掛けるために高さがちょうど良い立ち上がりがまさにベンチとして設えられているのですが,そこに腰を掛けてたむろしたり,その上,煙草の吸殻を池や水鉢に捨てていったりという利用者の迷惑行為があるのだそうです.悲しいですね.

このようなことがお地蔵さんがすぐそばで見ている場所で時々でも起きてしまうことに正直驚くわけですが,いざ冷静になってみると,日常的な常識の継承すらおぼつかない現代社会においては,お地蔵さんが何を意味するのか,その象徴的な意味までも希薄になってしまっていて,その存在が目に入らないほど世界が変化しているのかもしれません.そういう民間伝承とか,碑とかモニュメンタルなものの意味が現代とコミュニケートできていないというか.さもありなむ,と想像できる時代感があるのも確かです.誰もが手の中にあるスクリーンと向き合っている時代ですから.

もちろんそれを良しとはしたくないですが,現代社会のコミュニケーションや想像力の欠如からくる「残念なこと」は,何かしらの未来へのメッセージを携えているのではないかとも考えるわけです.おそらく,対処療法的で相手を批判するだけの反応ではなく,なぜそうなってしまうのか,どこのボタンを掛け違っているのかについて自分たちの足許を考え直すサインとして捉えてみてはどうでしょう,というのが今回の議論の一番大事なところではないかと考えています.

何の議論か,そうそう,まだその話をしていませんでした.現在のビルのオーナーである住田株式会社さま側から,このような現状をいい方向に変えるために何かアイデアがないか,と,せとうち未来共創として相談を受けたわけなのです.

振る舞いと環境

は,人間が意識するしないに関わらず密接に繋がっていることは科学が証明しているだけでなく,誰もが経験していることです.例をあげるときりがありませんが,部屋の大きさや人との距離に応じて私たちは話すヴォリュームを無意識のうちに変えます.あるいは,近くても雑音で音声情報だけでは伝達が難しいと察知すれば,ジェスチャーなどを交えて伝えようとします.居心地の良さは仕事や学習のパフォーマンスにも影響します.どんなに初めての場所であってもドアを開いて通り抜ける時にドアにぶつかる人はまずいません.長く人を待っている時に近くに壁があればもたれかかります.椅子が無くても高さの丁度いいものがあれば腰をかけたりもします.私たち人間は空間情報を認識(察知)し,無意識に処理し,適切な行動を取ろうとします.ごく自然に,私たちは周囲と結びつけられています.こういった空間認識と行為の関係性は認知心理学などの専門領域として研究もされています.アメリカの知覚心理学者ギブスンの生み出した”アフォーダンス”という言葉がデザインの分野で使われるようになって(日本では2000年代半ばに深澤直人さんがIDEOから帰って来て専門家の間で注目の人として話題になったころに遡ります)随分経ちます.その文脈で言えば,人はその行為を(無意識に)促されている,と言い換えることもできます.

今回のケースでは,つい座りたくなる,つい吸殻を捨てたくなる,あるいは,そうやってもゆるされる,とがめられない,というような環境に結果的になってしまっているというのがまず認識しなければならない現状でありスタートラインだと思いました.最終的に,する,しない,の判断に意識が介入することはあっても,そこには誘発性があるというのが自然な考えです.多くの人は,

出来るけどしない,という判断

をしているだけ,ということです.理由は様々でしょう.でも,中には,自制がきかない人もいる,あるいは,自責の念を感じないメンタリティの持ち主がいる,というのが問題の根源なのではないかと思います.

そこで思い出すエピソードがあります.アメリカの建築家に,Thom Mayne(トム・メイン) という人がいます.Morphosis(モーフォシス)というデザインファームを率いて90年代にポストモダンの流れの中で颯爽と登場しました(僕の学生時代は大変人気があり,誰もが彼らの模型や表現を真似ていましたね…)まだ当時はほぼ実作がなくペーパーアーキテクト的な立ち位置だったのですが,その後しばらくして,彼らの名前がメディアでは忘れさられたように感じたころ(実際にはプロフェッサーとして地道に活動を続けられていたようで,2005年には建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞しています)確か僕の先輩が彼が語ったことについて教えてくれたことがあります.

「建築は(物理的に)人の行動を制限することしかできない」

「壁をつくればある部屋からある部屋に行かせなくすることができる.でも,壁に穴をあけたからと言って,人が別の部屋に行くことは強制できないだろ?」その話を聞いたときに僕は衝撃を受けたのを覚えています.人づての人づてで伝承している話(どなたか彼の講義録などで文献などで残っているのをご存じであれば教えてください)でしょうから,本来のコンテクストとニュアンスが失われている可能性は大いにあるものの,ある意味で建築の限界をこれほどまでに正直に伝えている言葉を僕は知りません…うっかり,トムではなく,教えてくれた先輩をすごい人だと(すごい人なんですけどね)勘違いしそうなほどでした.

建築家は往々にして「こうであってほしい」というメッセージをさもそれが実現するかのように語ります.一方で,現実的には使い勝手や機能的な面で狙った効果が得られないことを後で知ってがっかりするクライアントもいるわけです.夢を語ることの重要性と同じくらい,現実的な事実に冷静に向き合う事も忘れないようにしたいと常に思ってはいるのですが,理想の誘惑は強いのです.建築の設計の限界を垣間見たような瞬間でした.打ちのめされたと同時に,では,制限だけでなく,人を喚起するには何が必要だろう?と僕の興味は拡がっていきました.

さて,つまりトムに言わせると,座らせないようにするデザインは簡単だということです.吸殻を捨てさせないように制御するのも物理的には可能でしょう.しかし,ここで求められているのは,果たして本当に

させないデザインなのか?

と考えてみるだけの価値はあります.

岡本太郎の作品に「座ることを拒否する椅子」というのがあります.また近年は「排除アート」と呼ばれる,拒絶のための仕掛けが様々な議論を読んでいます.

排除のためのデザインになった途端,効果は100%約束されるとしても,何かそこにある種の人としての割り切れなさ,お地蔵さまが持ちうる寛容さに背くようなことに加担している気持ち悪さを感じてしまうかもしれません.

つまり,直接的な制限ではないかたちで,人の行為に働きかけるデザインが可能なのか?お地蔵さんの静かな佇まいの邪魔をせず,人に良い振る舞いをしてもらうために何が出来るかを考えるのはとてもチャレンジングな課題なのではないか,ということです.物理的な制御でなく抑制するためのデザインとでも呼べばいいのでしょうか.このような範疇を扱う言葉をまだ社会は持っていないのかもしれません.年間100起きることを50にするとか,10にできるかもとか,そういうグラデーションの中で効果を測定できるものをクライアントと共有出来たらいいなと思います.そこに

コンペでなくプロポーザルとして

このプロジェクトの座組みをした意味があります.決定案をセレクションするのではなく,考え方をセレクションしてもらって,共に学びながら最適な形を目指すプロセスを協働出来ればなぁ,とこの案件をコーディネートする立場で考えています.その意味では,空間的あるいは物理的なデザインのスキルより,「問題の捉え方」を重要視できる評価が出来ればと思います.提案をする側と,クライアント側と,コーディネート側とが共に意見交換しながら,最適解を目指す,民主的なデザインプロセスがもたらされたら素敵だなと思います.

学校はそういうメディエーターになれるのではないかと思います.コンペでは,ある意味単純な結果のトランザクション(取引)として完結してしまいがちです.特に学生に頼めばプロに頼むより安く上がるし,という少し残念だけど本音の理由で依頼をしてくださる企業や団体は実際多くあります.受ける学校側も,とりあえず学生への機会提供になるし,採用されたら学校にとっても良い宣伝になるし,で,それ自体で Win-Win ではあるんです.一方で,結果がもたらされる社会や業界の成熟度という観点で見ると経験の少ない学生案の一発勝負ではいかにクライアントが気に入ってくれたとしてもリスクがある.

そこを取り持つ役割が,損得勘定が発生しない学校のメディエーターとしての位置取り(役割)があるのではないかと思います.また,このような

現実的な問題に向き合う

という意味では,取り組む学生にとってはいい勉強になるのは間違いありません.このような機会を提供していただける企業や団体にはまずお礼を言いたいです.ありがとうございます.コーディネートする側もクライアントとの打ち合わせを進めながら徐々にこの課題の意義や役割を発見していくことができました.

特に今回は,予算と時間を確保いただけたことでこのような実に挑戦的かつ奥深いデザインについて考えさせてもらえることが出来そうです.実施を前提としているものの,クライアントである住田さまからは,納得できる案がなければ実施(施工)しないという経営者としての現実的な判断もいただいていますので,座組みとしては現実の民間の仕事に近い.また,やることが決まっているプロジェクトより,良ければやるというプロジェクトには意思が宿ると思うので,学生にとってもある意味でチャレンジ精神を刺激するものになるのではないかなと期待しています.

学生にとっては,実際のクライアントと意見交換しながら進める課題に取り組むことはそれほど多くないのが現実です.クライアントがどう考えるかを想像するとか,直接フィードバックがあるとか,すべてのリアクションが学びに繋がるに違いありません.結果のトランザクションではなく協働,共創.しかも,クライアントだけでなく,ビルの関係者や街の人々まで巻き込んで,この場所が都市の中でどうあるべきかをズームアウトしながら考える体験になれば素晴らしいなと想像します.

今回の具体的な提案対象スペースはとても小さいものです.都市のスケールからすれば マイクロスペース と呼んでいいくらいです.建築やインテリアのデザインを日々学んでいる学生にとっては,普段課題として出されている「美術館」「共同住宅」「戸建住宅」などのどれよりも規模が小さい.むしろ「ディスプレイ・デザイン」くらいの規模で,ともすれば安易にデザインできると考えられがちかもしれません.でも,

マイクロスペースが生み出す街の空気

というのは決して侮れるものではないとも思います.お地蔵さんだけでなく,お地蔵さんを囲む周辺環境の読み取り,人の流れや時間帯による存在感など,リサーチと分析を通して見えてくることは小さくてもたくさんあるはず.また,この課題では心理学的な部分について考察することも重要になってきそうです.空間デザインという物理的な結果に関することだけにとどまらず,どうやって理想的な状況を生み出してキープしていくかという運営や手入れの仕組みなどに及ぶ提案が出てくるかもしれませんし,そうなれば豊かだろうと思います.クライアントである住田さまも,ビルのオーナーとしての立場だけでなく,店子さんや関係者を含めたチームが形成されるようになれば,きっとこの問題はデザインを超えた解決になり得るのではないかと夢想します.むしろ,それこそが新しい時代のデザインの姿なのでは,とさえ思います.授業課題だけではまだ射程に入れることが難しいこのような先端的な広義のデザインについての実践の機会が訪れようとしています.

無事このプロジェクトを完遂できた時,経験したことのすべてがかかわったすべての人々に新しいデザインの役割や視点をもたらしてくれることを期待しています.

具体的なプロジェクトのスケジュール
6月末 プロジェクトのキックオフ(オリエンテーション)
9月初旬  1次選考,業者への見積もり依頼
10月初旬   2次選考(プレゼンテーション)
実施案選定後,年内の施工完了を目指します. 

(経過を後日またレポートしたいと思います)

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