見出し画像

チューリッヒで先輩を訪ねたら留守だった話

バーゼルでシュタイナーのゲーテアヌムを見た後,その脚でチューリッヒに入った.1年ほどETHで研究をしているというゼミの遠い先輩から,ヨーロッパに来るときには寄ってみて,と声をかけてもらっていたのをいいことに,その言葉に甘えてちょっと旅支度を安心して整えなおせたら,つまり,洗濯や諸々こまごまとした旅のQOLを上げるためにも,ここは厄介になろうと思ったからだった.そうはいっても,1992年当時は,約束といっても,事前の固定電話か,手紙という,今では信じられないほどの頼りない約束だし,旅に出る数か月前に「この夏にヨーロッパを周るので,チューリッヒに寄ったら訪ねてみます」程度の話で,いつどこで,ということも曖昧なままだった.とりあえず,ETHに行けば何とかなるだろう,タイミングが悪く会えなければ,一日前倒しで次の目的地に向かえばいいだけのことだった.

ガイドブックには,シャガールのステンドグラスがある教会について紹介されていた.時間もあったし,立ち寄ってみることにした.建築史の教科書や図録で紹介されている建築を中心に地図にマークをしているものだから,それ以外の目的地には意外と疎いというか,十分な知識もなかった.その意味で,ガイドブックに紹介してあるものは貴重な情報源だった.駅からほど近い場所にあるその教会はすぐに見付けることができた.

中世の教会は,その建築の至る所に設えられた彫刻によって,字の読めない当時の多くの民衆に聖書の物語を伝えるための「絵本」だった.ゴシック教会で生まれたステンドグラスは,それ迄の石像による単調なものからその「絵本」の効果を飛躍的に向上させた.何しろ陽の光を浴びてあれほど神々しく輝くのだ.まあ,この話はゴシック教会の生まれたフランスでのエピソードのために取っておこう.

画像1

画像2

ただ,中世の教会のステンドグラスと違って,20世紀になって後に設置されたと思われるこのシャガールによるステンドグラスは,シャガールらしい柔らかい色合いと儚いタッチの筆致で天使などが描かれていて,それは幻想的な光を教会内部にもたらしていた.当初予定にはなかったこういったより道もまた旅の醍醐味である.そして,湖から見える山の手にあるETHのキャンパスに向かう.

ETHといえば世界有数のハイレベルな教育で知られる工科大学であり,レントゲンやアインシュタインも卒業生に名を連ねている.そんなところに,フラッと旅姿の日本人でも潜り込むのはたやすいことだった.建築学科のあるあたりをブラブラするのだが,人影がまばらだ.それもそのはずである.大学はちょうど夏休みだ.それは,ロンドンでAAスクールを訪ねたときにも味わった.しかも,ヨーロッパなど日本以外の多くの国々では,6月か7月に学年が終わり,9月とか10月に次の学年がスタートするために,ほとんどの学生が長期の休みを使って故郷に帰ったり旅に出たりする.それでもAAスクールでは,狭い校舎をフルに使って卒業設計展のような展示がされていたので楽しむことができたが,ここは広大すぎて何も手掛かりがない.

すこし途方に暮れながらテラスに座っていると,二人組の学生らしき姿が歩いてきた.外国の人の外観と年齢はまったく見当がつかない.同い年でも彼らの方がはるかに大人びていると感じるからだ.その二人も,学生なのか教授なのかすら分からなかったが,何となく建築学生ぽいなと直感で感じた.そのうちの一人が,一眼レフを方からぶら下げていたからかもしれない.それで,僕の前を横切る彼らに声をかけて,ダメもとでいろいろ聞いてみることにした.

「君たちはここの学生?」

「そうだよ」

「建築の学生?」

「そうだよ」

「よかった,日本から来てる人を知らない?名前は○○って言うんだけど」

「ああ,○○だね,知っているよ」

「彼はいまここにいるのかな?」

「いや,どうだろう,今は見ての通り殆ど人がいないんだ.彼もきっと旅行に行ってるんじゃないかと思うよ.彼と会う約束をしてたのかい?」

「ああ,でもちゃんとした約束ってわけじゃない.僕が夏にヨーロッパに行くから,運が良ければ会えるかなって思った程度だから」

「それは残念だったね」

「そうだね,でも,世界のETHに来られて光栄だよ」

「建築の学生かい?」

「そう,大学院の1年で,夏休みに初めてのヨーロッパ一人旅だよ」

「日本の建築はすごいよ,僕らもよく話題にする」

「そうなんだ.誰を知ってる?」

「忠雄安藤だね.もちろん,日本の古い建築にも興味がある,ユニークだ.繊細だろ,ほら,このカメラみたいにね」

そういって彼はNikonの一眼レフを掲げて見せた.そんな会話を立ち話で少しして,僕はお礼を言って別れた.そうか,そりゃヨーロッパに滞在していて長期の休みがあれば他の国々を巡るだろう.考えてみれば,この状態では会える可能性の方が低いように思われた.僕は来た道を引き返し,湖のほとりまで降りてきた.ガイドブックによれば,湖をめぐる遊覧船があるという.たしかに,細長いその湖には多くの船が浮かんでいる.

僕は所持金を確かめると,チケットセンターに行き,遊覧船に乗船した.船は,さすがに観光のハイシーズンだけあって,世界中からの観光客ですぐにいっぱいになった.その後一時間ほど,湖のうえからそのスイスの美しい街並みを眺めながら過ごした.さわやかな夏の午後に相応しい時間の使い方だった.


画像3

先輩に合えなければ,その日のうちにドイツに入ろうと考えていたが,この遊覧船のゆっくりとした時間が,少し落ち着けと言っているような気がした.そこで,僕はユースホステルを取り,街角でピザとサラダとコークを簡単に食べて,一晩を過ごした.明日はシュトゥットガルトに向かうつもりだ.ドイツへの旅が始まろうとしている.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?