四国高松に部屋を借りる 1/3
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確かに四国は頭の中では島だということがわかっていても、あまりに大きくてその実感がない、というのが何度も訪れたことがある僕の印象ではあった。毎回息を飲むほど美しい景色を見せてくれる瀬戸大橋を渡っても、渡った先の四国は大きすぎて一度上陸してしまえば大陸に近い感覚があった。そもそも日本自体が島国なのだから、本州だって島である。ただ、瀬戸内に暮らしていると、無数にある小さな島々こそが島であり、それ以外の大きな島は島という感覚はあまりないのではないかと思う。そんな感覚を持って、僕は異動先の高松市に越してきたのだった。
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眺めがいい部屋が好きだ。眺めがいい、というのは実に抽象的であって、窓から見える景色が絶景である、という狭い意味ではなく、むしろ、景色というより見通しが開けているのが大事なポイントで、つまり、すぐ近くによその建物の外壁が見えているとか、そういう部屋はどうしても暮らす環境としては避けたい。たとえ日中が仕事で部屋にいることがないとしても、佇まいというか、空間の清々しさというか、自分の感覚ではそういう感覚に繋がっている。だから、自分の暮らす部屋を借りるときは、そういう眺めがいい、というか、景色に見通しや「抜け」があるところを選んできた。
専門家でなくても、日当たり、風通し、そういう基本的な環境の良し悪しは身体でわかるはずなのだが、現代ではそういう基本的な「良さ」よりも「便利さ」や「手軽さ」が思ったより一般での優先順位が高くなっている様子を見ると、いよいよ社会は大丈夫か、なんて心配になったりもするのである。それは、間取りについても同じである。特に、一人暮らしの部屋となると、つまり、いわゆるワンルームとか、そういう汎用的な「商品名」が付いているものの殆どが、実に残念な間取りであることを、世の中の人はどう考えているのだろうか。
玄関を開けたら、すぐにキッチンがあり、住人あるいはゲストは、そのキッチンの作業スペース兼廊下的な場所を通って、いわゆる部屋にアクセスするようにできている。その空間の反対側の壁にはユニットバスがあり、ドアを開けると、ビジネスホテルのバスルームのような、トイレと洗面とバスタブがコンパクトに納められた樹脂パネルで組み上がった小さな空間が出現することになっている。バスルームは合理的かもしれない。ただ、どうしても違和感があるのは、先に指摘した、キッチンの作業スペースが通路を兼ねている、という間取りのあり得なさと、それが普及している不思議さなのである。
これは、ある意味仕方がないことかもしれない、というのは理解できる。経済が生活を支配し始めると、あらゆる物事が経済性のもとにその構造が再構築されていく。最終的に、他に選択肢がない、そういう状況に物事が収斂されていくのである。ここでは、如何に合理的に、つまり最小の面積でワンルームを機能的に作るか、という試行錯誤を経た結果、暮らす人の尊厳を脅かすような間取りに落ち着いたのであろう。その中で、市井の良心的な人々も、感覚が麻痺してしまっているか、あるいは、ここでその流れに抗うほどの余分な労力やお金を費やす余裕はない、と自分を納得させる他ないのだろう。大いなる妥協である。
ただ、僕にはその妥協は許容できるものではないので、自ずとオルタナティブをあたることになる。たとえば、僕の勤めているところでは、高松市の場合、家賃4万5千円は手当が出ることになっている。そして、交通費が支給されない規定の範囲である3km以内という条件も付いている。つまり、職場から3km圏内で、その予算に収まる物件(実際には、高松市でこれだけの予算があれば余裕で部屋を探すことはできる)というのがベースラインとなる。加えて、先に書いた通り眺めが良く、できるだけ広いものが好ましい。そうなると、築年数の経った部屋であればいくつか候補が出てくるようになる。
(続く)
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