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仕事以外のアイデンティティとは?

youtubeで成田悠輔のインタビューの切り抜きを見た。

アメリカに住み現地の価値観を知っている人間から日本の人々の価値観を見ると、日本ではほとんどの人が仕事をアイデンティティとしており、仕事がなくなると自分自身の存在価値を感じなくなってしまうという。

確かに、定年退職した高齢者が自宅でやることがなく途方に暮れているということも聞いたことがあるし、失業すると自分の存在価値が揺らぐという経験は少なからず私にもある。

そこで成田さんは仕事以外のアイデンティティを持つことが重要だと話す。
自分が仕事をしていなくても存在していていいと思えるものが大切であると。

具体的には成田さんは例をあげないがコミュニティのようなものが必要かもしれないと話す。

コミュニティにも色々あるが、
私は昔ながらの田舎の人たちのコミュニティとは少し違うのかなと思う。近所だからという理由でお葬式やお裾分けなど半ば強制的に強いられるコミュニティはいびつで窮屈だと思う。

祭りの時だけ集まるとかもっと軽い関係性であったり、自ら選んだコミュニティであるか?というところが重要なのかもしれない。

最近見て驚いたのが盗撮のコミュニティなるものがあり犯行動機が承認欲求を満たすためということを実行犯は話していた。
コミュニティが承認欲求を満たしてくれ盗撮という犯罪行為を自らの存在意義のように感じてしまったのだろうか。

もし、仕事以外のアイデンティティを持ちたいと思うのであれば、気をつけなければいけないのは健全性のあるコミュニティを選ぶということだ。
「君の力が必要なんだ」という承認欲をいかにも満たしてくれそうな甘い言葉に乗ってはいけない。

マルチ商法、ねずみ講など身近な人に勧められてグレーゾーンなものに手を出すことも少なくない。

では、その善悪の判断はどのようにすれば良いのか?
それは
①お金が絡むかどうか?
②犯罪にならないかどうか?
この2つを考えることだと思う。

つまりは
自分から能動的に始める行動でありお金がかからなくて、犯罪でもないものである。

そういうものは何なのだろう。
私が考えるに、それは困っている人がいたら助けるとか話を聞くということでもいいのかもしれない。ボランティアでもいい。

そもそもの考え方をアップデートする必要があるのかもしれない。
人は別に役に立たなくても生きていていい。
仕事をしていなくても存在していい。
こんな当たり前のことが日本では当たり前ではなく、各人の潜在意識に何故が仕事をしていないと罪悪感を感じるように刷り込まれている。

社会性が最重要視された先祖のDNAの名残かもしれない。我々の先祖は社会性を重んじていなければすぐに村八分にされ生きていけなかったのかもしれない。

現代は違う。良くも悪くもご近所さんでさえ地方でなければ関係は希薄だ。個人と個人の距離が遠い。気楽といえば気楽だ。
孤独と言えば孤独で。

ここで整理したいのは
私達はなぜ仕事にのみ存在意義を見出すのか?という問いである。

そこで考え直すと子供の頃から社会の流れとして仕事にやりがいを持ち働くことが良いことであるという風潮があった。

ドラマを見ても、実際に働いてみてもやりがいを持って働いている人たちが良しとされる感覚は実感としてある。
それは経営者からすると同じ給料で高い成果を上げようとしてくれる人をもてはやすのが普通だろう。
進んで残業を受け入れ、喜んで仕事をする人を良しとする文化を作ったのはメディアであり、国として戦後の復興からの流れではあったのだろう。

経営者、支配する側の都合がいいように社会の流れを作ってきたということだ。しかしSNSが普及し一般人に発言権が与えられると、色んな価値観が共有されるようになり仕事にやりがいを見出すことが本当に良いことなのか?という疑問が出てきた。

幸せと仕事を切り分ける考え方が徐々に広がっている。それが慈愛を自己に向けるということにも繋がる。

私達は働くことが正義であるとどこかで刷り込まれてきた。その洗脳から解かれてきているのかもしれない。

人身事故が当たり前に起こる日本の価値観が幸せに繋がるとは到底私には思えない。

自ら、仕事とアイデンティティを切り離し
自らのアイデンティティを形成していくことがこれからの人生を生きていくうえで大切なことであると私は思う。

私達が本当の意味で幸せになるために。


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