某日、陽の当たる某所にて

海の見える街に越してきてからもう二年経つ。朝から昼にかけては山並みに船の汽笛がこだまし、日によっては目覚まし時計のお役も御免だ。名残惜しさを抱えながらも布団から我が身を剥がし、身支度をしている間に洗濯機を回す。船の汽笛には遠く及ばず、それでも確固たる意思を持つ音がピーピーと鳴る頃には、大方の朝の準備が終わっているのが常である。
ベランダで洗濯物を干すその時間。より正確に言うならば、ベランダに続く窓を開けたその瞬間。その時私の目に入るもののすべてが、私がここにいる理由に思えるほど、海の瞬きは美しいのであった。

私の家から階段を降り、それからもう二つある階段を降りたところには、寺があり、墓場がある。私が家から街へと出る際には、階段を三つ降り、墓場を通り過ぎてそれからまた一つ階段を降りなければならない。下るは易し、上るは難しで、夏場は地獄を見ることになるものの、一年を通し概ね心地よい風が吹く。墓場の横を通り過ぎる時は、不思議とどこかひんやりと感じることもあった。

墓場はぐるりとコンクリートの塀で囲われ、重く錆びた鉄の扉が入り口に構えている。よく風の吹く日には門が開いたり閉じたりを繰り返し、目には見えぬ誰かが入ったり出たりを繰り返しているように見えた。実際はそうではないかもしれないが、そうであると仮定したほうが面白いことは多々あるものである。

ある日、スーパーへ買い物に行こうと例のごとく階段を降り、墓場の横を通り過ぎようとした時のこと。墓場をぐるりと囲んだコンクリート塀の中でも、一段と陽の光が集まる角に、錆び付いた鉄扉のちょうどそばにソレは置かれていた。小さな緑がいくつも芽を出し、太陽に顔を向けて並べている。豆苗である。プラスチックケースに入れられた豆苗は、そこが墓場への入り口であることはつゆ知らぬ顔して、煌々と照りつける太陽の様子を伺っていた。近所の誰かが、墓場で豆苗を再生させようとしていたのだ。買い物から帰ってきても、豆苗は凛とした背を私に向けていた。

豆苗を育てている本人に出会すまでにそう時間はかからなかった。数日後、いっそう背丈を伸ばした豆苗を大事そうに抱え、プーマのジャージを着たおじさんが墓場の横に立っているのを、私は階段の上から眺めていた。おじさんの背中に光る白いロゴマークが眩しい。豆苗はそっとコンクリート塀の角に置かれ、おじさんは家へと戻って行った。突然一人にさせられてしまった豆苗は、外の空気の朗らかさに安心したかのように、風に吹かれている。船の汽笛が低く唸れば、少し体を震わせるようにも見えた。

その後、墓場の角に豆苗を見ることはなくなり、そこには縞模様の猫が鎮座することとなった。陽当たりの良い場所を探した結果、彼もここにたどり着いたのである。ねぇ、そこって暖かいんでしょと話しかければ、気まぐれにニャアと鳴くのであった。


この記事が参加している募集

#この街がすき

43,925件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?