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千早赤阪村の城巡り (PENTAX K-70 + DA12-24mm / DA50-200mm)

 日曜日、あまり乗れてなかったスクーターの気晴らし――エンジンって生き物めいたところがあるもので、火を入れずに放置しすぎるとか、使っても1~2キロの短距離ばかり繰り返すと機嫌を損ねるものです――に行こうかなと、千早赤阪村に楠木正成公の城を巡っていました。

 大阪市内から国道309号をひたすら南下、そのまま府道705号へ移って走っていくと、千早集落の金剛山登山口に着きます。駐車場もいっぱいあるので、スクーターを預けて。
 昼時よりちょっと前くらいだったので、登山客向けの店に入って食事。(料理は美味しいし値段も驚くほどリーズナブルなお店だったんだけど、店員さんをえらく口汚く罵る店主に引いてしまって、あれさえなければお店の名前出して絶賛したかった。アームロックはかけてませんが)


千早城へ登る

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 で、人が次々入っていく金剛山登山道には行かず、府道705号をちょっと上がったところに、千早城へ登る登山口があります。

 時は鎌倉時代の末1331年から、後醍醐天皇の倒幕運動(元弘の乱)に呼応した大楠公は、鎌倉幕府から和泉・河内の実権を奪って勢力を伸ばしました。
 当然幕府の執権北条高時も放置はせず、関東・北陸他日本中から総勢百万という大軍を関西に派遣。
 数々の激戦の末、最後の詰城であった千早城までが包囲されるものの、楠公は数々の計略を駆使して大軍を寄せ付けない。
 包囲軍の方が死傷者を増やして士気を落としていく中、日本中の幕府の軍勢が千早城に釘付けという状況のせいで、あちらこちらで反乱軍が蜂起。京都で足利尊氏が六波羅探題を倒すに至り、千早城はついに落城することなく包囲軍は撤退。
 もはや幕府に力はなく、千早城包囲戦からわずか12日後、新田義貞が手薄になった鎌倉を攻め落とし、幕府滅亡と相成るのでした。

 でまあ、「千早城址はぜったいに落ちないパワースポットだ」と流行語に乗っかったアピール看板も立ってたりもします。楠公にあやかれば受験にも落ちないぞ。
 まあ、元弘の乱のときは落ちなかったけど、その60年後、南北朝の動乱のときに落城しとりますけれどね。 

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 で、千早城址は現在は千早神社となっているので、この登山道は参道という扱い。そのため、ずっとこのように石段で整備されてます。
 560段な。

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 この道は、なんというか特に何もなくひたすら石段を上がるだけ。
 こういう石碑があったものの、「楠公の功はこの山のように高し」といったことを書いてある明治31年のもので、多分地元の楠公ファンの方が建てたくらいのものかと。

IMGP7107 - ヒョウモンエダシャク

 道端の植木にヒョウモンエダシャクが止まってて、広角レンズで寄っても逃げなかった……くらいが写真的収穫でした。

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 20分ほど上がってくると、いかにも山城の郭らしい削平されたところに出ました。
 さほど暑い日ではなかったものの、すでに汗だく。というか上りの石段って坂道よりきつい……(下りは石段が楽)
 かつてはここで茶屋があったけど、今は閉店して建物が残るばかり。

 戦国時代の山城は、やたらと巨大だったり、道が折れていてそこを攻撃できる地形だったりするものだけど、千早城はシンプル。
 最初に上がった平地から、段をつけて小さな郭が4つ並んでいるだけ、間に空堀ひとつ通してもいない。これじゃあっさり本丸に到達できちゃう。山道はともかく、上がってしまってからは防御能力が低い。
 こういうのにも技術の進歩を感じますね。

 とはいえ、鎌倉時代の合戦って専ら野戦で、馬に乗って駆け回って弓を撃ち合うようなものだったから、幕府の攻め手の方もこんな天険の山城を攻めた経験もノウハウもなかったはずで。
 山道に馬を封じられ、徒士で正面から突っ込んで、狭い道で大軍勢も活かせず、道を上がってきた順に撃退されて散々な目に……という感じかな。

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 城址碑があるところに、甲冑をつけた人形がある。
 楠公は百万の幕府軍に包囲されて過ごしていたある夜、こっそり藁人形に甲冑や槍・弓で武装を施して城の外に並べて、その後ろに500人ほど兵を隠れ潜ませた。
 夜明けとともに鬨の声を上げさせると、幕府軍は城を出て攻めてきたのかと思いこんで慌てて藁人形に攻めかかる。
 軍勢がたどり着いて、「なんだ藁人形か」と思ってたら城から岩を落とされ、集まったところを散々な目にあわされたと。

 よって、「なにこのチャチい甲冑」とか笑って叩いたりすると、岩が落ちてくるとまではいかなくても、鳥の糞が落ちてくるくらいはありえる。ここは風雲・千早城だ。

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 で、千早城の本丸にはこの千早神社が鎮座する。
 祭神は楠公と楠木正行朝臣。楠公の夫人・久子刀自も相殿に祀られている。もともとは千早城の鎮守として八幡大菩薩を祀っていたのが、城の亡き後に楠公夫妻・親子を祀るようになったもの。

 楠公がついていれば落ちなくなって万事安心、というものですが、この長文記事に落ちがつかなくなると困るなあ……ということで、千早城登山編はこれで、お後がよろしいようで。

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 祭殿の手前、向かって右手に、金剛山登山道へと合流できる通路があります。そこを通って登山道へ入り、少しだけ山頂側へと歩いたところで、楠木正儀の墓所が。
 楠木正成の三男で、南北朝時代には戦に外交にと凄まじい活躍を残していて、ちょっと手短に語れるレベルではないので、まあウィキペ見てください。

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 今回は金剛山登山が目的ではないので、登山道をおりていきます。
 登山道の脇には小川が流れていて(楠公が千早城にこもったときの水源はこれかな)、道沿いにヤマアジサイがたくさん。この園芸品種のアジサイとは違う素朴さ。いいタイミングで通りかかったな。

上赤坂城(楠木城)へ

 さて、ここからスクーターに乗り込んで移動。
 705号線を北上して、途中の東阪集落で右手に広域農道・南河内グリーンロードがあるので、そっちに入る。

 で、左手にこの建物(千早赤阪村の給食センター)が見えたところで右折。逆から来てると曲がり角の「上赤坂城跡」の看板が見えるんですけど、こっちからじゃわからない……

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 無料駐車場があるので停めると、すぐこんな登山口。

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 で、上赤坂城の登山道はこんな、切り通しみたいな道になってました。
 案内を見る限り、この道に沿って4つの木戸が立てられて敵を妨げてたらしいので、道を付け替えたりはしてないと思います。
 守る側は両側の高台に上がって、寄せ手の上から槍で突く有利な態勢を取れるようにしてるのかなあ。私が知ってる山城には他にない手法だけれど。

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 この空堀にかかった土橋(そろばん橋)を渡ると、二の丸に入ります。
 千早城は主郭しかない小さな城でしたけど、上赤坂城は本丸と東の丸があります。
 千早城はどうやら後詰めの城みたいで、地域支配の拠点として使われていた本城はこっちの上赤坂城(別名に楠木城)だったそうで。だからこっちのほうが大きいのかな。

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 二の丸で大きく道が右折して、そのあたりが茶碗原という広めの平地。
 あじさいがたくさん咲いてたんですけど、どうもなんか園芸品種っぽいから多分植えてるなあ。

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 で、本丸まで上がってくると、城址碑が立ってます。なぜか2つ。
 しかも奥の方は昭和11年、手前のでかいのは昭和14年と3年しか違わない。手前の土台は昭和58年とあるし、ほんとになんなの……?

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 北側には見晴らしが良くなってて、幕府軍が攻めてきたときにはさぞかし大軍を見れたことでしょうな。
 これは真北くらいの方で河南町方面、もうちょっと西の富田林の方も見えます。PL教団の例のタワーも見えるわ。

 千早城の戦いの前、上赤坂城は城内に水源がないところを突かれ、水攻めの末に10日ほどで落城。
 幕府方の大将・北条治時が本領安堵を約束して降伏勧告し、城将の平野将監入道が応じたのだけど、幕府は約束を反故にして平野将監を捕縛して六波羅で処刑してしまった。幕府汚いな。まあその後すぐ滅ぶんだけど。

下赤坂城へ

 下赤坂城は名前通り、上赤坂城から降りてきて、桐山の集落を通り過ぎて千早川に沿った丘の上。現在は中学校。
 千早赤阪村農産物直売所のとこから登れるのかと思ったら無理。そこにあった案内に従って、ちょっと南の消防署の方へ。そこに、無料駐車場もあった。

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 このあたりは棚田がずっと広がっていて、まあ見事な景色。

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 こりゃ秋に金色になる頃は、さぞかし素晴らしい光景に無数のカメラマンが集まることだろうなあ。カメラ持ったおっちゃんがどうやっても映り込むから撮りようがない、みたいになったりして。

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 でまあ、下赤坂城は今となっては遺構もほとんどなく、この碑が立っている程度。
 一応山城ではあるんだけど、この通り棚田に開拓され尽くしてるし、登山らしいことはしなくても、舗装道路を歩いてこれる。(車で来ると迷惑な狭い道しかないので、観光客は消防署のところの駐車場使って歩いてこよう)

 千早城での徹底抗戦に至ったのは、楠公二度目の挙兵のときで、その前にこの下赤坂城で挙兵している。
 「太平記」では、当時無名だった楠木正成を舐めてかかった幕府の大軍が、計略の数々で翻弄されて大苦戦……となってるけど、実際は幕府は楠木正成は名将だと認識していて、この下赤坂城に足利尊氏を含む大軍を差し向けた。
 それであえなく落城するのだけど、幕府方がそれほどの大軍をもって楠公を討ち取って護良親王を捕まえるぞ、というつもりが両方に逃げられてしまって。幕府に力なし、と思われる遠因はこのときからあったのでした。

道の駅ちはやあかさか(楠公生誕地)

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 近くの道の駅ちはやあかさかには、楠公生誕地の碑がありますね。
 まあ、この地点がずばりという資料はないと思うんで、おおらかにこの千早赤阪村のどこかが生誕地だ、というくらいの意味かなあ。

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 道の駅で売ってたこのソフトクリーム、390円となかなかの値段するだけあって味は素晴らしく良かった。
 道の駅は小さいけど、売り物は良さそうだ。

 郷土資料館もあって、やっぱり専ら楠公絡みの資料が展示されていた。鎌倉時代の、戦国時代のものと比べても明らかに古い甲冑まで展示されてたけど、当時モノだったのかな……


 さて、今回の千早赤阪・城巡りはこれでおしまい。
 いやー、いい一日だった。

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