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遺産

男はずっと小説家になることを夢みていた。でも、アイデアは溢れるように思いつくのに、なかなかそれを形にすることができなかった。数ページ書いては息が切れて手が止まり、そしてまた次の構想が生まれてそちらの方を書きかけてはまた手が止まり、その繰り返しだった。

妻は、まともに仕事もせずただ夢みるだけのそんな男を、あなたならいつかできると優しい言葉で励ましながら、二人で生活するために一生懸命働いた。妻は仕事から帰ってくるといつも、男がその日思いついた小説のアイデアを熱心に語るのを楽しみに聞いた。男は明日はこの話で執筆にとりかかるぞ、とメモに残した。けれど、その話が完結することはなかった。

やがて男は体調を崩し、いつも支えてくれた妻への感謝と裕福な生活を送らせてやれなかった謝罪の言葉を告げて、無念のまま死んでいった。後にはたくさんのメモが残された。周囲の人たちはなんの資産も残さず妻に苦労だけさせて死んでいった男を妻の前で責めたが、妻は二人で過ごした日々が全く苦ではなかった。その後も夫との日々を思い出しながら仕事を続け、やがて定年を迎えた。

仕事に行かなくなった妻は、自分に趣味というものがないことに気がついた。何をしたら良いのかさえわからず、相変わらず夫の残したメモを見ながら思い出にひたっていたとき、ふとこれを形にしてみようと思いついた。文章など書いたことも無かったが、話の内容を語る夫の様子はよく覚えている。夫ならどんな言葉を選ぶのかどんな言い回しをするのか、思い出しながら原稿用紙に綴った。その時間は二人でいられるような感じがしてとても楽しかった。みるみるうちに話は出来上がっていった。

あるとき、書きあげた小説を茶飲み友達に読ませる機会があった。その話はとても友人を感動させ、そのまた友人に貸し出された。さらに別の知人に渡り、何人もの間を旅し続けた。その中にたまたま本の出版に関わる人がいた。その人は妻の元を尋ねた。そのころには妻は夫の代わりに書くことが楽しくてしかたなく、すでに何作も出来上がっていた。そしてそれらの話はどんどん世に出されていった。

最後まで夫を支えた妻、励まされ夢をみ続けた夫という夫婦の逸話なども手伝って作品は人気を呼び、どの作品もベストセラーになった。おかげで妻の収入も増えた。周囲の人たちはこんな素晴らしいものを残してくれた夫を褒め、意志を継いできちんと形にした妻を讃えた。

妻は、夫に感謝した。大金が手に入ったからではない。まだまだ夫が残したメモはたくさんある。妻は夫の代わりに書いているその時間がたまらなく好きなのだ。夫と一緒にいられるような気がするその時間が。今日も妻は夫の代わりに原稿用紙に向かい、夫婦の共作を書き続ける。




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