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第一話 ピザトーストと窒息

 ――『はがねの女王』久留木舞くるき まい 女流雀王じょりゅうじゃんおう死守!

 一文の中に同義語があると損をした気になる。この短い文章の中に『女王』と『雀王』、『女王』と『女流』と、どれだけ女で王であることを示したいのか、苛々してくる。しかしこの煽り文句はこれ以上削ることはできないのだろう。一読で私――久留木舞――のあだ名を『鋼の女王』に定着させなくてはいけないし、この間のリーグ戦の結果も示さなきゃいけないのだから。
 その編集者の意図は分かるけれど苛つく文章だ。
 それに、この間のリーグ戦の前までは『鉄の女王』だったのになぜ急に『鋼の女王』にしようと思ったのか。鉄と鋼でなにが違うというのか。死守っていうほど大きなタイトル、そもそも麻雀にはないではないか。
 苛立ちと共に疑問が次から次へと沸いてきて、結局、そのダサい煽り文句が書かれた雑誌をめくる気になれなかった。


 ここ一カ月、うまく眠れていない。
 夜働いているから夜に眠れないのは仕方ないとして、明け方になっても朝になっても昼になっても一向に眠気が来ない。市販の睡眠導入剤を飲んでみてもスマホの電源を切ってみても部屋のカーテンを替えてみても、全く眠くならない。ここまでくると諦めるしかないような気がしてきて、今日に至ってはとうに日付を越えているというのに食パンを作り始めてしまった。
 『そんな風に』私の人生は成り行きだ。
 特別それを選んだわけではなく楽な方を選んでいたらここに辿り着いていた。いつかは本気出すと思うことさえ・・ないまま、この調子で死んでいくのだろう。
 やりたくないことはしない。できないこともしない。極力頑張らない。これが私の人生の三箇条だ。
 だから眠れないならいっそパンを作る。実に成長性が見えない人生だ。

「この食パンくん、どうやって食べようかな……明日のお昼にピザトーストにしようかな……本当はピザがいいんだけど、ピザを一人で食べてたら引かれるし、ピザ配達って愛想なさすぎて心折れるし……いっそピザトーストを自分で作った方が傷つかなくて済むからね……こんなこと話していると食パンくんの胎教に悪いかしら? ごめんね? おやすみね? よく寝て大きくなるのよ……」

 パン生地を型に詰め、オーブンで二次発酵をさせる。『この子は二十分後には二倍の大きさになるのね』とパン生地に母性を抱き始めているあたり、いよいよ行きつくところまで行きついた二十九歳といえるだろう。自覚があるのだから許していただきたい。
 私はこの悲しい現実を紛らわすためにテレビをつけた(余談だが、対面式キッチンの良いところは食べる人の顔が見えることではなく、料理をしながらテレビを見られることだと思う。決して食べさす人がいないとかそういう話ではない)。チャンネルを回していると、一昔前に流行ったラブコメディードラマが再放送されていた。
 一度も観ていないドラマだったが、お転婆なヒロインとクールなヒーローという分かりやすいキャラクター設定のようで、話についていけそうだ。やる気なくその番組を眺める。今日は海水浴の回らしい。
 テレビの中ではイケメンと美女が水際ではしゃぐ一方、こちらは真冬の深夜、骨まで寒さが染みる静かな夜だ。

「……寝たい」

 今の私に必要なのはイケメンによる顎クイではなく睡眠であることは間違いない。胸をキュンとさせる暇があったらシンと静かに眠りたい。海水浴よりも森林浴。塩水を浴びるぐらいなら酒を浴びて寝た方がましだろう。
 ――リンとオーブンが鳴った。
 何一つ思考もドラマの展開も進まないまま、ニ十分過ぎていたらしい。

「ああ……、だるい」

 二倍の大きさになったパン生地を取り出してオーブンを二百度に予約をした。
 テレビ画面の中ではイケメンが格好いいことを言っているようだが、脳髄までその意味が届いてこない。目を開いていることもだるくなり、壁にもたれて目を閉じた。

『俺がお前を好きなことぐらい知っているだろ!』

 なに言ってんだこのポンコツと思いながら目を開くと、画面の中のヒロインは赤面していた。そしてオーブンに映る自分の顔はヒロインと同じ人類のものとは思えないほど乾ききっている。
 ――リンとオーブンが鳴り、余熱が終わる。

「……駄目だ!」

 理由はないが『このままでは駄目だ』とはっきり分かった。

「もう食べよう! 今食べよう! 今すぐにピザトースト食べよう!」

 時間はついに三時を過ぎたが、そこについては考慮しないものとした。
 予熱の終わったオーブンにパン生地を入れて、冷蔵庫の中身を確認するとケチャップもトマトもない。食品のストック棚を見てもケチャップの予備はなくトマト缶すらなかった。これは諦めろという天からの啓示だろうか……。

「……しかしもう口の中がトマト……」

 焼きたてパンに貪りつく、クロックムッシュ、フレンチトースト、……代替案はいくらでも出せるが、私の口が求めているのは『ピザ』だった。つまり他に選択肢はない。私は頑張りたくないのだ。
 モコモコのソックスをニーハイに履き替え、ロングコートを羽織る。胸まである髪をコートの外に出せば下にパジャマを着ていることはバレないだろう。マスクをつけたところでタイミング悪く、リン、とオーブンが鳴る。

「今日はもう本当に駄目だな……」

 キッチンに戻ると焼きたてのパンの匂いが満ちていた。
 オーブンから取り出したパンを型から外すとそのままで十二分に美味しそうだ。このまま貪りつけばいい気がしてくるほどの香しいパン。

『留学するって本当?』
『ああ……向こうの大学で勉強したいんだ……』

 つけっぱなしのテレビの中で美男美女が、夕日を見ながら語り合っていた。

「……え、きみたち、高校生なの? 高校で……海辺で……語り合うこと……ある……?」

 私はテレビを消し、型を水洗いしてから、トマト缶を買いにコンビニに向かった。


 深夜のコンビニエンスストアの前はタクシーが止まっていた。
 運転席には帽子で顔を隠した運転手が眠っている。人生に余裕のある人は『こんな時間は働かずに家にいたらいい』と思うかもしれないが、需要があるからこういう可哀想な人が生まれるのだ。そんなタクシーを横目に『二十四時間営業』という可哀想なサービス業代表コンビニエンスストアに入った。
 店員は休憩室にいるらしく、レジは無人だ。
 ぐるりと中を見渡すと雑誌売り場に男性が一人いるだけだった(黒尽くめの恰好の、今時の若者らしい細身の男性だ。多分大学生ぐらいだろう)。
 私はカゴを持ちストック品売り場に向かう。
 高校生の時に男子と海水浴なんて行ったことがない私にできることなんて本格的なピザトーストを作るぐらいなので、一番高いトマト缶を選び、乳製品売り場で一番高いゴーダチーズを選んだ。さらに言えば、海なんて小学生のときの遠泳以来行っていない私だ。マッシュルームもカゴに入れた。ここまで来たら夜更かしを満喫しようと、さらに雑誌売り場まで足を進める。

 ――『鋼の女王』久留木 舞 女流雀王死守!

 グラビア雑誌の隣に置かれた麻雀雑誌の表紙、愛想笑いを浮かべた自分と目が合った。この雑誌がグラビアと勘違いしてもらえるぐらい可愛い女流雀士になりたい人生だった、とその雑誌から目を逸らし、他の雑誌を眺める。
 多種多様な雑誌が自分の一押しを表紙上部に持ってきて『見て!』『私を読んで!』と騒いでいる。どれも魅力的で、どれも生き生きしていて、枯れ果てた私が持っていていいがしない。ふと、先にいた男性が立ち読みしている雑誌が目に入る。その表紙には美味しそうなカレーの写真。とろとろのルウにごろごろと大きな具と食欲をそそる湯気……深夜に見るべきものではない。棚には『春に向けて!』『メイク!』『デート!』と女性雑誌も並んでいる。
 だから私は『春服特集』に手を伸ばし……、その隣の『カレー特集』を手に取った。乾いている私が湯気に負けるのは仕方ないことだった。
 雑誌を開いて、カレーを眺める。最近の激戦区は神保町らしい。グリーンカレーは作ったことないけれど、なにが入ってこの緑にしているのだろう。ピザトーストにしようと思っていたけれど、この際、カレートーストでもいいかもしれない。雑誌をめくり、つやつやのカレーを眺めて、唾をのむ。

 ふ、――と、【なにか】に呼ばれたような気がして、雑誌から視線を上げる。

 ガラスの向こうで、タクシーの『空車』の赤い文字が光っていた。その運転手は相変わらず眠っている。なんてことない光景のはずなのに、何故か私の目はそれから外せない。それどころか、ドク、ドク、と心臓がうるさく喚きだす。
 ――『ヤバい』。
 嫌な予感がする。この、背中に氷を入れられたかのようなこの寒気。奥歯が抜けるようなこの悪寒。これは、『ヤバい』。
 対面に座った親が役満に手をかけたときのようなこの『予感』、なにかが来る前の『予感』。
 ――目の前で、タクシーが動き出した。
 一瞬で全身にあった倦怠感が消え失せる。

「危ない!」

 私が隣に立っていた男性にタックルをかけるのと、自分の背後で破壊音が鳴り響くのは同時だった。
 飛び散るガラス、ふっとぶ雑誌、飛んでいく商品棚。飲料品売り場のガラスケースに破壊されていくコンビニの風景が写る。背後で行われているその地獄絵図はコマ送りで、やたらとゆっくり流れていく。飛んで、潰れて、壊されて……。

「……、な、なに……?」

 すべての音が止まってから振り返ると、無人のレジにタクシーが突っ込んでいた。
 タクシーのチカチカ光るハザードランプを見て、なにが起きたのか理解できた。

「ダイナミック入店じゃん……」

 場違いなネットスラングがこぼれてしまった。まさにそのネットスラングの通り、タクシーはダイナミックにコンビニの半分を破壊していた。しかしタクシー自体には大きな破損は見られない。バコン、と扉を開けて運転手は自分の足で下りてきた。ふらついてはいるが元気そうに見える。
 休憩室からとびだしてきた店員が「まじかよ!」と叫んだが、彼もレジにいなかったから怪我はしていない。
 よかった、死人はいない……そう思ったときに――チッ、と真下から舌打ちが聞こえた。

「あっ! ごめんね!」

 私は男性を押し倒した挙げ句、今までずっとそのおなかの上に乗っていたことに気が付き、慌ててそちらを見た。

「え……」

 男性の瞳を見た瞬間に――『ヤバい』――タクシーが突っ込んできたときとは比べられないほど明確に『その予感』が、足元から、腹の奥をえぐって、脳髄に駆け上ってきた。
 私を見上げるその瞳には光が全くない。
 彼は、まるで排水溝に集まった髪の毛を見るかのような目が私を見ていた。能面のように全く感情がない表情が私を見上げている。

『ヤバい』

 彼の胸の上におかれていた私の手の平は、トク、……トク……と落ち着いた心音を聞く。あと少しで死んでいたというのに彼の鼓動はどこまでも落ち着いている。まるで、すべてが予定調和だったかのように、落ち着いた鼓動。冷たい視線。

『ヤバい』

 彼の瞳には殺意がある。それも自室にもぐりこんできた羽虫に対して抱くような、罪悪感を伴わない殺意だ――邪魔だなあ――というそれだけの思い。それが『私』に向けられている。逃げなくてはいけないと思うのに、金縛りにあったかのように全身が凍る。
 その人の腕が持ち上がるのを視界の端でとらえる。『ヤバい』。その手が私の命を刈り取ろうと――

「下りていただいてもよろしいでしょうか?」

 彼の手が軽く私の肩を叩いた途端、金縛りがとけた。

「……ごめんなさいっ!」

 慌てて下りると「いいえ」とその人は短く答え、すぐに立ち上がった。背後で店員とタクシー運転手が話しているのは分かるけれど、自分の鼓動が煩くて内容が聞き取れない。
 ――逃げないと。
 頭の奥で急にそんな言葉が浮かんだ。そうだ。ここにいてはいけない。早く逃げないと――しかし、私の体がそれを実行する前に腕を掴み上げられた。

「ひっ」

 氷の瞳が私を見下ろしていた。

「立てないんですか?」

 うんざりしたようにその人が冷たく私を見下ろす。

「立てる……今、立つからっ……離して……」

 自分の声が惨めに震えていることにさらに恐怖が沸き立つ。蛇に睨まれた蛙だ。ここにいたら『捕食』される。ここにいたら『死ぬ』。ただ見られているだけなのに恐怖が全身を襲う。掴まれている腕から鳥肌が立ち、全身が凍っていく。

「……大丈夫ですか?」
「大丈夫! 大丈夫だから……」

 なんとか「離して」ともう一度言うが、その人はむしろ強く私の腕を掴み直した。

「足、怪我していますよ」
「え……?」

 自分の右足を見るとニーハイが破れて血がにじんでいた。よく見れば足元に置いていたカゴもひっくり返っている。どうやら彼をタックルしたときに、私はトマト缶を足でつぶしたようだ。そこで切れてしまったのだろう。

「……いっ……いたい……」

 気が付いた途端に痛み出す足をおさえると、手の平に血が付いた。

「ああ……痛そうですね」

 ふ、と頭上で息を吐くように悪魔が笑った。
 痛みに呻く私を見て満足そうに笑っている。寒い。怖い。どうしよう。どうしよう。どうしよう。死にたくない。殺されたくない。でも、どうしたら――

「怖かったでしょう?」

 ふと、落とされたその声に、うんざりとした冷たさは抜けていた。
 恐る恐る私の腕を掴んでいるその人を見上げると、『彼』は先ほどまでの無表情が嘘みたいに人当たりの良い笑顔を浮かべていた。

「もう大丈夫ですよ。本当に怖かったですね」

 その顔も声も普通だ。普通の人が、普通に私を見下ろしている。

「……あ、……うん、そうだね……怖かった……」

 なんとかそう答えると「そうでしょうね」と私に共感を示してから、彼は私の傍に膝をついた。彼の右手が私の右足の傷に触れる。痛みに私が顔を歪めると彼はすぐに手を離す。

「そんなに痛みますか?」
「うん……」
「失礼します」
「えっ」

 彼は当然のように私を姫抱きにしてしまった。そのモッズコートからクロエの香りがする。

「ちょっと……っ」
「店の中は危ないので外に出ましょう」

 彼はジャリジャリとガラスを踏み潰しどこかへ歩いていく。

「なんで抱っこするのっ⁉」
「あなたの靴じゃここを歩くのは危ないからです」
「なんでっ⁉ きみは大丈夫なの⁉」
「俺はミリタリーブーツなんでこのぐらいなら問題ないです」
「なんでそんなの履いているのよっ!」
「え? そうですね、……デザインが好みだからでしょうか?」

 ドアがなくなったコンビニの外に出ると冷たい冬の風が頬に当たる。私が身を震わせると「寒いですね」と彼は笑った。

「下ろしますね」
「あ、うん……」

 彼は私をコンビニ脇に設置された喫煙所のベンチに下ろしてくれた。それから「少し待っていてください」と彼は足早にコンビニに戻っていく。それを見送ってから、自分の体をぎゅうと抱きしめる。

「……なに、あの人……」

 額に手を当てると汗をかいていた。
 冬なのに前髪が額にはりつくほど汗をかいている。吐いた息が白く染まるのに、体の奥から熱くなっていた。体を折り曲げて額を膝につけ、自分の鼓動を聞きながら息を深く吸う。
 『怖かった』。――でも、なぜ、あんなに怖かったんだろう。

「大丈夫ですか?」

 戻ってきた彼が心配そうに声をかけてくれた。
 眉を下げて『心から』心配しているような顔をしている。その顔は『普通』だ。
 さっきの彼に対する恐怖は私の勘違いだったのだろうか。……そうかもしれない。そうではないかもしれない……。どちらにしろもう『やばい』という予感も、彼に対しても恐怖はなかった。ただ、疲れていた。
 体を起こして「大丈夫」と答えると「無理しないでくださいね」と優しい言葉をかけてくれた。

「じゃあ、足を見せてもらいます」
「……は?」
「大丈夫です。俺、応急処置は得意なので」
「え? なに、その特技……」
「水かけますね。冷たいですよ」
「きゃっ! つ、冷たいんだけど……」
「そんな顔で見ないでください。冷たいって言ったでしょう?」

 彼はミネラルウォーターで私の足を洗ってから、消毒液、ガーゼとテープを使って応急処置をしてくれた。「売り物?」と聞けば「そうですよ。コンビニにはなんでもありますからね」と笑う。応急処置を手早く済ませると、彼は財布を取り出した。

「ちゃんと病院に行ってくださいね。それから、ここに連絡してください」
「連絡……?」
「お姉さん美人だから単なる下心ですよ」
「は?」

 私の膝の上に一枚の名刺と三枚の一万円札を置いて彼はにこりと笑った。

「は、なにこれ」

 しかしそれを返す前に「じゃあ」と彼は足早に去ってしまった。

「……は?」

 彼の姿がもうどこにも見えなくなってから、ようやく遠くから赤いテールランプが近づいてきた。私はそれがこちらに来るのを見ながら「嘘でしょ、これから事情聴取ってこと……?」とさらに疲れるのを感じた。

 ――このとき、『私達』のことを遠くから見ている男がいたなんて、私は勿論、知らなかった。


「……東京都文京区本郷一丁目のコンビニエンスストアに……」

 昨日の事件を報じるニュースを見ながら私はチーズトーストを食べる。
 あの後、交番で事情聴取を受けている間に夜が明けてしまい、結局トマト缶も買い損ねたのだ。すでに口の中はピザではなくなっていたとはいえ、あんな思いまでしたのに目的を達成できなかったことにはげんなりするが、これはこれで美味しい。ケチャップの代わりにはちみつをかけたチーズトースト、これは朝にはぴったりだ。
 母からは「あんたまた夜中にパンなんか作って……そんなことできるならパン屋でバイトしなさいよ、麻雀なんてやめて……」と説教されることになったが、まあ、それも一興だ。
 母とパンを食べながらニュース番組を見る。

「これ、あそこのコンビニじゃない。事故? 怖いねえ」
「私このときコンビニいたよ」
「えっ! なにしているの!」
「ケチャップなかったから」
「あ、そういえばそうだったわ、買わないと……そんなことどうでもいいのよ! 怪我したの⁉」
「したけどたいしたことない」
「見せなさい!」
「えっ」

 『彼』に治療された足は腫れることもなく、すでにただの擦り傷となっていた。母はガーゼを捲って、その大したことない傷を見ると安心したように息を吐く。心配してくれたらしい。少し嬉しい。

「これなら痕も残らなそうね……もう、だから雀士なんていやなのよー」
「今関係ある、それ……?」
「普通に朝起きて! 仕事して! 夕飯には帰ってきて! 夜は寝る! 普通に! どうしてそういう生活ができないの! 雀士だったとしてもそのくらいしなさい!」
「そういう普通の生活している人が息抜きで来るところが雀荘だから無理じゃないかなあ……」
「あんた、これ、病院でやってもらったのよね? テキトーに自分でやったんじゃないわよね?」
「これはたまたまコンビニに居た人が……」

 そこまで言ってから『ミスった』と気が付いた。

「あんたそれ! ちゃんとお礼言ったんでしょうね⁉」
「え……いや、いいでしょ。なんか気持ち悪い感じの人だったし……」
「あんた‼」

 この後、お礼を言っていない事と三万円渡された事を暴露するまで母の追及は続き、お礼を言いに行くことを約束するまで説教が続き、結局、渡された名刺の電話番号に連絡を入れるまでリビングから退室することはできなかった。

 ――松下 白翔 株式会社バスタルド

 あとは電話番号だけ書かれたシンプルな名刺だ。ひっくり返すと同じ内容が英字で表記されている。Akito Matsushita……、『白翔』と書いて『あきと』と読むらしい。
 こじゃれた名前だなと思いながらそこに書かれた携帯番号に電話をかけると三コールで『もしもし、松下です』と低い声が電話に出た。出なければよいものを……と思いつつ、口を開く。

「えーっと昨日……この名刺を受け取ったんだけど……」
『失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?』
「昨日名乗ってないから知らないでしょ、なんで聞くのよ」

 本音で話したら「ばか! お礼を言うんでしょ!」と母に脇腹をつつかれ「名乗りな!」と怒鳴られた。渋々「久留木です」と名乗ると電話の向こう側で『くるき……?』と彼が呟く。

『申し訳ありませんが、私にどういったご用件でしょうか?』

 私だって別にかけたくてかけているわけじゃない。むかむかしてきた。

「昨日のお礼に?」

 母に脇腹をつねられた。イッタ、と声を出してしまうぐらい痛かった。

『お礼? なんのことか分かりませんがお気になさらず……』
「というよりお金返したいからどこにいるか教えてもらっていい? なんで住所書いてないのこの名刺」

 電話の向こうで彼が『あっ』と急に思い出したような声を上げた。

『ああ、昨日のお姉さんでしたか。ごめんなさい、すぐに思い出せず……あの後、ちゃんと病院には行かれましたか?』
「え? 行ってないけど……」
『それは良くないですね。足は動きますか?』
「ただのかすり傷だし、こんなの」
『お金を返したいということはこちらに来ていただけるんでしょうか?』

 矢継ぎ早に来る質問につい「行くつもりだけど」と返すと、彼が『それは嬉しいです。またお会いできるんですね』と嬉しそうな声が返ってきた。何故か寒気が走った。

『でしたら、東大前に来ていただけますでしょうか。駅まで来ていただければお迎えに参ります』
「東大前……? 南北線?」

 くすくすと彼が笑う。

『ええ、改札出たところで待ち合わせしましょう』

 流されるままにそんなことになってしまった。

「……ちょっと出かける。そのまま打ってくるから……」
「あんたの勤め先、木曜は休みでしょ! どこ行くの!」
「雀荘だよ! 雀荘なんていくらだってあるの!」
「この駄目人間! ちゃんとお礼言うのよ⁉」
「分かったってば……駄目人間ってひどくない?」
「あ。それでその人、イケメンなの?」
「へ? ……顔なんか覚えてない」
「あんたね!」
「いってきます!」

 第二次戦争が起きる前に私はコート片手に家を飛び出した。


 改札を出て人の流れを避け柱の前に立ち、ポケットから携帯を取り出そうとした瞬間――ぞっと寒気が走った。『捕食される』。昨日ぶりのその恐怖に咄嗟に構えをとる。

「また会えましたね」

 目の前に『彼』が立っていた。
 一目見ればどうして忘れられたのだろうというぐらい、ハンサムな顔立ちをしている。年は私よりも少し下だろう。昨日と同じ黒のモッズコートにミリタリーブーツを身に着けた彼が、私に歩み寄る。

「昨日ぶりです、久留木さん」
「……そうね」

 彼に名前を知られたことはとんでもない失態だったような気がする。
 こみあげてきた生唾を飲み下し、彼の目を真っ直ぐに見る。目を逸らすのは負けだからだ。だから全力で睨みつける。しかし彼は赤みがかった茶色の瞳を細めて「そんなに見られるとドキドキしちゃいます」とふざけるだけで、雀士の本気の威嚇をいなしてしまった。
 私は拍子抜けした。

「……昨日はありがとう。それでお金返していいかな?」
「ここじゃなんですから喫茶店にでも行きましょうか」
「え、なんで?」
「あはは」
「笑い事じゃないんだけど……」

 しかし彼は話を聞く気はないのか歩き出してしまった。お礼も言えていないしお金も返せていない私はついていくしかできない。渋々その隣を歩きながら「なんなの?」と聞くと、彼は私を見て「なにがです?」と笑った。

「きみ、別に女に困ってないでしょう? こんな年増に声かけなくていいんじゃない?」
「二十九歳は年増じゃないですよ」
「は? なんで知ってんの……?」
「俺は二十一です。医学部三年生。それから株式会社バスタルドの社長をやっています。学生実業家というやつですね」
「は? 聞いてないんだけど?」
「彼女はいません」
「だから聞いてないんだよね、きみの個人情報は……」

 彼はくすくすと笑う。品の良い笑い方だった。
 彼は私よりも頭一つ分大きいのにとてもゆっくりと歩いてくれ、車道側を歩いてくれ、人がぶつかりそうになれば私の肩を引き寄せてくれた。紳士的な青年だ。なのに私は彼に対して少しも警戒を解くことはできなかった。

「ここでいいですか?」
「なんでもいいよ」

 彼が案内してくれたのは歴史を感じられるレトロな喫茶店だ。
 煙草臭いところや傷だらけのビニール椅子、銀色の灰皿などは雀荘を彷彿とさせる。私には落ち着くデザインだが若い子には人気がないのか、店内は年配の客が多い。店の二階席に向かう階段下のスペースの席に向かい合って座ると、彼は私に灰皿を差し出した。

「私は吸わない」

 彼は意外そうに目を丸くした。

「麻雀を打たれる方は吸われるものかと……」
「調べたの?」
「珍しい苗字ですから」

 やはり彼に名前を知られた時点で面倒だった。
 私は財布から名刺を一枚取り出す。彼は私の名刺『女流雀士 久留木舞』を受け取ると「雀士ってどんなお仕事されるんですか」と聞いてきた。

「興味ない女の興味ない仕事のこと、聞いて楽しい?」
「どうしてそんなに警戒してらっしゃいます?」
「女は急に声をかけてきた男を警戒するもんなの」
「先に押し倒してきたのは久留木さんじゃないですか」
「語弊がある言い方はやめてくれる⁉」

 何言ってんだこの小僧、とまでは口に出来なかった。何故なら、――彼は耳まで赤くしていたのだ。

「すいません……こういうこと言うの、恥ずかしいですね……」

 彼の表情は純粋な少年のもので、私は咄嗟に「すいませんカレーライス二つください!」と叫んでいた。

「カレーライス好きなんですか?」
「うるさいっなんなの、きみ! 絶対、そんなキャラじゃないでしょ!」
「そんなキャラと言われましても……俺をなんだと思っていますか?」
「なんだとって……」

 そこで言葉が止まる。
 ……なんだろう。
 目の前の彼は好青年に見える。でも、私の中の誰かが『信じるな』と言っている。『信じたら殺されるぞ』と言っている。
 だから私は彼を睨むことしかできない。彼はそんな私を見て、困ったように笑った。

「久留木さん、俺を嫌いでもいいのでひとつお願いがあります」
「……なに?」
「俺の会社で足をちゃんと診てもらって下さい」
「……あなたの会社ってどこにあるの?」

 彼は、この国で最も有名な大学附属病院の名前を挙げた。

「受付で俺の名刺を出してもらえれば話は通りますので」

 そこまで言うと、立ち上がり「怖がらせてごめんなさい。二度と連絡しませんから」と寂しそうな顔と声で言ってきた。その言い方が気に食わなかった。だから私も立ち上がり、彼の胸を人差し指でさした。

「別に連絡しないでなんて言ってないでしょ。なんなのその言い方」
「え、いやでも……だって、俺はあなたを怖がらせたいわけじゃなくて……」

 ごにゃごにゃと聞き取れない小さな声でなにかを呟く。それにもムカついて一歩距離を詰めると、彼は私から目を逸らして顔を赤くした。

「松下くん、きみはなんなの? なにを隠してんの?」
「あ、俺の名前覚えてくれているんですね。ありがとうございます」
「いや……だからそんなピュアな反応しないでくれる? 医学部生なんて女食い放題でしょ?」
「ちょっと、近いですよ……」
「私が痴漢しているみたいな言い方やめて!」
「いや本当に近いですってば、久留木さん……とにかく俺の会社に……俺は迎えが来てしまったので案内できませんが、俺のところはこの日本で最も技術に安心がおけるところですから」
「迎え?」

 喫茶店の入口の方から「白翔!」と彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 そちらを見るとスーツを着た中年の男性がこちらに向かって歩いてくるところだった。松下くんに「知り合い?」と聞くと「ええ、まあ……」とうんざりしたように彼が答える。そして歩いてきた男性は、いきなり松下くんの胸倉をつかんだ。

「ちょっと! あんたなにしてんの!」
「あ、大丈夫です、久留木さん。この人、前時代的な人間なので仕方ないんです……」
「仕方ないことないでしょ! 離しなさいよ! そんなことしなくても会話はできるでしょ、馬鹿じゃないの!」

 全く抵抗しない松下くんからそのおっさんを引きはがすと、彼らは目を丸くして私を見た。その顔はやけに似ていて、それにもムカついた。「なんなの」と松下くんに聞くと、彼は「なんでしょうか、中島さん」とおっさんにその質問を投げた。おっさんはムと顔をしかめる。

「分かっているだろう? 『事情聴取』だ、署まで来てもらうぞ」
「また俺が悪いと決めてかかっている時の顔をしていますよ。そんな風に決めつけて、中島さん、今まで俺が悪かったことがありましたか?」
「今度の悪さは『殺人未遂』だ。お前がいくら言い逃れしようが来てもらう」
「仕方ないな。……久留木さん、お願いですからね。ちゃんと足の怪我を看てもらってくださいね」

 彼は私にそう言い残すと「早く来い!」と叫ぶおっさんに連れられて喫茶店を出ていってしまった。

「……なんなの、あの子……『殺人未遂』? 昨日の事故、『やっぱり』松下くんのせいなの? ……っていうかお金!」

 残された私はお金を返していなかったことと、店員さんが届けてきたカレーライス二つを前に途方に暮れるしかなかった。


 とにかくお金を返さないといけない。
 私はカレーライスを食べきってから、彼の会社とやらがあるという病院に向かった。彼の言う通りに病院の受付で名刺を見せると、病棟ではなく『研究棟』という建物に案内された(様々な病気の研究を行っている施設らしい)。松下くんはここの一室を借りているそうだ。
 研究棟の入り口近くの街路樹には吸い殻がたくさん落ちていた。こんな汚いところで何を研究できるのだろうと思いつつ、渡されたセコムカードをかざしその建物に入ると「こっちです!」とひとりの青年が手を振ってきた。

「待ってましたよ、久留木さん!」
「……はあ……誰?」
時任ときとうです! 松下さんの部下です!」

 時任くんは松下くんよりは年上で私よりは年下の小太りの青年で、どことなく犬っぽかった。

「ねえ、私はお金を返したいだけなんだけど」
「いやいやいや! 足診せてください! だって松下さんはヤバいんですよ。まじでヤバいんです。だから松下さんが絶対治せって言うから絶対治しますから!」
「ヤバいってなに……?」

 彼はニコニコと笑いながら私を建物の奥へと引っ張っていく。廊下にはたくさんの貼り紙がしてあり、誤飲注意やら改装工事についてやら、忘れ物一覧まで情報が出ていた。外部の人間が読んではいけない気がしてならないが、いいのだろうか。ぼんやりとその壁の情報を読み流しつつ、彼についていく。

「ねえ、私の足はすでに擦り傷なんだけど」
「いいからいいから! あ、ここの説明しますね!」
「いや別に興味ない」
「いいからいいから!」
 
 彼の勢いに押されてその建物の奥へと進みながら、ぺらぺらとその説明を聞き流す。要するに、この研究棟は日本を代表するすごいところってことらしい。そんな大層なところで擦り傷を診てもらうアラサー……色々と厳しいものは感じる。

「松下くんは私に嫌がらせしたいだけでしょう、これ」
「まさか! 擦り傷だってばい菌はいっちゃったら怖いんですよ?」
「はいはい……そうかもね……」
「つきましたよ! ここが僕らの城です!」

 時任くんに連れられてその『株式会社バスタルド』と表札がかけられた扉を開けると、様々な機械が置かれている近未来SFみたいな部屋だった。見たことない機会ばかりだ。それに壁際の棚には様々な賞状やトロフィーが並んでいる。時任くんは私の視線に気が付くと「これは松下さんがとったものですよ」と彼の功績を説明してくれた。
 やっぱり難しいところは分からなかったが、松下くんは医学部生でありながら『とある病気』に有効な治療法の先駆者だそうだ。そして三年前に「この治療法を実践するには起業するのが一番速い」と会社を創立したそうだ。要するに、頭がいい偉い人ということだろう。

「へえ。若いのにすごいね。漫画みたい」
「そうそう! 松下さんはチートなんですよ!」

 皮肉で言ったことが褒め言葉で通ってしまった。実にうさん臭くて、鼻で笑ってしまう。

「その、チートの松下くんって彼女いないの?」
「そういう話、今まで全然聞かなかったんですよ。めちゃくちゃモテるんですけどね! でも中途半端なことはしない人で、……だから『久留木さんに傷を残すな』って言われて、ついにそういう感じなんだなあって!」
「そういう感じ? どういうこと?」
「うちの人間みんなもう大盛り上がりですよ!」
「勝手に盛り上げられても困るんだけど……」

 苦笑しながら時任くんから目を逸らすと、扉のガラス越しに中を覗いている人がいることに気が付いた。大きな鼻のその男性は親の仇でも見るかのようなすごい顔をしていたが、私の視線に気が付くとあっさりと去っていった。

「……なんだろう?」
「え? なんですか?」
「今ね、鼻の大きな人が中を覗いていたのよ。ドラマの家政婦みたいだった」

 時任くんは「あー……」と苦笑する。

「多分、ナギさんですね」
「ナギさん?」
「別の研究チームの人で優秀なんですけど僻みっぽいっていうか、松下さんのことを目の敵にしてんですよー若いのに優秀なのがムカつくみたいな……それに最近は喫煙所が外になったのが面倒くさいとかで苛ついていてーもう一瞬即発みたいな?」
「逆恨みじゃん。睨んでいい理由にならなくない?」
「ですよねー、でもよく来るんですよ」
「睨みに? 暇なの?」
「あはは、かもしれません、……あ。今日はまじでナギさん暇かもしれませんね。ナギさんの研究チームの人が死にかけているんで」
「なにそれ、大変じゃん」

 それは多分部外者の私に言っちゃいけない話だとは思ったが、面白そうだったので聞き役に回ることにした。

「実は、今日ですね……」

 時任くんが話すことによると、今日の明け方に研究棟の入り口近くで原因不明の呼吸困難を起こした研究者がいたそうだ。発見されたときには意識不明の重体、そしてその発見者が松下くん。松下くんが的確な応急処置をしてから隣の病院に運び、一命は取り留めたが未だに意識が戻っていないらしい。
 明け方というなら昨日のコンビニの後、ということだろうか。
 あんな体験のあと職場に戻っていたのだろうか。どういう神経をしているのか分からないが、――ぞく――とあの寒気を思い出した。

「……それ、松下くんが【なにか】したんじゃないの?」
「【なにか】ってなんですか?」
「……松下くんって目を合わせたら人殺せそうじゃない?」
「あははっ! 久留木さん面白いこと言いますね!」

 時任くんはけらけらと笑った。

「……でも松下くんって『ヤバい』んでしょう?」

 少し声色をかえてそう聞いてみると時任くんは笑顔のまま「ありえないですよー」と言った。その顔からはほんのすこしの疑いも見えず、また拍子抜けしてしまう。そんな私に「そんな面白ミステリー起きないっすよ」と時任くんは笑った。

「倒れた人、元から気管支が弱いそうなので、アレルギーとかじゃないですか? 松下さんも間が悪いというか運が悪いというか……」
「それじゃなんで松下くん警察に連れて行かれたの?」
「あ、やっぱり捕まっちゃいましたか?」
「捕まる? 逃げてたの?」
「松下さん言ってたんですよ、『第一発見者っていっても事件でもないのに……今日逃げ切れば無駄な時間を過ごさなくて済むかなあ……』って……あの刑事さんは松下さんのこと構いたがるから捕まると面倒なんですよ」
「構いたがる?」
「親戚らしいです。自称保護者みたいな? 面倒くさいですよね、そういうの」
「……学生の内はそうかもね」

 私は、もう学生ではない。
 女子高生のときにプロ、アマチュア混合の麻雀大会で優勝し、大学進学を辞めて麻雀の道を選んだ。それは道なのかという獣道だった。それをなんとか走り抜けた今となっては、実家の安心感、保護者がいる安心感はなににもかえがたいものだったとわかる。でも、このようなところにいるエリート学生には、まだこのありがたさはわからないのだろう。

「でも……ひどいね。松下くんはただ人助けしただけなんでしょ?」
「ですよねー。ナギさんが『お前がやったんだろう!』って松下さんに掴みかかったりしなかったらそれでおしまいだったのに」
「へ? なにそれ? 松下くん変なことでもしたの?」
「人命救助してただけですよ。単なる言いがかりですよ、言いがかり。そもそも松下さんが人殺すなんて非効率的なことするわけないのに」
「……非効率ってどういう意味?」
「え? そのままの意味ですよ?」

 時任くんはにこりと笑って首をかしげた。昨日感じたような化物に睨まれているような恐怖を覚えたが、私も笑顔で首をかしげておいた。


「おい」

 治療してもらった足で出口に向かって歩いていると、急に腕を掴まれた。
 その煙草臭い手を振り払い、いきなり失礼なことをしてきた人物を睨みつけると噂の『ナギ』さんだった。彼は私に手を振り払われた事に苛立ったのか顔を歪めて、私を睨みつけてきた。だがそんなのは雀荘にくるお客様たちに比べたら子犬のようなものだ。
 私はヒールで地面を蹴りつけてから彼を睨みあげた。

「用件があるなら口で言いなさい。触る理由ないでしょ。上からくれば優位に立てるとでも思った? 調子に乗るな若造が。箱ごと吹っ飛ばされたいの?」
「は? 箱ごとって……どういう意味だよ、それ」
「雀荘に来なさい。半荘で分からせてやるから」
「半荘……?」
「いいから謝りなさい!」

 彼は虚を突かれたのか睨むのをやめて頭を下げて「すいません」と謝ってくれた。なので私も「いいよ」と許しておいた。

「で、誰よ」
「俺は凪幸作なぎ こうさく。……ちょっと来てほしい」
「ちょっとよ。暇じゃないんだから」
「あ、うん……」

 大人しくなった彼は、私を彼の研究室に案内した。彼の研究室は松下くんの研究室と違って妙な機械はなく大量の書類と数台のパソコンがあるだけだ。換気扇のゴオオという音がうるさい小さな部屋だ。
 彼は私にティーバッグのハーブティーを出してくれた後、気まずそうに口を開いた。

「あんた、……松下の知り合いだろ……」
「そういうきみは松下くんの知り合いじゃないの?」
「知り合いというか……」
「……なに、どうしたの?」

 凪くんの顔色は悪く泣きそうに見えた。
 これは長くかかりそうだと、私は雀荘に行くのは諦め、聞き役に回ることを決めた。

「俺は松下とはその……同期ってことになるのかな」
「え、同い年なの?」
「いや全然違う。でも俺は去年からここで働いていて、あいつもそうってこと……」
「ここって学生さんが研究するところじゃないの?」
「全然違う。あいつだけが例外! おかしいんだよ。医学免許も持ってないやつがいられる場所じゃないのに……学部生なのに予算会議とかまで出てくるし、研究棟改築とかさせるし、ここの研究員全員あいつの治験に付き合わされるし……あいつ優遇され過ぎてて、おかしい」
「要するに凪くんは松下くんが嫌いなの?」
「え? 嫌い、とか……そういうことじゃなくて……」

 私が首をかしげると凪くんは腕を組んでバリバリとその肘を掻いた。あまりにも分かりやすい動揺だ。私はため息を吐いてからハーブティーを飲んだ。

「そういうのやめた方がいいよ」
「そういうのって……なんだよ」
「妬み僻み逆恨み。そういうの、自分の目を曇らせるだけだよ」

 こんなことを言ったら怒るかと思ったけれど、凪くんは泣きそうな顔で俯いてしまった。大きな背中を丸めている姿が可哀想でその手を握ると、凪くんは「俺、彼女いるから」と私の手を払った。

「なにそれ、失礼な子だね」
「どっちが?」
「たしかに」

 凪くんはそこでやっと、少しだけ笑った。

「嫌いなわけじゃないんだ。あいつ、嫌な奴じゃないし……でも松下を見ていると、……吐きそうになる。上手く息ができなくなるんだ。精神的なことなんだと思うけど……」
「息苦しいのは煙草のせいじゃない?」
「……禁煙はできてないけど減らしてはいる……俺はちゃんと分煙している! マナーは守っている喫煙者だ! どいつもこいつも喫煙者を悪く見過ぎだろ!」

 じろりと睨まれたので私は両手を軽く上げる。

「はい、もう余計なこと言いません。ごめんなさい。ちゃんと聞きます」

 凪くんは咳払いをした後「昨日の晩のことなんだけど」と本題を切り出した。

「ここの研究員が呼吸困難起こして意識不明になったんだ。明け方だったからみんな仮眠とってて……松下が見つけてくれなかったらヤバかった」
「でも掴みかかったんでしょ? なんで?」
「誰から聞いたんだよ、それ」
「時任くん」
「……あいつ部外者にもぺらぺらと……」

 凪くんは両手を組んで眉間に深い皺を作った。

「……あいつ、笑ってた」
「はい?」
「松下。苦しんでいるミヤを見て楽しそうに笑ってたんだ……だから、カッとなって……お前がやったんだろうって……でもそんなつもりじゃなくて、あいつ、本当に警察に連れて行かれたのか? なあ、あいつ捕まったりしないよな?」

 凪くんは今にも泣きそうだった。
 どうやら彼が私に聞きたかったことはそれだけだったようだ。しかしそれは私にも分からないことだ。しかし、捕まるとしたら松下くんはどんな罪で捕まるというのだろう。

「あの刑事さん、『今度こそ絶対捕まえてやる』って言ってた……俺、そんなつもりじゃなかったんだ。あいつ、……あいつが捕まったら……日本の医療は十年は遅れる……」
「……落ち着いて。ゆっくり話してくれる?」

 凪くんの背中を撫でながら話を聞くと、どうやら昨日の松下くんの行動は外から見ると、色々と不自然だったらしい。
 この研究棟には昼夜問わずに様々な人間が出入りをするが、その出入りはカードリーダーによって管理をされ、全員に共有されている。倒れた研究員(宮本くんというらしい。凪くんは仲良しだそうだ)が呼吸困難を起こしたと推測されるのは深夜三時頃で、病院は稼働しているがさすがに研究棟はほとんど動いていないそうだ。だから研究棟を出入りすることはほとんどないらしい。
 でも昨日凪くんと宮本くんは細胞の反応待ちだとかで残っていたらしく、なんとかレポートが終わる頃には終電はとうになくて泊まることにしたらしい。宮本くんは「コンビニで夜食食ってから寝るわ」と言って、出掛けたそうだ。その時間は深夜2時と記録が残っている。凪くんは宮本くんが全然帰ってこないなとは思ったらしいが、眠いから先に寝てしまったそうだ。まあ、わざわざ待つ話でもないだろう。そして、明け方に騒ぎに目を覚まして、現場にかけつけると、にこにこしている松下くんと苦しそうにしている宮本くんがいて咄嗟に松下くんに掴みかかってしまった、という経緯だったそうだ。

「日頃から僻みをちゃんと消化しておかないからそういうことになるのよ」
「うっ……」
「咄嗟の時に人間は本性が出るんだよ」

 凪くんに言いながら、『そうだ、だからだ』と気が付く。
 だから私は松下くんを信じられないのだ。――だって彼はあのとき舌打ちをしたのだから。彼はあのとき、あの異常な状態で、私に押し倒されて、まるで計算が狂ったかのように舌打ちをした。だからきっと、彼はあのとき【なにか】していたのだ。
 だが、その考えはひとまず脇において、落ち込んでいる凪くんの背中を小突く。

「だから凪くん、反省しなさいね。いい年して他人を巻き込む癇癪起こさないように」
「…………ううう……でも、松下は十時頃に帰ったはずなのに、わざわざ三時にここに戻ってきてたんだ。そんなの……おかしいし……疑われるような行動とったあいつの方が……」
「とりあえず凪くん、松下くんに謝ったら?」
「謝る?」

 凪くんはきょとんとした顔で私を見てきた。

「え、なにその反応。悪いことしたら謝るのよ。今まで謝ったことないの?」
「いや……うーん……そうかもしれない。謝れって言われたのは今日が初めてだし。謝るって初めてかも」
「……へえ」

 エリートって頭がおかしいんだ、と私は思った。


 人間社会には刑法がある。
 しかしそれだけが果たして罪なのだろうか。
 ――潜在的に潜んでいるものは罪ではないのか。

「……うーん」

 変な一日だったなと思いながら全てを終えてしまってもいい。なにもかもなかったことにしてもいい。私が今日したことは、結局コンビニでトマト缶を買ってきたことだけにして、忘れてしまうこともできる。 
 でも、結局電話をかけることにした。
 どうせ出ないだろうと高をくくっていたら、意外にも二コールで『彼』は電話を取った。

『ちゃんと治療してもらえましたか、久留木さん』

 第一声がそれだった。

「……おかげさまで傷ひとつ残らなそう、ありがとうね」
『それはよかった』
「いくつか聞きたいことがあるんだけど、とりあえず今どこにいるの?」

 松下くんは私の質問にクスリと笑った。

『取調室にいます。今日はもう終電出てしまったのでこのまま泊まろうと思っています』
「……それきみが決められることなの? というかそんなところで電話してていいの?」
『任意の取り調べですし、刑事も知り合いなので』

 と笑う松下くんの声の後ろで罵倒が聞こえる。しかし松下くんが『BGMとしてとらえてもらえればいいので』と言うので、私もそれは無視することにした。

『それでわざわざ電話をかけてきて、俺のなにを知りたいんですか、久留木さん』
「別にきみのことは知りたいわけじゃないんだけどね、……流れで色々話を聞いちゃったからさ、私の見解を話したくなったの。そうすると松下くんに話すのが一番的確な気がするんだよね」
『へえ? 聞かせてください。取り調べよりも楽しそうだ』

 松下くんは楽しそうに相槌を打つ。本当に取調室にいるのだろうかと思いつつ、私は見解を話し始める。

「話を先月に戻そうか。研究棟の西側が建て直すことになったんだよね、松下くんの研究用に。廊下にお知らせが貼ってあった」
『ああ、そうですよ。建て直すというほどでもないんですけどね』
「でもその工事の間、喫煙所は外になったんだよね? 新しい喫煙所の場所は研究棟の裏だけど……研究棟の入り口の近くに吸い殻たくさん落ちてた。裏まで行くのは大変だから、入り口で煙草吸うことは黙認されていたんじゃない?」
『よく気が付きましたね。そうです。人間は惰性の生き物ですから仕方がないですね』
「……惰性」

 食パンの上にトマト缶で作ったミートソースを乗せる。

「凪くんと宮本くんって仲いいんだよね?」
『ナギ……ああ、凪さんですか。二人とも同期ですし同じ研究テーマですから仲はいいんじゃないでしょうか?』
「宮本くんは元々喫煙者だったんじゃないかな。でも禁煙していた。元から弱かった気管支系に問題が起きて、喫煙リスクが高くなったから」
『……どうしてそう思うんですか?』
「喫煙者の友だちは喫煙者が多いってこともあるんだけど……、凪くんって傲慢じゃん? 彼の性格的に『喫煙にリスクがある』人は最初から友達にしないと思うの。そして、友達に『喫煙リスク』がなければ、分煙している建物内でも普通に煙草吸いそうなんだよね。でも凪くんたちの研究室は灰皿もないし、少しも煙草くさくもなかった。……それで、宮本くんは前は吸ってたけど、今は喫煙リスクがあるんじゃないかなあって。合ってる?」
『……久留木さん、凪さんの研究室にも行ったんですか?』
「うん、流れで……今、松下くん舌打ちしなかった?」
『話を続けてください』

 急に機嫌が悪くなったなと思いながらトーストの上にパプリカとベーコンを乗せる。

「でも喫煙所が移動して研究所入り口の分煙ができなくなった。それで……宮本くん、禁煙失敗してたんじゃないかな。それは凪くんにも隠してたんだと思う。凪くんは宮本くんのこと大事みたいだけど癇癪もちだから。そういう相手にばれたら面倒くさいって思ったんだろうね。夜食食べてくるって言ってこっそり一服して、呼吸困難を起こした。それが昨日」
『なるほど、では退院したら徹底的に禁煙してもらわないといけませんね』

 松下くんがクスクスと笑う。私はトーストの上にチーズを降らせる。

「松下くんって治験のバイトってしたことある? 私はあるよ。あれさー、結構ちゃんとやるんだよ。それまでの病歴とか、喫煙歴とか、色々聞かれるの」
『……治験……ああ、……なるほど。俺が宮本さんの病歴や喫煙歴は知っていると? ふふ、……、いいですね、久留木さん続けてください』
「……楽しそうね」
『自分を理解してもらえるのは楽しいですよ。ほら……それで?』

 私はトーストをトースターに入れる。

「松下くん、コンビニってなんでもあるように見えるけどさ、喘息の吸引薬は売ってないんだよね」
『はい?』
「松下くん、こうなること分かってたんじゃないの?」
『俺がなにを分かっていたんです?』
「宮本くんが呼吸困難になること。下手したら死ぬこと」
『ふふ、どうしてそう思ったんです?』

 松下くんがくすくすと笑う。まるで私が言うことはもう分かっているかのような、生徒の正解を聞くのを待っている先生のような笑いだ。

「研究所の出入りの時間って研究員全員に共有されているんだってね。凪くんに見せてもらったよ、この一か月の松下くんの動き。大体いつも十時ぐらいに帰ってたのに二週間前一回深夜に帰ったでしょ? そしてそれからはずっと十時ぐらいに一度帰って、三時ぐらいに戻ってきている」
『よく調べましたね、そんなこと』
「ていうかこれは元々凪くん知ってた。彼はきみのストーカーだと思う」
『……え、凪さんが? え? 本当ですか?』

 松下くんのドン引きしている声が面白くてつい笑ってしまう。

「僻みっていうのは恋の別名だからね」
『え、いや、それはちょっと……』
「宮本くんもそうなの」
『は?』
「この三週間ぐらい忙しくて研究所にこもってたみたいだけど、深夜に研究所の外に出ていて……この辺から喫煙を再開したんだと思うけど……」
『……ああ、そういう意味ですか。はい、それで?』
「ん? うん、だから松下くん、深夜に宮本くんが喫煙してたの見たんでしょ? だから、……万が一のことを考えて喘息の薬を持ち歩いていたんじゃない? もしも発作をおこしたらすぐに対応ができるように」

 ふふ、と松下くんが笑う。それは正解を喜ぶ先生の笑い方だった。

「いい子だね、松下くん」
『……宮本さんには小児喘息の病歴があります。今はすっかりよくなってると本人は言っていましたが、検査するとかなりリスクが高い状態でした。治験のお礼にその事をお話ししたら……そうですね、凪さんも協力の上で禁煙をされていました。まあ、たまに息抜きはしていたみたいですけどね。……ここ二週間は息抜きの方が顕著でした』
「禁煙は難しいのよ。一回痛い目を見てもやめられないぐらいね」
『あれ? 経験者ですか?』
「ううん、だから私は最初から煙草は吸わない。……ねえ、松下くん、もう一個聞きたいことがあるの」
『なんでしょう?』
「人が痛がってたり苦しがってたりするの、見てて、楽しい?」

 シン、と彼は静かになった。

「宮本くんの意識が戻ったら聞いてみたいな。松下くんがきみを見てたことに気が付いていた? って……気が付いていないだろうなって思うわ。きみ、隠れて見ていただろうから」
『……どうしてそう思いましたか?』
「普通ね、死にかけるのなんて待たずに喫煙を止めるよ。喘息の薬持ち歩いたりしない」
『ああ……そうか、……そうですね、そうかもしれません。ふふ、……それが普通か……面白いですね、久留木さん』

 松下くんは、クスクスと笑う。ただ、クスクスと笑う。

「それにさ、あのコンビニの事故の直後だよ? そんな短時間で連続して『偶然の事故』が二件も起きるかな?」
『……偶然が重なったんじゃないですか?』
「重なったらそれは偶然じゃないんだよ。【なにか】あるの……【なにか】、ある」
『……それってなんですか?』
「……さすがにまだ分からない。でもきみ、【なにか】してるんじゃない? 私が聞きたいのは最初からそれだけなの」

 松下くんはクスクス笑う。私はトースターの中のトーストを眺める。とろとろ、とろとろ、チースが溶ける。

『……久留木さん、ごはんいきませんか?』
「は?」
『俺が奢りますから。デートしましょう。なにが食べたいですか? イタリアン? フレンチ? 久留木さんはお酒好きですか?』
「意味わかんないけど……私は自炊がすきだからお断りします」
『ならレンタルキッチンでごはんつくりましょう、一緒に』
「は?」
『それとも俺の家がいいですか?』
「いやそれはちょっと……」
『来週の木曜はお暇ですか?』
「……、雀荘の休みまで把握されている……」

 私がため息を吐くと『決まりですね。迎えに行きます』と松下くんは勝手に決める。私はお金を返していないことを思い出し「……まあいいか」とそれを了承した。私は流されやすいのだ。しかし彼は『あれ? いいんですか? ……やったー』と嬉しそうに小声で言った。
 その言い方はとても可愛らしくて思えてしまって厄介だった。

「じゃあ、取り調べ頑張ってね」
『ふふ、ありがとうございます』

 電話を切ってからトースターの中でチーズに焦げが入っていくのを眺める。
 きっと今日も寝られないだろうなと思った。


→第二話
第二話 スパイスと強盗

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