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第四話 ちらし寿司と心中 後編

 干しシイタケが戻るのを待っている間に酢飯をつくる。炊き立てのご飯に御酢を混ぜてあおいで冷ますなんて業の料理だなと思いつつ、うちわであおぐ。
 これで酢飯はいいが、問題は具材の方だ。

「お弁当だから生もの使えないしなあ」

 錦糸卵に焼き鮭に蒸した海老に枝豆、そのぐらいで彩りはいいだろう。いや、きぬさやもあったからそれも入れておこう。
 そんなことを考えながら酢飯をうちわであおぐ。

 明日は白翔くんとデートだ。

「……白翔くんに比べたら、大したことない一生を送っているんだけどなあ」

 でもそれは私の人生を彼に説明しなくていい理由にはきっとならないのだろう。
 彼の言う彼女は『お付き合いをする相手』ではない。もっと重たい『生涯を共にしてもらう前提』という意味がある。
 なら私もどこからきてどうしてこうなったのかを開示しておかないと、フェアではない。

 ある程度冷えた米に濡れた布巾をかけておく。
 にんじんを細切りにし、レンコンを薄いいちょう切りにしてから酢水にさらす。水で戻したシイタケを細切りにし、その戻し水を使って切った具材を炒め煮にした。

「……味覚がほとんどない、って言ってたなあ……」

 でも彼はカレーをとても美味しそうに食べて、シュークリームを嬉しそうに食べてくれて、……きっとこのちらし寿司も美味しそうに食べてくれるだろう。
 それは全部嘘なのだろうか。嘘だったとしたら、私は彼に料理を作るのが嫌になるのだろうか。
 だったら――聞かない方がいい。
 おいしい以外の答えが聞きたくないなら、味なんてもの、そもそも聞かない方がいい。

 炒め煮にしたものを酢飯に混ぜ込んでから、錦糸卵を作り出す。色むらができないようにしっかりと卵を溶いてから味をつけ、さらに濾してから焼く。
 味覚が駄目でも視覚はあるはずだ。
 だったら、色味には特に気をつけよう。

「……嫌われたくないのかな。……嫌われるに決まっているのに……」

 弱火で両面焼いて粗熱を取っている間に、お弁当箱に酢飯を詰める。
 お重よりは小さいが普通のお弁当箱をよりは大きい箱をわざわざこのために買ってきた。こんな真っ黒なお弁当箱なんて、ちっとも女の子らしくないけれど、きっと彼はそんなことを気にしないだろうから大きさだけで選んだ。
 卵を薄切りにして米の上に乗せる。それから他の具材をバランスよく配置する。

「……ああ、見た目はおめでたいな……」

 早咲きの桜を見に行くことになっていた。きっと、そこではこのちらし寿司は綺麗に見えるだろう。……と思っていたのに彼が私を連れてきたのは想定外の場所だった。

「早咲きの桜を見に行くんじゃなかったっけ?」
「この霊園の桜は速いんですよ」
「付き合いだしてから初めてのデートで両親の墓に連れていく人いる?」
「付き合ったら相手の親には挨拶しておきたいかなって……」
「いやだし……そうだとしても、だったらさすがに膝は出してこなかったよ……」

 今日も今日とて私はショートパンツだし、彼は真っ黒なコートに少し明るいチェックのマフラーだ。

「白翔くんって夏服も黒なの?」
「はい、基本は」
「えー……モテない理学部って感じでいやだからやめてー」
「それは否定できないですよ。モテない医学部生ですよ、俺は」
「ストーカーに遭っておいてなにをいうの。顔面偏差値一五〇ぐらいあるでしょ」
「久留木さん、偏差値が百を超えることはまずないですよ」

 そんな話をしつつ霊園の階段をのぼる。
 彼の両親は鎌倉の少し先にある葉山の霊園で眠っていらっしゃるらしい。彼は「父は元気なときに俺を作ったらしいんですが俺の物心ついたころには寝たきりだったので何もできない人という印象が強いんですよ。母はそれを支えてはいましたが癇癪を起こす人でしたね」とあまり参考にならない紹介をしてくれた。
 途中の花屋さんで買ったデルフィニウムの花束を持ちながら階段をのぼる。

「でもいい人だったそうですよ。まあ父の弟は中島さんなので」
「翼くん?」
「その呼び方はなんなんです?」
「え? なんか変?」
「……俺よりも先にあのおっさんのことを名前で呼びましたよね?」
「……翼くんが松下くんのこと名前で呼んでたから、白翔くんって呼んでもいいかなあって思ったんだよ?」
「……そうですか。あのおっさんもたまにはいい仕事をしますね……」

 と口では言っているが、白翔くんの目は死んでいる。本当に全く尊敬していないのだろう。

「翼くんがいなかったら私、殺されてたかもしれないし……」
「……彼は警官です。税金で生きている。市民に怪我をさせた時点で彼の職務怠慢です」
「厳しいのね?」
「当然のことです。公僕は名の通り、しもべでなくては……とにかく、俺の病気はそれぐらい人を壊すんですよ。I saw the best minds of my generation destroyed by madness. なんてね……」
「キルケゴール?」
「ギンズバーグですよ」

 手をつないで階段をのぼると転びそうだけれど、手を離すこともなく階段をのぼり切った。青い空が広がっていて、山々と遠く街が見える。

「きれいだね」
「景色でもよくないとこんなところまで誰も墓参りに来ませんよ」
「クラウドにあればいいのにね、墓なんて」
「……ふふ、そうかもしれませんね」

 白翔くんの家のお墓は奥にあった。
 そこからの景色も素晴らしかった。

「いいところ」
「墓にはもったいないですよね」
「いやそれは失礼でしょう……」

 ふたりで、大して生えていない雑草を抜き、墓石を洗い、花をかざった。線香の煙を見ながら「ああ、いい天気だね」と言うと「そうですね、今日が命日なんですよ」とさらりと彼はまた重たい話をした。でも私たちの上に広がる青空がとても綺麗だったので「お弁当、ここで食べたら気分いいかもね」と笑うと、「えー? お弁当作ってくれたんですか?」と彼がクスクス笑った。

 その微笑みに私は黙った。
 私が黙ったことで彼も黙った。

「……え? 本当に作ってくれたんですか?」
「ごめん、……花見って聞いてたから……」
「え、本当に作ってくれたんですか!」
「墓参りなんて知らなかったから……ごめん、調子に乗ったよね……」

 浮かれていて恥ずかしい。全身が急に汗をかき始める。

「ごめん、気にしないで……」
「食べたいです!」
「いや本当に気にしないで……どうせどこかいいお店の予約もしてくれているんでしょう、きみはそういう人だよ……抜け目のない……」
「食べたいんですって! 俺、あなたの料理は味がするんです! 食べさせてください! 鞄に入っているんですか⁉」
「ちょっ!? うわっ!」

 いきなり腕を引っ張られて彼の胸にもたれるが、彼の腕は私に回るのではなく私が背負っていたリュックに伸びていた。
 まるで上級生にランドセルを開けられる小学生みたいな扱いだ。

「ちょっと白翔くん!」
「あっこれですね!」
「ぐぐっ……窒息するっ! 白翔くんのおっぱいで窒息する」
「俺におっぱいはありません! 暴れないでください!」
「強盗! これ強盗!」
「取った!」
「ひどくない⁉」

 解放されたときは彼の手にはお弁当があり、私は地面に放り出されていた。

「彼女に対して……この仕打ち……」
「やったー、久留木さんの手料理だ!」
「私よりも料理……私の料理が目当てなの⁉」
「体目当てよりいいでしょう⁉」
「っていうかお墓の前でお弁当開けないでよ!」
「ちらし寿司だ!」

 しかし彼はお弁当を墓の前で開き、墓石の前に座り込んでしまった。
 私は色々と言いたいことはあったのだけど、結局、彼の隣に座った。

「生ものじゃないから大丈夫だとは思うけど……」
「綺麗ですね」
「……翼くんが、白翔くんが味覚はあんまりっていうから、見て綺麗なものにしようと思って……」
「嬉しいです。でも、そんなこと気にしないでよかったのに」
「きみが、……無理をしているなら嫌じゃん。だって味しなかったら米なんてほぼ糊だし……」

 ぶつぶつ私が呟いていると白翔くんが「俺もあなたが好きです」と急に言った。びっくりしてむせた。

「そういうことじゃなくて!」
「そういうことでしょう?」
「だって、そんな、……親御さんのお墓の前でちらし寿司って……」
「食べましょう、久留木さん。生き物は死肉を食って生きながらえてきたんですよ」
「なにその怖い理論……」

 彼が箸を私に差し出してにっこりと笑う。

「俺の家族は崩壊していました。家族そろってご飯が食べられたことはない。だから、……だからいいんです。一緒に食べてください、久留木さん」
「……その言い方はずるい……」
「押し負けてくださいよ。彼女でしょう?」
「彼氏が、家族に彼女を紹介するときって彼女を立てるもんじゃないの?」
「もう骨も残ってませんよ」
「そういうこと言うのよくないって……」

 でも結局、そこで私たちはお昼ご飯を食べた。
 彼は何度も何度も「おいしい」と言ってくれた。その笑顔は心からこぼれているようにしか私には見えなかった。だから、それを信じようと思った。

 お墓参りが終わってから「鎌倉観光でもしましょう」と彼が言うので、鎌倉に繰り出した。駐車場なんて空いてないだろうと思ったけれど「予約してあります」とさらりと言われた。

「そういう努力って隠しておくとスマートなんじゃないの?」
「言わなきゃ伝わらないじゃないですか」
「……絶対、女たらし……」

 嫌味っぽくそう言うと白翔くんは「馬鹿ですね」と笑った。

「あなたこそ、こんな料理の腕で……どんな男に食わせてきたんですか? って言われたいですか? ……確認してくれて構いませんよ。俺、女と遊びで付き合える体じゃないんです。あなたが初めてで、それで最後です」

 運転しながらなんてことなく彼はそう言った。
 その横顔を見てから「うそつき」と言うと「本当に信用がないですね」と彼は笑った。予約してあった駐車場に車を止めてから私たちは鎌倉を散策した。
 彼は「鎌倉初めてです。修学旅行行けなかったので」と気を抜くと重たい話をするので「やめて」と止めて、小町通りを散策した。
 バターシュガーのクレープを食べながら「久留木さん、ペアリング作りましょうか」と言われたときは色々と思うことはあったのだけど、流されるままに作ってしまった。
 彼はにこにこと笑いながら「嬉しいですね」と言うので、素直に「うん、嬉しい」と言ってしまった。

「絶対きみは碌なことないのに……」
「幸せにしますから」
「そういうことじゃないの!」
「あ。夫婦箸作れますよ。作りましょうよ」
「白翔くん!」

 なにもなければ彼は『完璧な彼氏』だ。

「……すきですよ、久留木さん」

 ――でも、なにもない人生なんてあり得るのだろうか。

「……そうだね、きみはいつもそう言うね……」

 鎌倉を散策しながら、アンチョビの味のついたナッツを買ったり、生シラスが乗っているアイスクリームを舐めたり、ヨモギ餅を食べていても、それほど時間は流れない。 
 何故なら白翔くんは買い物に時間をかけないことだ。悩むということがないのだ。

「あ、アイスだって、……あれ美味しくなさそう……」
「買ってきますね」
「いらないってば!」

 という勢いで躊躇いがないのだ。
 だから大混雑の小町通りを一周するのに一時間もかからなかった。一日歩いて回れるかもしれないのに、彼とのデートじゃたった一時間ももたなかったのだ。

「……海岸まで歩けるそうですよ」
「飽きたのね、この通りに」
「……俺、買い物に時間かけることがないので」
「……海なんて何年見てないかわかんない。見たい」
「よかった。そうしましょ」

 それで二人でタピオカミルクティーなんか持って由比ガ浜まで歩くことになった。
 道なりには観光っぽいものはなにもなく、ただ遠くに海が見える通りを歩いていくだけだ。
 でも彼が最近あった研究所での話なんてし始めると歩いている時間は退屈しなかった。

「宮本さんが復帰されても喫煙所の前でずっとソシャゲをしていて……」
「副流煙狙いじゃん」
「後藤さんの奥さんも突撃してくるし……」
「場所ばれちゃってるじゃないの」
「中島さんからは交際の進捗を聞かれます」
「進捗があるの⁉ 交際に⁉」

 十五分ぐらい歩いたら、その海は見えてきた。

「「海だ……」」

 私たちはそんな見たままの感想をふたりで同時に放ち、それからケラケラと笑った。
 海辺にはこの寒さにも関わらずサーファーが何人もいた。海の上にはその十倍ぐらいの人がいた。

「寒くないのかな?」
「動いている間、寒さは感じませんよ。止まると寒いかもしれませんけど」
「海ってなんか暗いね」
「暗い?」
「アニメとかドラマみたいに綺麗な色していないなって……」
「あれは夢の話ですから。それに昨日、雨が降ったんですよ。土砂も混じってます」

 目の前の海は暗く濁った色をしていた。砂浜は十歩歩くと、靴が沈み始めた。

「靴が汚れる……」
「戻りませんか?」
「え、でも……こういうときカップルって水際まで行くんじゃないの?」
「靴に砂はいるとしばらく取れませんけど」
「わかる。帰ろう」 

 私たちは深夜ドラマのヒロインにもヒーローにもなれない。それが分かって、ケラケラ笑ってしまった。
 白翔くんは「なにがそんなに楽しいんです?」と不思議そうだった。でも海岸を彼氏と歩くのは私にとってはパンをこねながら見る夢だったことを、彼にどう説明したらいいか分からなかった。だから結局ケラケラ笑いながら、砂浜を後にした。だから結局、由比ガ浜の滞在時間はまさかの十分だった。
 けれど駅に戻ってからも私たちはそのことを離してはケラケラ笑った。あんなに歩いて辿り着いた海で、結局何もしないで帰ってきた自分たちにケラケラ笑った。
 それは、とても楽しい時間だった。

「ごめんね、私、海辺できゃっきゃできる女の子じゃなくて」
「そんなあなたは嫌ですよ」
「なんでよー」
「場所に踊らされないあなたが好きですよ。砂浜で『靴に砂とか最悪』って言っちゃう、あなたが好きです」

 彼の手はあたたかい。

「私も明日は変わるかもしれないんだよ?」
「そしたら俺が今日の内に殺してあげます」
「そっか……」
「なんでちょっと納得していらっしゃるんですか?」

 彼の手をつないで歩いているのはとても楽で、とても楽しくて、このままどこへでも行けそうな気持ちになる。 
 でもこのままでは駄目なことぐらいさすがの私でもわかる。

「久留木さん」
「なに?」
「あなたのことが知りたいです」
「性的な意味?」
「どんな意味ですか、それ」
「……ふざけてみただけだよ。分かっている、ごめんね」
「……あなたが迂闊だったのは珍しい。説明してもらえますか?」

 彼は私をベンチに導いてハンカチの上に座らせてくれた。私はそこに座り、ため息を吐く。

「白翔くん、聞かせてくれる? あなたの考えを」
「そして俺の感情を?」
「うん、……そうね。教えてほしい」

 ――断罪の時だ。
 白翔くんは息を吐いてから、口を開いた。

「久留木舞。女流雀士。……少し調べればあなたの経歴は出てきます。けれどあなたの生い立ちは全く出てきませんでした」
「……女流雀士の生い立ちなんてAV女優の作り物の生い立ちぐらいの価値しかない」
「そうだとしてもあまりに出てこない。あなたの知人すら出てこないんです。徹底的に排除されている。どうしてでしょうね?」

 白翔くんは私の右手を左手で掴んだまま離さない。

「ここまでくると意図的なものを疑った方がいい。あなたはなにかを隠している。高卒と言うことは公表していらっしゃる。でも母校は不明……とはいえ、あなたの苗字からあなたの住んでいるところは割り出せましたよ。今の住所も……あなたに案内される前にあなたの家は分かっていたんです」
「……珍しい苗字だからね、……特に関東ではあんまりいない……探そうと思えばすぐ探し出せる……」
「……ええ。……あなたの苗字が多いところの、いくつかの高校を調べたら、あなたの母校もわかりました。そこから、あなたの、……家族のことが分かりました」
「そこまで、調べたんだ」
「駄目でしたか?」
「……いいよ……私を暴けるのはきっと、きみだけだから……」

 私は左手で顔を覆って、目を閉じた。罪人らしく、ただ目を閉じた。

「あなたはご両親とは絶縁関係にありますね?」
「……うん……」
「でもあなたには『母』がいる」

 母。
 私の家に来て、私を慰めて、私を起こして、私と食事をとって、あれやこれや喋る、中年の女性『達』。

「レンタルなんですね、あなたの母は」
「……月曜日と木曜日はちゃきちゃきしたおばさんに頼んでいるの。他の、突発的なヘルプのときは、ちがう人に母を頼む……、……気持ち悪いでしょう?」
「……母をレンタルする人の大半が『両親と疎遠だが、恋人に両親を紹介しなくてはいけない時』と聞きました。でもあなたは彼女たちを日常的に利用している」
「きみに紹介する気はない。彼女たちは私の母だから」

 目を開いて彼の顔を見ると、彼は私を真っ直ぐ見ていた。

「実の親と和解ができないから金を払って赤の他人に母を演じてもらう私は、……気味が悪いでしょう?」
「……俺は、親に期待はしてきませんでした。だから今更親を求めたりはしない。でも、あなたは親と絶縁したのは高校卒業前と聞いています。そこまで育てた娘を手放す理由が彼らにはあった。そうしてあなたはその時に、不意にそれまで共に暮らしてきた人間に捨てられた。そのときの気持ちは、俺には想像ができません」

 ――あなたが何を考えているか分からない。

 私は彼らにとって異物だった。
 彼らの理解の範疇を越えた異物だった。中卒の彼らには私の知能は羨望と自慢の対象であり同時に『敵』だった。いつからから愛されるよりも憎まれて、私は育った。私がいることは彼らを苦しめて、私は彼らがいることで苦しんだ。私はそれまでの自分の努力を全て捨てて、彼らとの縁も切り捨てて、楽な道を選んだ。
 彼らが関わることがなく、学歴も関係がない、この己の手だけで生きていける世界を選んだ。

 それが一番楽だった。
 それが一番――痛くなかった。

「私を作ってくれた両親のことは今だって忘れてはいないけど、連絡は取らないし、近況を調べたいとも思わない。ただ、たまに、……起きたら朝食の匂いがして、うんざりした声で親に起こされたくなる。……お金で、そういうことをしてくれる人がいるって、……分かったときにすぐ頼んでしまうぐらい、そういうのが必要だった」

 それは『最初に眠れなくなった時に』頼んだものだ。そうしてそれからやめられないのだ。ずっと。でももうそれも効かなくなってきている。

「それでも、眠れない……分かってるの……駄目だってことぐらい……これじゃなにも解決しない……」
「……あなたにとっての親は、……」

 彼のいいたいことがわかって、――カッと頭に血が上った。

「あの人たちは私の親を辞めたの! 頼めないでしょう! ないものは、どうにもならないっ!」

 白翔くんの赤茶色の瞳は私を見ていた。咎めることも、気の毒そうでもなく、なんの感情も見せず、彼は私を見ていた。

「私が今更どれだけお母さんとお父さんを求めたって、……謝ったってどうにもならない! 私の考えていることの全部が、彼らの範疇を越えてしまう。どうしろっていうの‼ 無理なの、そんなの……私は彼らの子どもにはなれなかった、なにも考えない子どもには……だから一緒には生きていけない。見ている世界が違いすぎる。彼らがまともな教育を受けていればよかったかもしれないし、私が教育を受けていなければよかったかもしれない、でも、……もう駄目よ。もう、……全部駄目なの……でも……芸名をつけないのは、いつか……連絡をしてきてくれるかもって……期待している自分もいて……」

 彼が私を抱き寄せてくれる。そのあたたかい体が私を抱きしめてくれる。あたたかくて、ぬくい。喉の奥が熱くて、吐きそうだった。

「……私、気持ち悪いでしょう?」

 白翔くんは私の頭を優しく撫でた。

「気持ち悪くはありませんよ」

 見上げると、彼は微笑んでいた。

「俺の親は死んでいますけれど、彼ら以外を親にはできません。妻も子どもも殺して自分も殺した身勝手なやつだとしても、あの男以外は俺の父ではない。……でももし他の人を親にできるなら、それが親だと認めてしまえればどれほど楽だろうと思ったことはあります。例えば叔父を……でも、駄目なんですよ」
「……どうして、駄目なの?」

 彼はにこりと笑った。

「呪いかもしれませんね。……つまり、自分が自分にかけた、おまじないです」

 彼が私を抱きしめる。その背中に手を回し返すと、そこに肉があった。生きた肉があった。実態があった。

「だから古い家族は忘れて、俺たちで家族になってみましょうよ、久留木さん」

 偽物でも借り物でもない、彼がいる。
 ぽろ、と自分の目から涙が落ちた。

「……それ、付き合ってすぐ言うこと?」
「あなたはもう俺の親に挨拶して、食事も一緒にしたんですよ?」
「え、……そんなつもりで来てない、今日……」
「あなたの親御さんに俺も挨拶しますよ。あなたが金で雇った人でも、なんでもいい。俺は好かれる努力をしますよ」
「……、……だったら月曜日に来てよ。ちゃきちゃきで、……詐欺に引っ掛かる、可愛いお母さんだよ。きっときみとは気が合わない」

 いいですね、と彼は言った。
 それはとても――優しい言葉だった。

「……暴かれるのって気持ちいいかもしれないね」
「そうでしょう? 俺がどうしてあなたを好きになったか、やっと分かりましたか?」
「それはちょっとわかんないけど」
「ちょっと!」

 私が笑うと、彼も笑ってくれた。


 帰りの車の中でふと思った疑問を口にする。そのことにもう、さほど恐怖はなかった。

「きみの体の痛みって薬がないとどのくらいひどいの?」
「……体が起き上がらないぐらいですよ」
「それで無理心中なんてできないね」

 彼は目を丸くして私を見たあと、少し笑った。

「そういう野暮なことを言ってはいけませんよ。……父は自ら死を選んだ。彼に巻き込まれて家族も死んだ。それでいいんです。それが一番、今となっては綺麗なおしまいですから」

 白翔くんは笑った。
 ――だから、やっぱり予想通り、きっとそこにもなにかあったのだろうとは、分かった。

「……そっか」
「ええ、そうです」

 でもそれを聞くのは十年後ぐらいでいい。もしくは私が死ぬ直前でもいい。いや、いっそ、聞かなくたってもうよかった。

「今日は楽しかったね、白翔くん」
「ええ、お揃いのものがたくさん買えましたね」
「……そこ?」
「新婚みたいで嬉しかったです」

 クスクスと彼が笑った。なんとなく、……きっとこれからも彼に巻き込まれながら、私は生きていくのだろうと思った。
 今日は眠れそうな、……そんな気がした。



最終話 ショートケーキと告解|木村@2335085kimula (note.com)

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