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第三話 シュークリームとストーカー 後編

――株式会社バスタルド新薬開発成功を発表。

 読者数国内一位のその新聞には、大衆に向けて分かりやすく噛み砕かれた新薬の説明が書かれていた。それでも難解な部分は多い上に、いくつかの部分は逆に噛み砕かれ過ぎて『感情』が入った文章になっていた。

――痛みや苦しみのない人生は喜びもないものではないか?

 痛みによって体を動かすことができなくなった人に向けてつくられたその新薬の効果は、眠るしか出来ない人に『強制的』に健康的な生活をさせることだそうだ。痛みや苦しみを奪い、必要な栄養素を摂取させ、必要な運動を促し、必要な睡眠を導く。そこに個人の意思が反映されないほどの『強制力』を持ち、徹底して痛みや苦しみを排除してくれる。

――天才、『松下 白翔』

 皮肉じみた書き口の記事だ。
 たった十九歳の少年が愛想笑いを浮かべて新聞の一面を飾っている。そして大の大人が彼を囲んでそんな皮肉をぶつける。今から三年前のその記事に、そのニュースに、私は少しも興味がなかった。だから聞いたこともない。
 公園のベンチに腰掛けて似たような記事を流し読む。どれもその薬の効果については言及しているが、詳細は分からない。ただ鬱や不眠症にも効果的と考えているらしい。

「……結局どんな薬なのよ、これ……」

『でも俺にとっては命の恩人なので』
 今分かっていることは彼の薬のおかげで救われている人がいることだけだ。
 山のような批判があっても、ひとり救われている事実の方が重要ではないだろうか。痛みに苦しむ人生から痛みのない人生になるなら、……仮になにか失ったとしてもそちらの方がよほどましではないか。たった一晩、思い切り眠れるのなら……。
 頭を振って思考を切り上げる。
 これ以上考えても薬なんて畑違いのことは分からないだろう。

「……はあ……あとはやっぱりここか……」

 私は一番情報がありそうなそのファンサイトを見るしかなかった。
 会員も募集しているが年会費などがあるわけではない。ただサイトが更新されると通知が来るという仕組みだ。その登録はメールアドレスのみでできる。
 またファンサイトは大元のデザインはブログサイトのようだ。記事などのバックアップを取っておけばすぐに複製ができる。つまり消されても何度でも作り直せるのはそういうことだろう。
 そして、ファン会員になればこのサイトの記事を更新、編集ができるようだ。誰でもこのサイトに松下くんの情報を登録できる。更新時間と更新者は登録されてはいるが、そこから個人を特定しようと思ったら警察の手を借りないと無理だろうが、IP開示を要求するには時間も手間もお金もかかる。ここに記事を上げている全員を調べるとなると、かなり手間だ。
 それこそが犯人の狙いだろう。つまり、……複数アカウントを駆使することでIP開示要求をさせにくくしているのだ。
 しかしなによりも問題なのは、このサイトの更新頻度は今日だけで三十件も越えていることだ。さっきの食堂での写真ももう上がっている。つまり大学内にもこのサイトの会員がいるということだ。
 ……急いで松下くんの家に行って確認しないといけないことがある。そして私は『身の潔白』をどうにか証明しないといけない。
 私は適当なメールアドレスを作りファンサイトに登録をし『松下白翔に彼女ができた!』という記事と自分の写真をアップロードした。久留木舞と名前まで出してしまえば、生い立ちは無理でも、私の現在の対局成績、職場、今後の予定まですぐに調べがつくはずだ。そしたら、……私に接触しようとする人間が絶対に現れる。それをおさえれば、私が『犯人』でない証明になる……。

「……ちょっと、きみ」

 しかし一週間前の強盗事件の後、こんなストーカー問題にかかわっていたと思えないぐらい松下くんは普通だった。もしかしてこのストーカーも松下くんの計算の内なのだろうか。本当に彼にとっても計算外の、どうにもならないことなのだろうか。
 分からない。
 でも、なんであれ、このサイトは犯罪だ。叩き潰してしかるべきだろう。松下くんになにかあってからでは遅い……。

「ねえ、きみ、ちょっといいかい?」

 その『きみ』が自分とは思っていなかったが、「きみ!」と至近距離で呼ばれたので、どうやら私らしいと分かった。
 顔を上げると、どこかで見たような、けれど誰かは思い出せない中年男性が目の前に立っていた。私は彼から目を逸らし、無視して立ち去ろうとした。が、その人は座っている私にさらに一歩近づいてきた。

「久留木舞さんですよね?」

 名前が知られているということは麻雀ファンだろう。

「……今日はプライベートなので……、やめて?」

 愛想笑いで会釈をしてスルーしようとしたら「えっ違います!」とまた声をかけられた。それどころか、彼は私の隣に座ってきた。

「以前、一度だけお会いしたことがあって……」
「明日は十九時からいつもの雀荘に出勤するから、それでいい?」

 これ『ヤバそう』と思い、逃げるために立ち上がったら、腕を掴まれた。

「え? なんなの! 警察呼ぶよ!」
「警察は俺です!」
「えっなに⁉ 警官が痴漢とか世も末! 世紀末! 消えて!」
「違います! 俺は白翔の叔父です!」
「えっ、あきとって……松下くんのおじさんってこと?」

 その男性はコクコクと素早く何度も頷いた。その顔を見て私は思い出した。

「あ、もしかして喫茶店の刑事さん?」
「そうです。すいません、お時間ありますか?」
「ないけど」
「えっ」

 あるかと聞かれたからないと答えただけなのに彼は傷ついたような顔をした。その素直な表情の変化は刑事らしくも、松下くんの身内らしくもなくて、私は少し拍子抜けした。

「……なに? うちのレートだったら……違法は違法でも、別に摘発を食らうほどの話じゃないよ?」
「えっ、ああ、いや、その件だと俺は管轄違いなので……」
「じゃあ、なに?」
「白翔のことで……」

 レートの話の方がよかったなと思いながら、私はベンチに座り直した。

「一応警察手帳を見せておきますね」
「ああ、どうも……はあ……」

 中島翼、と名乗ったそのおじさんは血縁上松下くんの叔父にあたり、実質的な保護者となるらしい。警視庁のそこそこ偉い人らしいがその地位を説明されても分からなかったので『刑事さんってことですよね?』と聞いたら半笑いで『あ、はい、それでいいです』と返された。目の色が赤茶色で外見ではそこだけが松下くんに似ていた。

「それで、翼くんは私になんの用なの?」
「え、翼くんって……」
「翼くんでしょ? 偽名なの?」
「いや、偽名じゃないけど、俺はきみより年上だから……くん付けというのは……」
「年上でも、やっていることは子どもの人間関係への口出しでしょ? 子離れもできていない人にさん付けするほど敬意を持つ理由はないんだよね」

 ツンと冷たく言ってみたら「ぐうの音もでません……」と可愛い回答が返ってきた。ちょっと笑ってしまった。

「その返しはちょっと松下くんっぽい」
「へ? そうですか? 白翔がこんなことを言いますか?」
「うん。松下くん、素直って言うか、甘えるのすごいうまいもん」

 私の言葉に彼はぽかんと口を開けた。

「なに、その顔」
「……その松下くんというのは白翔のことですか?」
「他に誰の話をすると思うの、この場面で。翼くんはちょっと頭悪いのかな?」

 もう一度ツンと冷たく言うと「ぐえ……」と彼は呻いた。

「いやでも俺からすると白翔が人に甘えるのって想像ができなくて……」
「子どものことはなんでもかんでも想像がつくと思っている辺りが子離れできてないよねー」
「うっ……」
「で、なんの用なの? 私みたいに得体のしれない人間が翼くんの大事な白翔ちゃんに手を出すのが気に食わないってこと? だったらすごいムカつくから無視するよ?」

 頬杖をついてそう聞くと翼くんはポリポリと頭を掻いた。

「……そういうつもりではなかったんだけど、でも、俺がしていることってそういうことになるのか……いや、でも、白翔は俺にとって息子も同然だから」
「二十歳すぎた子どもの人間関係に口出しするのは過保護です」
「うっ……いや、でも、あの子はその、特別な子だから」
「二十歳過ぎた子どもを特別な子とか言っちゃうのは過保護です」
「ぐっ……」

 自分の爪を見る。人差し指の爪だけが尖っていた。

「ねえ、なんなの? もう翼くんの話は聞く価値がないってことでいい?」
「い、いや、ちゃんと聞いてほしい。あいつは本当にちょっと特殊で、そのことを分かった上で付き合ってもらった方が……」

 尖っている右手の人差し指を翼くんの喉仏に突き立てる。

「ぐっ⁉」
「翼くん、隙だらけだね」

 その喉仏に爪を立て、努めて私は笑顔を浮かべる。

「死にたくないなら質問に答えなさい」

 刑事相手に私の威嚇がどこまで通じるかは不安だったが、ひゅ、と彼は息を吐いた。その目がようやく『松下白翔に近づく女性』ではなく、ここにいる私を視認したことを確認してから、私は口を開く。

「松下くんの好きな食べ物知ってる?」
「うっ……」
「こーたーえーてー?」
「っ、が、っ、……」
「ああ、そうだ、喉押さえたら答えられないのか」

 手を離すとげほげほと彼が咽せた。
 やり過ぎた気がするが、こんなことをしたことがないから加減がよく分からない。とりあえず背中を撫でていると呼吸の落ち着いた彼は「なんでこんなことを……」と聞いてきた。

「なんでの前に私の質問に答えてくれる? 松下くんの好きな食べ物を知っている?」
「……あいつは、……そんなに食べること自体好きじゃない、げほっ……しいていえばスープパスタだとよく食べるけど……」
「え、そうなの?」
「は? なんだと思ったんだよ……げほっ」
「え、ごめんね? やりすぎちゃったかな。痛い?」

 彼は私を見上げて、「はあ?」と言った。

「はあ? と言われても、今このタイミングで私に声をかけた翼くんが悪いよ」
「タイミングって……なんの話だ?」

 どうやら翼くんは犯人ではなさそうだったので私はスマホを取り出して、さっきまで見ていたファンサイトを示した。

「これ見てくれる?」
「なんだこれ……ああ、白翔のファンサイトか」
「もうちょっと慌ててくれない? これ、全部松下くんの写真が載ってるのよ?」
「SNSってそんなもんじゃないのか」
「はあ? なに言ってんのあんた。本気で警察やってんの? 研修からやり直したら?」
「えっ」
「松下くんが自分のSNSで写真をあげるならいいわよ。そりゃ単なる自己顕示欲の塊よ。いいね! いいね! いいね! って言ってやりゃいいわよ! これは違うでしょ! 全部隠し撮り! それがネット上に勝手に公開されているの! こんなの、いじめよ! あんたは警察で、しかも松下くんの身内なのにこれを無視してんの‼ 頭おかしいの! あんた!」

 大声で詰め寄りながら人差し指をその喉仏に思い切り突き立てると「ぐえ」と言って翼くんはベンチに倒れた。

「そ、そんなこと……白翔は問題ないって言っていたし被害届も出さないから……」
「子どもに過干渉するくせに子どもの言葉は大事にしていますって面倒ごとはスルーなわけ⁉ さいってー!」
「えっいや、俺はそんなつもりじゃ……その、違うんだ! 白翔はひとりでなんでもやろうとするから俺はその自主性を……でもあいつは体のこともあるから心配で……」
「ばーか!」
「そこまで言うか⁉」

 私のシンプルな罵倒に翼くんは半泣きになったが、そんなのは知ったことではない。

「『白翔くん』を守りたいならこれから私に付き合いなさい。この問題、解決するから」

 過保護な翼くんは私の言葉にすぐ顔を上げた。それで私たちはこの問題、つまり白翔くんストーカー問題に乗り込むことにした。


 コンビニでドライバーセットと大き目のカフェラテを買ってから、翼くんを連れてつい先週来たばかりの『高級マンション』の玄関に立った。

「……なんでこんなところに俺を連れてきたんだ?」
「ちょっと喉絞められたぐらいでそんな目で見ないでくれるー? 私はちゃんと白翔くんはここに住んでることは知ってるしー先週連れてこられたばっかりー。ばーか!」

 翼くんはいっそ潔いほど驚きを見せてくれた。

「あいつが家を人に教えるなんて……しかも連れて来るなんて……」
「白翔くんをなんだと思ってんの。二十一歳の男の子だよ?」

 そうは言ってもそういうことはしていないのだが、白翔くんの名誉のためにそう言う。結果、翼くんはおろおろと目を泳がせた。

「あいつは他人を信じないのに……」
「他人じゃなくて翼くんだけ信じていないんじゃないのー?」
「ぐぐ……」

 などと話していたらタイミングよく住人が中から出てきたので、にこやかに会釈をしてそのまま中に入り込む。ついてきた翼くんの腕をつかみ、共用部分に進んだ。

「不法侵入だぞ、これ」
「バレなきゃ怒られない」
「俺は警官なんだが……」
「いじめも解決できないくせに?」
「ぐぐぐ……なあ、それでどこに行くんだ? 白翔の部屋か?」
「そこは『ヤバそう』だから行きたくない。行きたいのはここのキッチンの方……よかった、誰もいない……」

 タイミングがよかったようで、パーティールームのような共用部のキッチンには誰もいなかった。翼くんを連れて、ついこの間使ったキッチンに入る。

「ここ、こんなスペースあるのか……」
「え、知らなかったの?」
「……住所は教えてもらったが中に入ったことはないんだ」
「本当に嫌われてんじゃないの?」

 真面目なトーンでそう返してしまったら、翼くんは眉を下げて真面目に凹んでしまった。慰めるのには時間がかかりそうだったので、先にキッチン周りの確認を済ませる。

「なあ、なにを探しているんだ?」
「ちょっとしたもの……」

 キッチンではなく、食卓が置かれているスペース、床用のコンセントの蓋を開いたところに、それはついていた。

「……」
「……」

 私が人差し指を唇に当てると、翼くんも分かったのか心得たように黙ってくれた。私はそこについていた三つ穴コンセントを引き抜いた。

「一回出よう、翼くん」
「……分かった」 


 高級マンションの玄関がぎりぎり見える位置のガードレールに座り、取ってきたコンセントを分解すると、思った通り盗聴器だった。

「……なんでこんなものがあんなところに……」
「それはあなた方が調べてよ。警察なんだから」
「きみの指紋がついてしまったから証拠にならない」
「私を疑うの? まあ、……そうね、状況として私が一番怪しいでしょうね。……白翔くんもそう思っている」
「は? どういうことだ?」

 私は息を吐きだしてから、翼くんに説明するために状況を説明することにした。

「一週間前の木曜日に私は白翔くんとここのキッチンでスパイスカレーを作ったの」
「えっ⁉」
「へ? まだおどろかれる場面じゃないんだけど……」
「いやだって、あいつ料理なんかできないし、そもそもカレー苦手だぞ?」
「えっ、そうなの⁉」
「いや、苦手と言うか、その……ああー……」

 翼くんはガリガリと頭を掻いて「今はいい。先に説明をしてくれ」と話を促してきた。私は疑問を思いつつ先に進むことにした。

「その夜には好きな食べ物が『スパイスカレー』に更新されているの」

 サイトの更新履歴を表示しその部分を指さすと、翼くんは不思議そうに首をかしげた。

「……この情報を知っている人間はきみと白翔しかいないのか?」
「もうひとりいると言えばいるけど彼はそんなことはしない。やるメリットがなさすぎる……私にもないんだけど、彼はもっとしない」

 折角の勤め先をふいにすることは彼にはできないだろう。

「その後も更新されていることもおかしいの」
「なにが更新されているんだ?」
「愛車の内装のカスタムについて、デート服、よく行くコンビニ……」

 翼くんは眉間に皺をつくり「その程度ではストーカーとして処理できない」と警察らしい返事をした。だから私はその眉間をつついた。

「仮にも保護者なら最後まで保護者しなさいよ。それに問題はそこじゃない。私はこれらの情報を知っているの。状況として疑わしいのは私なわけ!」
「……は?」

 翼くんの目に潔く素直に、懐疑の色が浮かぶ。

「違うわよ! でも今日、白翔くんも私にこう言ったの。『俺についてはネットで調べてくれればすぐに出ますよ』……つまり彼はこう考えているわけ。『お前の所業は知っているぞ』と……私はなにもしてないのによ⁉ こんな濡れ衣ある⁉ こんなの絶対真犯人とっつかまえるしかないでしょ!」

 私の説明に翼くんはぽかんと口を開けた。

「……なんなの、その顔! もうちょっと危機感持ってくれる⁉」
「へっ、……い、いや、そんな情報だけでよくそこまで……」
「そんなことも読めないでよく白翔くんの保護者名乗れるよ! ばーか!」
「ひどくないか‼」

 翼くんに人差し指を見せると「ぐ」と言って黙った。

「ねえ、翼くん、きみはさあ、私に声をかけたときに、私は白翔くんよりは『普通』だって判断したんだね? 何故?」
「な、なぜって……白翔は天才だから」
「そう判断して勝手に自分から距離を置いたんでしょ。その癖、あれこれと難癖をつける。ねえ、今まで白翔くんの周りにきた人みんなに同じようなことをしたの? 『うちの子はちょっとおかしいんだけど、それを分かった上で仲良くしてくれるかい?』なんて話しかけたの? 大きなお世話じゃない、それ?」

 女の力であっても喉仏を全力で押されたら、どんな人でも苦しむ。だから彼は私の人差し指から目を逸らせない。

「子どものことおかしいと思っている親なんて……そういう人が一番嫌い。一番性質が悪い。なにか事情があるなら本人から聞けばいい。まわりが……言うことじゃない……」

 ――舞、あなたがなにを考えているか分からないの。お母さんには、分からないの……。

「……ごめん、翼くん。八つ当たりだ、これ……」

 思い出した嫌なことを頭を振って散らす。
 寝ていないと感情が制御できなくなる。両目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。目を開くと、翼くんは心配そうな顔で私を見ていた。

「大丈夫か、久留木さん」
「……大丈夫……。……とにかく問題を解決しよう。この盗聴器を仕込んだ人は、今、盗聴器が使えない事に気が付いたはず。……これだけの更新頻度のサイト投稿者なら、……多分、すぐに確認しに来て設置し直すと思うの」
「現行犯逮捕ってことか?」

 痛む頭をおさえて、ため息を吐く。

「翼くん、自分の大事な子がいじめられているの。その相手を叱るぐらいはできるでしょう? 警官だからとかじゃなくて、できるでしょう?」
「当たり前だ。……俺は馬鹿かもしれないけれど、だったら親馬鹿でありたい」
「……なにそれ……だっさ……」
「ださくたっていい。白翔は小さい時から頭よくてな、可愛くて……本当に可愛いんだよ!」
「はいはい」
「でも、白翔の周りでは『偶然の事故』が多発する。白翔はたしかに関わっていない。けれどそれで流してしまうには、あまりにも数が多い。刑事としては、……」
「なにかあるの?」
「なにかあると思うがなにもないといいと思うし、……親としてはなにかあったときは責任を取ってやらなきゃいけないと思う。……過保護だし、過干渉なんだろうけど、でも、……俺は白翔に幸せになってほしい」
「翼くんって独身?」
「独身だが彼女はいる。ごめんな」
「は?」

 翼くんは独身なのに、こんなに親みたいなことを言える。

「……そっか、『中島さん』は良い人だ」
「お。今更」
「そう、今更」

 中島さんは嬉しそうに笑った。しかしそれからバリバリと頭を掻き「やっぱり説明しないと駄目だな」と呟いた。

「これは過保護だから言うんじゃないが……あいつの痛覚は今ほとんど機能していない。だから辛みはほとんど分からない。スパイスであれば匂いなどは分かるかもしれないが、……カレーなんて好き好んで選ばない料理だ。……他の味覚もそれほど鋭くはない。だから料理なんて、……食事なんてあいつにとっては義務に過ぎない」

 ――痛みも苦しみもない人生には悲しみはないだろう。しかしそこに喜びはあるのだろうか?

 中島さんが真剣な顔で私の腕を掴んだ。

「なあ、もしかしてきみ、ほとんどあいつのこと知らないんじゃないか?」
「……白翔くんはカレーを美味しそうに食べる人だよ……」
「……これだけは知っていてほしい。あいつは病気なんだ。俺の弟は、あいつの親はそれを苦に自殺するぐらい辛い病気だ。今はそれを抑えるための薬を飲んでいるから動けているだけだ。たしかにあいつは自分を救うための薬を作ったすごいやつだ……それでも、それであっても、なにもかも健康な人と同じとはいかない。それだけは分かってほしい。あいつだっていつ死ぬか分からない。俺はそれが怖いんだ……」

 その言葉から分かったことは、白翔くんが私に対して隠し事をしていることとその隠し事は私の理解の範疇の及ばないものだということだ。
 それだけだった。
 言葉を失くした私を気遣うように中島さんは「あーのさ……」と声を出した。その話題の切り替えの下手さは少しも白翔くんに似ていなかった。

「ここから見ていて誰が不審者なんて分かるのか?」
「ここのドアは外から開けるときは二つの鍵と部屋番号と暗証キーが必要じゃない?」
「そうなのか?」
「『翼くん』は本当に刑事なの? ちゃんと周り見て?」
「あっまた翼くんに戻ってしまった……」

 このマンションの入り口には共有の鍵と部屋の鍵、それから部屋番号と暗証キーの入力が必要だ。手間ではあるけれど住人たちは慣れているのか手早くマンションの中に入っていく。それに便乗して入っていくような不届き物はほとんどいない。いても手に鍵を持っていることが多い。

「さっき、俺たち入っちゃったけど、やばくないか?」
「すぐに通報はされないでしょーでも職務質問はできるよね?」
「ああ……なるほど。俺たちみたいに便乗して入っていく人を見つけて声をかければいいのか?」
「うん、それもやってほしいし、刑事の勘みたいなので気になった人に声をかけてほしい」
「分かった。白翔のためだ。職務質問週間ということにする」
「それから私の警護もしてほしい」
「きみの?」

 私はさっきファンサイトに登録した自分の記事を見せた。翼くんは気味悪がるように目を細めた。

「どういうタイプのストーカーか分からないけど、……こんな記事が上がった直後に、相手の家の前で私を見かけたらどうするかな? ストーカーって自己顕示欲が強いんだって」
「……囮になって待つって言うのか?」
「現行犯逮捕はできるんでしょ?」
「……分かった」

 翼くんは「きみは白翔に似ているよ」と言った。それは不本意だった。


 翼くんが職務質問を行っているのを横目で見つつ、私はファンサイトを読み漁る。
 勝負を仕事にしている人間にとって、相手の思考を読むのは一番大事なことで一番慣れている作業だ。だけどここは雀荘じゃないし、相手は雀士ではない。なにもかも読みとくのは無理だろう。
 それでもファンサイトに書かれているものを読み漁ることで、なんとか、少しずつ、その根底にある思考が分かってきた。
 アカウントは大量にあるが、中心となって更新をしている人間は二名だ。
 ひとりは恐らく大学にいる誰かだろう。先ほどの食堂での写真をあげているのもそうだが、白翔くんの写真をあげて、『こんなことも私は知っている』『こんなところも知っている』といった白翔くんのこと知っていますアピールが文章の節々から感じられる。あまり文章力は高くないようで、個人的な感情も混じっている。さっきの私のあげた恋人記事に『デマ』『あり得ない』といったコメントが複数ついているが、これをつけているのは恐らくこの人だろう。……こうなると盗聴器もこっちの人だ。そのぐらいのことをしそうな激情を感じる。

 ――私が一番、彼を知っている。私が一番、彼に近い――

「思ったより早く釣れるかも……」

 しかし、むしろ、だからこそ問題だ。
 私しか知らなそうな情報を挙げているのはこの人ではないのだ。この人とは違う、……感情が見えない人が別にいる。
 ただ淡々と情報を載せているだけの冷たい文章の持ち主。仕事だからやっている、と言わんばかり、何の感情も見えない、まるで辞書みたいな文章だ。この人の松下白翔への感情はなにもわからない。
 けれど、この人が、あのキッチンで起きたことや、白翔くんの車の中身を知っている。

 ――この人はなんなんだろう。……この人、なにがしたいんだろう。感情が見えないような、そんな人がリスクを犯してまで盗聴なんてするだろうか?

 それに、『久留木舞』に対しての記事なんて私が書いたものしかない。それなのに怪文書が送られてきている。

 ――……本当に? 怪文書……ファンサイト……盗聴、……これらは、つながりはあるの……?

「……白翔くんの車の内装を、……知っている人間は何人いるんだろう……」

 白翔くんがスパイスカレーを好きなことを知っている人間は?

 ――私でないなら、それは、……。

「候補……あるけど……」

 でも、『だとしたら』何故そんなことをする必要があるのだろう。
 だって、そんなことをしても『彼』にはなんのメリットもないはずで……。
 頭が痛い。眠れていないからだろうか。体が疲れている。思考力が低下しているのが分かる。でも、シン、と『でも、そうだとしたら彼はなにを考えているのか』ということにだけ意識が集中していく。打っている時みたいに、ただそれだけに意識が傾いていく。余計な音はひとつもない。余計なことは他にない。ただ、それだけを考える。

 ――もしそうなら、彼は――

「アナタ久留木舞?」
「……え?」

 ふいにかけられた早口に反応ができなかった。
 顔を上げた瞬間『ヤバい』とだけ、分かった。


 痛みというのは遅れてやってくるらしい。
 私が痛みに気が付いたのは救急車に乗せられたときで、痛みが引いたのは大学の附属病棟で痛み止めの点滴を打たれた時だった。
 けがは少しも治っていないのに、痛みがなくなるだけで随分と楽になった。

「痛み止めが効いてくると眠くなるかもしれません。そしたら少し眠って休んでください」

 先生の声が遠くに聞こえる。

「……はい」

 返事をした自分の声は、瞼の裏で聞いた。
 それは久しぶりの、眠りだった。思考もなにもなく、とん、とん、とん、と眠りに落ち、真っ暗なところで意識を切った。


「なにを、やって、……」

 ……遠く、声がする。

「中島さん、どうしてっ! ……あなたがついていて、っ……」

 切った意識が浮上する。

「何故久留木さんが怪我をしているんですか!」

 見知らぬ人に馬乗りで殴られていた私を助けてくれたのは翼くんだった。そんな彼の胸倉をつかんで白翔くんが怒っている。
 中島さんはあれやこれやと言い訳をせずに「すまん」と謝ると、白翔さんはぜえぜえと肩で息をしながら「あなたには失望しました」と言った。

「あなたは少なくとも警官としての使命を全うしてくれると思っていました」
「すまん」
「……もういい、……もういいですよ」

 白翔くんは疲れたようにそう言ってから、私に視線をうつした。それから私が起きていることに気が付くと、優しく笑った。いつもの爽やかな、上っ面の笑顔。

「久留木さん、……痛みは、ありますか?」
「……うん、ちょっとあるかな」
「痛み止めを追加してもらいましょう。今日は、大事を取って、入院を……」

 白翔くんに右手を差し出すと、彼は震える両手で私の手を取った。

「ごめんなさい」
「……どうして謝るの?」
「こんなことになるなんて思わなかったんです。ごめんなさい。痛かったでしょう。怖かったでしょう?」

 彼は私の手に額をつけて「ごめんなさい」とまた謝った。

「どうせならお礼が聞きたいな。もう、……あのサイトきっと復活しないよ。……そうでしょう?」

 彼はゆっくり顔を上げて「……そうですね、……」と呟いた。

「でもお礼なんて言えません。あなたがこんなことをするなんて思わなかった」
「どうして? 私は自分の身の潔白ぐらい証明するよ」
「……身の潔白? なんの話ですか?」
「さあ。……なんの話だろうね」

 体を起こすと、殴られた頬が痛んだ。

「帰る」
「いや今日は大事を取って……」
「帰る。送って、『白翔くん』」

 彼の赤茶色の目を見てそう言うと、彼は悩んだようではあったが「分かりました」と頷いた。翼くんもなにか言いたそうだったけれど、でも「分かった、送ってあげてくれ」と私たちを見送ってくれた。

「……白翔くん、今日、車?」
「ええ、車です」
「じゃあ、それで送ってね」
「分かりました」

 そんなことを話しながら、ふたり並んで病院の駐車場まで歩く。
 眠っている間にすっかり夜になってしまったらしい。窓の外は真っ暗だ。久しぶりに眠れたおかげで、痛みはあるけれど体は軽い。
 廊下を歩くとかつかつとヒールの音が鳴る。その自分の足音も朝よりは元気に聞こえた。

「久留木さん、ごめんなさい……」
「それはどの件について?」
「怪我をさせてしまったことです」
「私の独断専行で、きみには一切関係がないでしょう?」
「俺のために、でしょう」

 彼が私の手に触れるから、それをはじいた。

「私のため、だよ。私はきみに誤解されたくないからやった。でも、……そうね、結果的には、『きみのせい』だった」

 白翔くんは私の手を見て、それから私を見た。それは、いたずらがばれて怒られることを覚悟しているような、そんな顔だった。
 だから私は息を吐いた。

「車で話そう。人前で話すことでもないでしょ」
「……分かりました」


 彼の真っ黒なボルボに乗り込み、息を吐く。

「痛み止めの薬が処方されています。飲みますか?」
「うん、ひとつ頂戴」

 差し出された薬を差し出された水で飲む。ぴりぴりと頬の中が痛む。

「ヒビは入っていませんでしたよ」
「そっか、よかった」
「でもこれから腫れると思います」
「これ以上? しばらく雀荘はお休みかな……」

 シートに凭れてぼんやりとエンジンの音を聞く。車の中は暖房ですぐ暖かくなった。

「……聞かせてください、久留木さん」
「私の考えを?」
「ええ。それから、あなたの気持ちを」

 目を閉じて、口だけ開く。

「ファンサイトができたのは一週間前。一番最初の投稿は白翔くんの今までの経歴とか、そういう普通の情報。ウィキペディアみたいなものだった」
「……ええ、ウィキペディアからのコピーでした」
「でもそれに白翔くんの写真がついてた。……きみの顔って思っているよりもゴキブリホイホイだからね、有象無象が寄ってくる」

 痛む頬に手を当てる。少し楽になるような気がする。

「サイトを作った人も思ってなかったぐらい多くの人が来た。そして好き勝手自分の持っている情報を書くようになった。最初の内は噂話程度だったかもしれないけど、そこに粘着する人が出てきた。……さっき、私を殴った人とかね」
「……ええ、あの人はあのファンサイト書き込みの常習者だったそうです。本人が自白した、と……」
「でも、あの人はサイトの運営者ではない」
「……そうでしょうか……」
「そうだよ。運営者はきみだもの」

 返答は、沈黙だった。
 それは、そうだと言っているようなものだ。

「あの程度、ストーカーとして処理もできない。ましてや、きみが被害届を出さない限りは警察も動きようがない」
「……何故そう思ったんですか?」
「私以外できみのことをそんなに知っている人が何人いるだろうと思ったの。なんとなく、ほとんどいないだろうって思った。きみが私を疑っているとしても、きみだったら、疑わしい人みんなになにがしかのことをすると思う。でも、……きみは普通だった。そんな裏で画策しているような動きもない、普通の大学生だった」
「違和感を覚えたと……?」
「きみならそのぐらい隠せるのかもしれないとも思ったけどね。おかしいなとは思った……それから記事を読んで、多分、きみなんだろうなって思った」
「どうしてですか?」
「……きみの記事は読みやすいから。感情がない分、言いたいことがはっきりしている。新聞記者になればいいのに。余計な感情だとか応援する政党だとかない分、きみの記事は分かりやすいだろうな」

 私が笑っても、彼のいつものクスクス笑いが聞こえない。私はゆっくりと瞼を開けた。

「きみがこの自作自演をすることのメリットを考えたの」
「……なにかありましたか?」
「『あなたと付き合えるのは俺ぐらいのものだと思いませんか?』」

 彼は「そうです」と言った。私はため息を吐く。

「本当にそれだけの理由?」
「ええ、それだけです。こんな、……大変なことになるはずじゃなかった」
「……想定していない事が起きたの?」
「あんなストーカーが生まれるのも想定外でしたし、あんな、ことで……こんな大事になるはずがなかった」

 そうだ。
 たしかに私を殴るほどの激情を持ってしまう人を生まれるなんて誰も想定できないだろう。もしそうなら、彼はほんのちょっと私の同情を引いて、ほんのちょっと私の罪悪感を刺激して、『大変だったんですよ』なんて笑い話にするぐらいだったのだろうか。
 なんであれ、しかし、スタートを切ったのは彼だ。坂の上から雪だるまを転がして、この雪崩を起こしたのは彼自身なのだ。

「自宅に盗聴器が仕込まれていたのだって、想定外でした」
「もしかして、あのキッチンってあれ以来使ってなかったの?」
「あなたがいないのに使う理由がありませんから」
「……そっか。なら犯人さんの無駄骨だったね」
「ええ、……でもあなたが俺の自宅に行く理由にはなった。あなたを、犯人に会わせるきっかけになった。それは、……俺があんな記事をあげたからで、……あなたがそれから盗聴器を疑ったからで……、……あなたが、俺の家まで来てくれるなんて一番、想定外でした」

 彼の左手が持ち上がる。

「白翔くん、前にも行ったけどさ、思った通りに他人が動くわけないでしょう? 私だって、……きみが心配で、そのぐらいのことするって、……少しも思わなかった?」

 彼の左手は私の喉に触れた。

「……『人が痛がってたり苦しがってたりするの、見てて、楽しい?』とあなたは聞きましたね……痛みや苦しみを味わなければ生き物は学習しない。意味のある痛みや苦しみは、生き物に次を与える、大切なアラートです」
「じゃあ宮本くんの発作が起きるのを待ってたのは、次を起こさせないため、だったんだ」
「俺の計算では彼は発作を起こし、薬を投与されれば生き残った……一歩間違えれば死ぬ、とわかった上で、俺は俺の計算通りにいくかを観察していました。……俺にとってはそれが普通」

 彼の温かい掌が触れているところから、とく、とく、と自分の鼓動を聞こえる。

「あなた以外は俺の想定の範疇でしか動きません。なのに、あなたが関わると、すべてがずれる。俺も、俺自身、なんでこんなことをしているのか……。でも、……あなたを捕まえられるなら……」

 彼はゆっくりと私に向かって頭を倒す。肩でそれを受け止めて、黙って、彼の告白を待った。

「……初めて会った時、あのコンビニの前に止まっていたタクシーの運転手は無呼吸症候群を患っているようでした。エンジンは止めていませんでしたしストッパーの高さも大したものではなかった。……あのタクシーは毎日、あの時間はあそこで仮眠を取っていました。事故を起こす要素はいくらでもあった」

 私の肩に凭れた彼は「死ねるはずだったんだ。事故で、あの日、……死ねるはずだった」と言った。吐くような声だった。

「俺の薬を誰よりも長く、重く、服用しているのは俺だ。たしかに痛みも苦しみもない生活を送っている。……そして、この薬がないと生きていけない人は俺以外にも大勢いる。だから、俺は自殺だけは選べない。俺が自殺なんてしたら、……この薬は潰される。……俺の自殺は、後追い自殺を生むだけだ。だけど、……もういやだった。ずっと、……なのに俺はいつも死に損ねる……」
「……死にたかったの? そんなに……」

 彼は頷いた。

「……あなたは、最初から俺の想定とは違った。……それが、面白いと思った。面白がっているだけだと思ったのに、あなたはどんどん俺の想像を超えるから、……負けたみたいで、それが苦しくて、痛くて、……なのにまた会いたくて仕方なくて……」

 とく、とく、とく、と鼓動が聞こえる。

「あなたに対する感情が恋ならいい。この感情は俺に痛みを思い出させてくれる。この、……息がつまるような苦しさも、……きっと、俺を生かしてくれる。あなたがいい。……あなたがいいんだ」

 彼の手に触れる。温かい手だ。

「……要するに白翔くんって、ちょっと面倒な人なんだね」

 私の言葉に彼は「はい」と言った。それから「だからどうか逃げないで」と私を脅す。どうしようもない人だなと思いながら、でもそれほど嫌ではなくて、結局、しばらく彼の頭を撫でていた。


 日曜日、コンビニの前で座って、もしかしたら来るかなと思っていたら、思った通りハイライトのおじさんがやってきた。彼はまた私の隣に座る。

「ひどい顔だな、お嬢さん。殴られたのか?」
「これは事故。単なる通り魔」
「その通り魔に襲われる理由になった男がいたんじゃないか?」

 おじさんはまるで確信しているかのような口ぶりだった。彼の顔を改めて見るが、全く覚えはない。

「あなたは誰?」
「……俺もきみのことは知らないよ、お嬢さん」
「そうね……あなたは白翔くんの知り合いね」

 おじさんは私の言葉に、煙を吐いた。

「俺はもう忠告はした」
「……私は忠告されたの?」
「ああ、きみにはちゃんと告げた。ここから先を、選ぶのはきみだ」
「……そう、わかった。おじさん、……私、煙草嫌いよ」
「そうか。それはすまなかった」

 喫煙所に置いてあるベンチに座っている私が悪いのにおじさんは煙草を消して「じゃあ、元気でな」と去っていった。当然のように、去っていった。私はその背中を見送りながら、白翔くんは本当に面倒くさそうだなあ、と思う。
 けれど、もう、あと五分もしたら白翔くんがここに来る。デートの時間だからだ。

「……私はもう忠告された……」

 わかっている。
 白翔くんが『やばい』ことはもうとっくにわかっている。『出会ったその瞬間』、わかっていた。でも、大事なのは、『そこ』から先の私たちが過ごしてしまった時間だ。
 深く、息を吐く。
 目を閉じて、空を見上げる。

「……久留木さん」

 時間通りに私を迎えに来た白翔くんは黒いモッズコートに黒のミリタリーブーツだったけれど、大判のチェック柄のマフラーを巻いていた。その明るい色は白翔くんの爽やかな笑顔に似合っている。

「可愛いじゃん」

 私がそのマフラーの先を引っ張ると「こんな色は似合いますか?」と白翔くんは嬉しそうに笑った。

「うん、似合うよ」
「よかった。久留木さんにそう言ってもらえてうれしいです」
「大袈裟だよ」
「あなたに言われるとなんでも嬉しい。なんでも叶えてあげたくなる。好きだから。……久留木さん、俺と付き合ってください」

 告白の言葉として必要なことだけ。儀礼的で、さっぱりとしていて、やらしい響きは少しもなく、もう返ってくる答えが分かっている人の言い方だった。

「こんな顔面腫れてる人によくそんなこと言えるね?」
「俺のための名誉の負傷でしょ?」
「……きみって子はへこたれないな」
「痛まないので、俺は」

 彼は顔を真っ赤にして私の手を掴んだりする。そんなところだけピュアで、困る。こっちの頬も赤くなっている気がして、本当に困る。

「久留木さん」
「待ってよ、話が速すぎる……デートの後じゃない、告白って?」
「俺とは付き合えませんか? どうして無理ですか? とりあえず付き合うだけでも駄目ですか?」
「……駄目ってことはないんだけど、でも……」
「なら、今から久留木さんは俺の彼女でいいですか?」
「……きみはそれでいいの? 私の彼氏でいいの? とりあえずでも、いいの?」
「はい」

 彼は心底嬉しそうに歯を見せて笑った。だからもう、私も頷くしか道がなかった。


→第四話
第四話 ちらし寿司と心中

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