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第三話 シュークリームとストーカー 前編

 ――株式会社バスタルド新薬開発成功を発表。

 『製薬会社』は常時様々な新薬を出している。だから新薬の発表なんてニュースで取り扱われることはない。けれどこの『新薬』は別格だった。この薬は『当事者』に待ち望まれていた『救いの光』。『当事者』はみな、その薬によって新しい道を切り開かれた。
 しかし同時にその薬は『当事者』ではないものたちからの多くの批判を受けた――『倫理に反する』と――。

 ――痛みも苦しみもない人生には悲しみはないだろう。しかしそこに喜びはあるのだろうか? 筆者はそれを疑問に思う。

 バスタルド代表にして新薬の開発者、天才と称された『彼』は当時十九歳だった。
 『彼』はあらゆる分野の人間から絶賛され、同時に批判された。しかし、ありあらゆる評価の中心にいながら、『彼』はそれらをはねのけるほど魅力的な笑みを浮かべ「成人したらバスタルドのワインが飲んでみたいですね」と笑っていた。
 それが今から三年前の出来事。
 新聞も読まない、テレビも見ない、『当事者』でもない私は全く知らなかったことだけど。


 『問題』の始まりは、強盗デートの後に松下くんからかかってきた電話だった。

『お約束できてませんでしたけれど次のデートも木曜日でいいですか? 来週はお時間ありますか?』
「木曜日って平日だから大学あるでしょ? ちゃんと大学生活を楽しんだ方がいいじゃない? あ、でも私、土日は仕事だから、松下くんとはなかなか予定合わないかもね」

 このとき遠回しに『私たちは休みが合わないようです。だからデートしなくてもいいのではないでしょうか。あなたは大学の中で良い人を見つけたらいかがでしょう? 私はあなたからの告白を先送りにしたいです。可能なら無期限に』ということを伝えたつもりだった。
 しかし、そこはさすがの松下くんである。

『久留木さんは大学に通われたことはないんでしたっけ?』

 などと、話をかわしてきた。

「うん、そうだよ。高卒だからね。松下くんとは関わりになることがないほどの低学歴のクソ女なんだよね、だから……」
『でしたら聴講してみますか? 歌舞伎体験とかどうです?』
「は? いや、いいよ、すごい疲れそうだし……」
『では、ひたすら擬音語で会話してみますか?』
「なにそれ、面白いの?」
『分からないです。分からないから、一緒に受けてみましょう?』
「ん? いや、なんでそうなるの? 普通に大学の子と受けたら……」
『では、今度の木曜は大学に来てください。一緒にスクールライフしましょう。久留木さんがお気遣いくださるなら、……そうですね、次のデートは日曜にしましょうね?』
「え? いや、なんでそう……」
『木曜はスクールライフ。日曜はデートです』
「はあ……?」

 意味の分からない理論だった。しかし彼は押しが強く、私は流され上手だ。
 そのまま押し切られ、木曜日……つまり明日(といっても、もう今日だけど)『大学』にまで行かなくてはいけなくなり、その後の日曜日には『デート』の約束までさせられてしまった。しかもその『デート』ではなにかしらの『告白』を受けなくてはいけない。考えるだけで……いや、というわけではないけれど、大きなストレスであることは間違いない。
 おかげで今日も今日とて眠気が来ないまま日付が変わってしまった。
 それどころかこの一週間に至っては意識が途切れた記憶がない。眠りたくて仕方がないのに眠気は少しもない。体の端っこから少しずつ動かなくなっている。このままでは、近いうちに対局に勝つどころか、席についていることすら難しくなるだろう。
 危機感はある。その危機感がまた眠気を遠ざける。悪循環だ。

「はあ……疲れた……」

 反芻する思考を切り上げて、あたためておいた天板の上に敷いたクッキングシートの上に生地をしぼる。直径四センチぐらいに丸く等間隔に生地をしぼったら、霧吹きで表面を濡らし、一九〇度に予熱しておいたオーブンで二十分。

「膨らむといいんだけど……」

 シュークリームは温度との勝負だ。
 少しでも生地の温度が下がるとあっという間に失敗する。そして失敗したシューを見ると心もしぼむので、作るリスクが高いお菓子だ(正直こんな夜中に作り出すべきものではない。でも作り出してしまったものはしょうがない)。
 シューが焼けるのを待つ間に中身のカスタードクリームも作ることにした。
 ノートを開きお母さん直伝のレシピを確認する。お菓子作りはさすがにレシピで分量を確認しながらじゃないと失敗してしまうから、丁寧に材料を計った。

「卵黄三個と砂糖七〇グラム……」

 丁寧に混ぜること、というメモの通りに丁寧に混ぜる。
 小さい鍋に牛乳を二カップ入れて火にかけた。弱火で沸騰させない程度にあたためておきながら、卵液に薄力粉を三〇グラムさくっと混ぜる。それからあたためた牛乳は何回かに分けて混ぜていく。

「バニラエッセンス……ああ、あった……」

 棚の奥から取り出したバニラエッセンスを数滴加えてから鍋に移し、中火にかける。さらさらとしたクリームがとろとろになり、もったりするまで木ベラでまぜ続けた。

「……寝たい、……本当に、寝たい……」

 できたクリームはバッドに広げ、氷の上に置き冷やしておく。

 ――リンとオーブンが鳴った。

 オーブンを開けずに中を確認するとちゃんと膨らんでいるようだったので、温度を一七〇度に下げてあと一五分焼く。
 全部お母さん直伝のレシピ通りだ。これさえ守っていれば間違えることはない。

「……お母さんのホットケーキ食べたいな……」

 子どものときに母が作ってくれたホットケーキは、それはそれは、美味しかった。平べったくて薄いホットケーキ。日曜日の朝からそれをたくさん作って、生ハムと蜂蜜をかけて食べたり、ナッツとメープルシロップを合わせたり、野菜をたくさん乗せてサラダにしたり……。そういえばお父さんが野菜入りのホットケーキを焼いてくれたこともあった。ホットケーキの中からみじん切りのニンジンが出てきたときはだまし討ちにあったような気持ちになったものだ。
 それでも全部間違いなく美味しかった。
 ……あの頃はなにも間違えていなかった。

 ――リン、とオーブンが鳴る。

 シュー生地が焼きあがった。

「ああ、よかった……綺麗に膨らんだ」

 膨らんだシュークリームを見ると少し気持ちが明るくなった。気分が明るいと、体も軽くなった気がする。あくまでも、気休めだけど。
 シュー生地にクリームを詰めながら深夜テレビを流し聞く。今日あったことを振り返るニュース番組らしい。そこに明るい言葉はなかった。今日もこの世界は死人が多いらしい。

「こんな世界じゃ寝られないぐらい、大したことじゃないんだろうな」

 みんな不幸だ。
 だから、誰も不幸自慢などできはしない。
 でも、自分が不幸であることは変わらない。
 眠れないことで思考はどんどん暗くなっていく。そのせいでさらに、眠気が遠のいていく。悪循環だ。

 ――でも、なにもかも正しくない今の私には、この循環をどうやって断ち切ればいいのか分からない。

「……せめて体を横にしよう」

 眠れないと分かっていても布団にもぐる。どく、どく、と動き続ける自分の鼓動がうるさかった。


「朝だよ、舞ちゃん」

 優しく揺さぶり起こされて、目を開く。眠りのない体は疲労していたが、この穏やかな声に起こされては起きないわけにはいかない。
 『母』はとても優しく微笑んでいる。

「朝ごはん作ったから食べよう、舞ちゃん」
「うん」
「疲れているの?」
「……少しね」

 私は目を覚まし、彼女の微笑みに微笑みを返す。

「朝ごはん、なに?」
「ごはんと味噌汁よ。じゃがいもの味噌汁」
「……そっか」
「嫌だった?」
「ううん、……大好き」

 パンケーキを食べたいと少し思い、でもそんなものを朝からねだれるほど子どもではなかった。だから母と、母が作ってくれた朝食を食べる。それはそれなりに美味しいものだった。

「冷蔵庫にシュークリームがあるから食べてね」
「ありがとう、舞ちゃん。出かけるの?」
「うん、……帰りは待たなくていいよ」
「はあい、またね、舞ちゃん」
「……うん、またね、母さん」

 家を出ると、強い風が全身を包む。
 春が近づいてきているのが分かる、気味の悪い、生ぬるい風だった。


 大学の校門にはたくさんの人がいた。
 大学生ともなれば十代か二十代前半の人ばかり、要するに若々しい肌の人ばかりだ。そんな中で膝を出している年増の女とは、なんと場違いだろう。こういうところに来るとショートパンツを身に着けることが限界であることを悟らされる。
 でも、好きだから、辞めたくない。

 ――それにしても、眠い。

 ため息を落としてから、辺りを見渡す。

「人多いな……」

 この中から私が松下くんを見つけるのも、松下くんが私を見つけるのも無理だろうと思ったけれど、「久留木さん、こちらです」と遠くから響く声がした。
 そちらを見ると、手を振って歩いてくる、今日も今日とて真っ黒な松下くんだ。私も手を振り返し、彼に駆け寄る。

「おはよう松下くん、今日も真っ黒だね」
「そうですね。持っている服を一色にしておくと選ぶ手間が省けるので」

 とんでもない理論を述べる松下くんは、イケメンでなければ似合わない格好をしている。黒のモッズコートに黒のセーターに黒のジーンズに黒のミリタリーブーツ。しかもどれも高そうだ。
 金持ち狙いの女の子か、病んでいる女の子にはすごくモテそうな恰好ではあるけれど、残念ながら私はそのどちらでもない。

「きみだったら、もう少し明るい色の方が似合うと思うけど」

 嫌味たらしくそう言ってみる。
 服装に文句をつけられるなんて、さすがの松下くんも気分を悪くするかと思ったのに、彼はにこにこ笑顔で「じゃあ今度選んでください。楽しみです」なんて少しもへこたれない。私はまたため息をついてしまった。

「なんですか、そのため息」
「……周りがみんな若い分、私はすごく老けて見えるでしょう? わざわざここで私を選ぶような人はいないんじゃないかしら?」

 言外に『松下くんも冷静になって、私の事いやになったんじゃない?』という意味を込めたのだが、彼はクスクスと笑うばかりだ。

「久留木さんは誰よりもかわいいです」
「いや……かわいいとかじゃなくて、ここの人たちは若くて私は年増なの。そして女は若い方がいいの。分かる?」
「ふふ」
「笑い事じゃないんだけど……」
「ところで久留木さん、この一週間は変わりありませんでしたか?」

 松下くんが急に話題を変えた。

「え? 特になにもなかったよ。普通だった」
「へえ、そうですか……」

 妙に含みのある言い方と、妙に含みのある笑みだ。

「なに?」
「いえ……俺はちょっと色々あったので……久留木さんに影響がなかったならよかったなあ、と……」
「ちょっと待って、なに? 怖い話?」
「まあ、とにかく講義室に行きましょう」
「は? いや、ちょっと待ってよ!」

 にやにやしながら先を歩く松下くんの後を慌てて追いかける。

「ねえ! ちょっと待ってよ、足が長い!」
「俺、股下一メートルあるんで」
「うっそ、やばくない?」
「嘘ですよ。そんなの計ったことありません」
「なんなの! もう! 止まってよ!」

 松下くんは振り返ると、その右手を私に差し出した。

「……なに?」
「手をつなぎましょうよ」

 黒い手袋がはめられたその手を睨むと、彼が眉を下げて笑った。『やばい』という予感は今もある。

「俺の手、いやですか? そんなに、……どうしようもなくいやですか?」

 けれど、彼の声が少し泣きそうに聞こえた。
 だから私は――、予感を無視して、その手を取った。

「もう走らないでよ。私、走るの嫌いなんだからね!」

 彼は私の手をじっと見た後、にんまりと笑った。ちょっと顔が赤くなっている気がしたから彼から目を逸らすと、彼は私の手をぎゅうと強く握る。

「ええ、ゆっくり歩きましょう。もったいない」
「……っていうか、だからさっきの話はなんなの?」
「ふふ、あとでお話しします。今はとても気分がいいから思い出したくありません」
「なにを⁉ ねえ! なにがあったの、怖いよ!」

 しかし松下くんは話してくれず(手も離すこともなく)私を大きな講義棟の大きな講義室に連れて行った。

「どのあたりの席がいいですか?」
「聴講生だし、後ろの方がいいな」
「そうですね、そうしましょう」

 彼は一番後ろの席に私を案内してくれた。一番後ろの席から講義室を見渡す。百人ぐらいは入れそうな広い講義室だ。

「随分と広いね」
「そうですね。人気のある講義は広い講義室を使いますから」
「ふうん……人気あるんだ、この擬音語の授業……でもこんなふざけたテーマの授業をこんなエライ大学でやって意味あるの?」
「面白くてキャッチーな講義を数本入れることで生徒のモチベーションを保っているんですよ。面白講義の受講は抽選があるんですが、聴講だけであれば教授の許可さえあればこそっと入れてもらえるんですよ」
「へえ……そうなんだぁ……わざわざ許可とってくれたんだぁ……ありがとうねえ……わざわざ頑張ったことをわざわざ伝えてくれるのねえ、きみは……」
「ふふ、どういたしまして。久留木さんのためなら容易いことです」

 私の皮肉は華麗にスルーされた。ため息を吐く。

「松下くん、それでこの一週間きみになにかあったの?」
「講義が始まりますね」
「こんにゃろ」

 松下くんの足を軽く蹴ると、彼はクスクスと笑った。

「それじゃあ始めますよー」

 そんな挨拶から始まった『擬音語のみで会話する』講義は、そのふざけたテーマの割にはふざけた内容ではなかった。様々なコミュニケーションを体系立てて分類し考察していく内容で、まじめなものだ。講師のよく通る声は耳に心地が良いけれど、その内容は想像より面白くない。
 配られたレジュメをぺらぺらとめくっていると、松下くんがクスクスと笑った。

「飽きちゃいました? 麻雀の講義もありますよ」
「こんな風に麻雀の説明をしちゃうの?」
「こんな風かどうかは分かりませんが……そっちも受けてみます?」
「変な説明を聞いたせいで自分の麻雀が打てなくなったら困る……」
「そんなことありますか?」

 そんなことをポツポツと話しつつ、講師の話していることをレジュメにメモを取る。
 効果的なオノマトペの使い方など今まで考えたことがなかったけれど、言われてみれば『たしかに』と思うことばかりだ。同じように効果的な体の使い方というのは考えたことがなかった。効果的な体での表現、擬音語での表現を組み合わせれば、言語の壁を越えて最大限意思を伝えることができる……結構面白い講義内容だ。
 と、私が頑張って聴講しているのに、松下くんが私の耳に息を吹きかけたりする。

「構ってくださいよ、久留木さん」
「ちょっとうるさい、後にして」
「ふふ、そうですね、ごめんなさい」

 松下くんの右手は私の左手をぎゅうと握りしめている。彼は左手で筆記を続け、私を見ながら講義を聴講している。じろりと横目で睨んでも握る手の力が強くなるだけだ。

「……きみ、この授業受ける意味あった?」
「ありますよ。コミュニケーションは相手が理解してこそです」
「……私に受けさせることに意味があったってこと?」
「今度俺と一局対戦してください。俺は麻雀のルールは知りませんけど、あなたのことが知れるなら、けちょんけちょんにされたいです」

 プロの雀士にそんなこと言って、と怒ってあげてもよかったのだけど、私を見る松下くんの目が言葉よりも雄弁で、なにも言えなかった。


 お昼休み前のその講義が終わり、学生たちが流れるように教室を出ていく。
 私は講師に聞きたいことがあったのでその流れに乗るのはやめて、講師に声をかけた。講師の男性は普段舞台で演技指導をしているらしい。道理で声が通る、とても聞き取りやすかった、と私が褒めると、ありがとうございますと彼は笑った。

「あのー……松下さんはなんておっしゃってました?」
「松下くん? 後ろにいるけど呼ぶ?」
「い、いえ……恐れ多いです」
「恐れ多い?」

 一番後ろの席に座ったまま私を待っている松下くんは私の視線に気が付くと、ひらりと手を振ってきた。アイドルのような仕草だが彼がやると嫌味がない。私もひらりと手を振り返しておいた。

「彼、とても気安いと思うけど……」
「いやー、でも俺にとっては命の恩人なので」
「え? そう?」
「ええ、俺は元々……」

 彼が話すことによると、彼は元々難病の患者だったそうだ。
 その病気はどこも悪くないのに全身を激しい痛みが襲うもので、脳のどこかが誤作動を起こしているらしいが、対処療法しかなかったそうだ。あまりの痛みにまともに生活ができなくなるというのに、根本的な治療法がない。患者の大半が自死を選ぶ、そんな病気。
 それが松下くんの開発したもので動けるようになり、なんとか今の生活ができるようになったそうだ。

「この……三年でようやく人並みになれました。この仕事はうちの劇団の座長が受けているものなんですけど、今日は松下さんが来られるということで座長に頼み込みました」
「……楽しんでいるみたいだったよ」
「あ! そうですか⁉ それはよかった!」

 彼は嬉しそうに笑った。
 松下くんは講義中ずっと楽しそうだった。講義が楽しかったのか私をからかうのが楽しかったのかは判別できなかったけれど……嘘ではない。

「演劇、頑張ってね」
「ありがとうございます。あ、今度舞台をやるのでよかったら……」
「あ、じゃあ松下くんを誘ってみるよ?」
「本当ですか⁉」

 社交辞令だったのだけど断ることができない様子だったので、私は愛想笑いを浮かべておいた。
 彼の劇団のSNSをフォローし、彼の今度の舞台の話を聞き、ちょっとした雑談をしてから松下くんの元に戻ると、彼はニコニコ笑顔だった。こういう顔の猫がアリスに出てきていたような気がする。

「『コミュニケーションは相手が理解してこそ』……だっけ?」
「そうですね」
「……松下くんがすごい人ってことはなんとなく分かりました」
「ふふ、ありがとうございます。彼が講師でよかった」

 やっぱり講師がそういう人だと知っていたのか、と松下くんの頬をつねる。

「なんですか、久留木さん。かわいいことして」
「まるで神様みたいなことを言うんだもん、あの先生。もしかしたらさわれなくて、通り抜けちゃうかなって」
「さっきあれだけ俺の手に触ったじゃないですか」
「私から触ったわけじゃありません」

 彼はどこまで先を読み、どこまで計算して、そうして、私をどうするつもりなのだろう。『ヤバい』予感はある。それはむしろ、どんどん強くなっていく。でもその予感に従うべきなのか、それよりも大きな彼の作る動きに乗るべきなのか、それが分からない。
 彼の笑顔は爽やかだ。その爽やかさや彼のやさしさは嫌ではない。例え上っ面のものだったとしても、……嫌ではない。
 それが困る。だって彼と関わるとダイナミック入店、意識不明、強盗、ひっきりなしにトラブルばかりだ。今日はまだないけど、……多分この調子で過ごしているとまたなにかに巻き込まれる。

「講義終わったから帰ろうかな……」
「もうお昼ですよ。学食に行きませんか?」
「あ、それすごい大学生っぽい」
「ふふ、そうですね。……大学生活、楽しんでくれていますか?」

 松下くんが彼の頬をつつく私の手をとらえて優しく笑った。

「うん、楽しいよ。……こういう道を選んでいたらきみみたいなのに目を付けられなかったんだろうなあ」
「まさか。俺はあなたがどこにいても絶対に見つけますよ」
「なんでよ。怖いこと言わないで」
「運命だから」
「怖いよ、それ」

 松下くんは私の手を握り締めて「本当ですよ」と言った。


 食堂は混んでいた。明らかに学生ではない、親子連れや旅行客のような姿も見えるから、ここは外部にも公開されているのだろう。

「久留木さん、なにが食べたいですか?」
「お勧めのメニューってある?」
「さあ? 俺も利用するの初めてなんですよ。あ、ランキングが貼りだされていますよ」
「あ、本当だ」

 どうやら大学の名前を冠するラーメンが一番人気のようだったが、個人的に、ラーメンとは深夜に酔っぱらっているときにひとりで食べるものであって、素面の、それも真昼間から人前で食べるものではない。少し悩んでから第三人気の親子丼を選んだ。松下くんは私が選んだものを見てから同じものを選ぶ。

「なんで? 食べたいものを食べたらいいのに……」
「食べたいものは久留木さんの手料理です」
「なにそれ。ないものを言われても困るよ」
「あのカレーですっかり胃袋掴まれました」
「たった一回で勝手に掴まれないでよ……」

 親子丼を受け取り、空いている席に探す。食堂には十人ずつ座れる長机がたくさん並んでいるが、並んで空いている席がない。しばらくお盆を持ったまま「あそこ、あっ取られちゃった」「負けちゃいましたね」うろうろとさまよい「あ、あそこ」「ああ、よかった」なんとか二席空いている机を見つけ、座ることができた。

「大人気なのね、ここ」
「そうみたいですね、まあ値段も安いので」

 松下くんは「ちょっと待っていてください」と言って、自販機でお茶をふたつ買ってきてくれた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 私たちは目を合わせて手を合わせて同時に「いただきます」と言った。声がきれいに合わさって、少し面白かった。
 親子丼は思ったよりも卵もご飯も美味しくて、「こんなに安くてこの美味しさはずるいなあ」とつい呟くと、松下くんは「この親子丼も美味しいですが、この間のカレーとは比べ物にならないですよ」と拗ねたように言った。その口を尖らせた顔も愛らしくて、これはまずいなあ、と思った。

「本当においしかったですよ。今までの人生で一番、おいしかったです」
「分かったってば……」
「久留木さん、自信を持ってください。あなたは料理人になれます」
「なれなくていいからっ」
「小料理屋だってできますよ」
「できないよっ! もうやだ! うるさいよ!」
「ふふ、可愛い顔している」

 笑い事じゃない。『ヤバい』と分かっている相手にほだされるなんて、絶対に碌なことにならない。そう分かっているのに、顔がにやけてしまう。
 ――いいじゃないか、もう、認めてしまえば。
 こんなの久しぶりでどうしたらいいか分からないだけで、それで『ヤバい』なんて勘違いしてるんだ。そういうことにしてしまえばいい。彼みたいなハンサムが好意を示してくれている。だから、ただそれを受け止めて、認めて、……それでいいんじゃないか? 『予感』なんてなかったことにして、……。

「なんでこんなところにいるんだ」

 不意に聞き覚えのある声がした。
 振り返ると、ものすごく嫌そうな顔をした凪くんだった。

「あ! 久しぶり、凪くん」
「ああ、久しぶりだな……あんた、なんで大学に……」
「宮本くんは元気になった?」

 私の質問に凪くんはまばたきをしてからくしゃりと笑った。

「ああ、もう元気だ。心配してくれてありがとう」
「ちゃんと禁煙してる?」
「徹底させてる。今日はあいつ休みだけど……親御さんに見てもらっているから」
「本当に徹底させてるね、いいねー大事だよ! そういう姿勢!」

 ぺし、と凪くんの腰のあたりを叩くと「いてえよ」と凪くんが笑った。
 が、――『ヤバい』。突然の強烈な寒気。
 それは私だけでなく凪くんも感じたらしく「ひっ」と彼は短く声を上げた。

「凪さん」

 松下くんははっきりと愛想笑いと分かる笑顔で、はっきりと悪意と分かる低い声を出した。

「随分と久留木さんと親し気なご様子で……彼女さんはどうされていますか?」
「松下、違う、俺はこんな女、全然……」
「全然? なんですか? 全然……なんですか?」

 松下くんが椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。真上から松下くんに見下ろされた凪くんは「ひぇ」と言葉にならない声を上げる。その長身を最大限に活かした脅しスタイルには、冗談という空気がなく、むしろ『ヤバい』ものが満ちている。

「俺、お前の彼女に手を出そうなんて全く考えていないからっ……」
「久留木さんはまだ俺の彼女ではありません。そんなことより、全然、なんですか? 久留木さんが、全然、なんだというのです? ねえ?」
「ひえっ……ちがう、そういうつもりじゃなくてっ……」

 蛇に睨まれた蛙よりも可哀想だ。松下に睨まれた凪、新しい慣用句として覚えておこう。
 そんな現実逃避をしていたら服の袖を引っ張られた。凪くんが、うるんだ目で私に助けを求めていた。

「……松下くん、ハウス」
「はい」

 松下くんは大人しく私の隣にまた座り、凪くんは安心したようにひゅうと息を吐いた。

「凪くん、ごめんね。ごめんねって言うか私が謝る話ではないんだけど……」
「あんたは俺に話しかけるな! ……松下、そんなに心配なら、今この人を大学に呼ぶべきじゃなかったんじゃないか?」
「問題はもう解決しましたから」
「いや、まだ解決していないだろ、だって……」

 凪くんと松下くんが意味ありげな会話をし始めたので、私は右手を伸ばし凪くんの白衣の裾を掴んだ。凪くんは不審そうに私を見た。

「は? なんだよ? 触んなよ!」
「その話詳しく教えてくれる?」
「松下から聞けばいいだろ、当事者なんだから……ひっ」

 凪くんが私から松下くんに目を移し、また『松下に睨まれた凪』になっていたがそれは無視をする。

「凪さん、研究が忙しいんじゃあありませんか?」
「そ、そうだな、俺は忙しいから……」
「駄目よ、凪くん」

 私は白衣を両手でつかみ、「隣の席に座って」と言った。凪くんは「空いていないだろっ」と言ったが、その言葉が終わる前に私の隣にいた人が席を立ってくれたので、彼はそこに座るしかなくなった。

「おかしい、俺は無罪だ、どうしてこんな目に……」
「それを決めるのはあなたではなく裁判官ですよ」
「松下くん、やめなさい」

 蛇のような目でいる松下くんの二の腕を軽く叩いてから「説明して」と凪くんに尋ねる。

「でも松下に聞いた方が……」
「松下くん隠し事するから駄目」
「……でも……」
「久留木さん、凪さんから聞いてどうなります? 俺に聞いた方がいいでしょう?」
「凪さんの説明が終わるまで喋ったら嫌いになるからね、松下くん」

 松下くんは笑顔のまま黙り込み、凪くんは「ひえ……」と鳴いた。


「……松下のストーカーがいる」
「凪くんじゃなくて?」
「俺はストーカーじゃない!」
「あ、そうなの」

 凪くんの説明によると、一週間ほど前から松下くんの情報がネット上に流出し始めたらしい。研究内容であれば研究所としても被害届が出せるのだが、あくまでも流出しているのは松下くんのプライベート情報らしい。

「ファンサイトの形式をしているんだが、何度削除申請してもすぐ復活する。今も調べたらすぐ出ると思うぞ……ほらこれだ」

 凪くんが見せてくれたスマホ画面にうつされたサイトは、たしかにぱっと見はファンサイトのようだった。
 松下くんがイケメンのせいで盗撮写真もまるで宣材写真のように見えてしまうあたり問題だ。

「毎日記事みたいに更新されてるんだ……ほら、……やばいだろ?」

 そのサイトには一般人にも関わらず、松下くんの生年月日や学歴などにとどまらず身長(一八四センチ)や体重(七二キロ)、好きな食べ物(スパイスカレー)なんてことまで書かれている。そして毎日誰かの手によって更新され続けているようだ。

「これ、どうにかならないの?」
「どうにかしようとはしているんだが……警察はこれじゃ動けない」
「なんで?」
「そもそも松下は一般人だが、バスタルド社長としては有名には間違いない。あと、顔がいいから一回漏れたら多分、この先ずっと追われる」
「追われるぐらいに顔がいい……って、凪くんは松下くんの顔大好きなんだね」
「「は?」」
「松下くんは黙ってなさいね。……凪くんはちょっと照れるのは一番ガチっぽいけど……え、ガチなの?」

 松下くんは表情がすべて死んだ顔になり、凪くんは「違う! 客観的に見ての話だ!」と怒った。意外とこのふたりは仲良くなれそうなのだが、そうするには私が邪魔な気がする。シャーロックとワトソンだって、話の都合上邪魔になったワトソンの奥さんは早死にしたような……余計な思考はそのあたりで切り上げて、私は松下くんを見た。

「ここ一週間、ストーカーに遭ってたの?」
「……もう話してもいいですね?」
「うん、嫌いにならないよ」
「よかった。そうです。そういったサイトが作られたようですね。あと、それに便乗してかいくつか面倒なことが起こっていまして……」

 松下くんの言うことには、研究室から盗聴器が見つかる、怪文書が届く、帰り道につけられる、その他もろもろ『ヤバい』ことが発生していたらしい。でもすでに、つけてきたものは捕まえて塀の向こうに押し込み、家は鍵を換えたあと警察が頻繁に見回りに来てくれることで落ち着いたそうだ。

「盗聴器⁉ 聞いてないぞ、そんなの!」
「凪さんには言ってませんからね。それに盗聴器はどうでもいいんですよ……届いた怪文書の方がちょっと問題でして……」
「怪文書? そんなものまで届いたの⁉ 怖すぎるんだけど、なんなの?」
「『久留木舞と別れろ』と、何通か……」
「え、なにそれどういうこと、私のせい⁉ もしかして私のファンの誰か? 嘘でしょ、そんな粘着質なファンいないんだけどっ!」

 私の叫びに松下くんはにこりと笑った。

「久留木さんになにも問題が起きていないならいいんです。実際、もう解決したようなものですよ……警察が見回りしてくれてますし安全は保障されるでしょう。直接襲い掛かってくるものがいるなら、それは俺が処理すればいい」

 松下くんはどうでもよさそうに肩を竦めた。

「……つまり大丈夫ってこと?」
「ええ、大丈夫です」
「だったらじゃあなんで、今更私に言うの?」
「そりゃ言わないと伝わらないでしょう? ……あなたと付き合えるのは俺ぐらいのものだと思いませんか?」
「ほほう、そう来ますか……」

 隙あらば私の手を取る松下くんにさすがに苦笑しか返せない。そんなことしている状態じゃないだろう。

「でもサイトは消えないんでしょ?」
「一度ネット上にあがったものは消せないでしょう。俺は無駄な努力はしませんよ」
「いいの?」

 松下くんは眉を下げた。

「いいもわるいも、どうにもならないこともあります」
「……そう」
「とにかく、そういうことがあったので凪さんは久留木さんが大学にいるのは危険じゃないかと言いたかったのでしょう。そうですね、凪さん? 凪さんは優しいだけですからそれ以上の他意はありませんね?」
「な! い!」

 訓練された軍隊のように凪くんが素晴らしい返事をする。松下に睨まれた凪。さすがにすこし哀れだった。

「松下くんは凪くんと仲良くなれると思うよ? 凪くんは松下くんのことすごい人だって思っているんだから」
「いや俺はそんな、……すごいやつとは思っているけど別に仲良くしたくは……」
「凪くん、一回ツンデレ引っ込めてね」

 ツンデレ蛙の額をペンと叩くと、陰険蛇が「久留木さん、凪さんをベタベタ触り過ぎです」と矛先を私に向けてきた。

「そんなことないでしょ」
「あります。みんな勘違いをします。やめてください」
「勘違いじゃないかもしれないじゃない」
「ならなおのこと駄目です。俺を選んでください」
「……きみはどうしてそんなストレートなことを言うの?」

 松下くんは口を尖らせた。

「そうでもしないとあなた、聞かないじゃないですか」
「……そうかな」
「そうです。俺は、……出会いからやり直せるならもっとうまくやりましたよ」
「ふうん、……まあ、そうかもね」

 それはお互い様のような気がする。私も出会いからやり直せるなら化粧ぐらいして外に出た。

「まあ、いいや。状況は分かった。ありがとうね、凪くん。これからも松下くんと仲良くやってね」
「じゃあ俺は帰っていいな?」
「いいよ。そんなに怖かったの?」

 凪くんはすぐに席を立ち、去り際に「あんなのと付き合えるのはあんたぐらいしかいねえんじゃねえの」と言っていった。松下くんは「最後だけいい仕事しましたね」とアサシンのような顔でそれを見送っていた(もしかしたら最後ではなく最期かもしれないが、それには気が付かなかったことにした)。


 食堂を抜けて大学の正門まで出てきたところで松下くんは「本当はせっかくの機会ですから他の講義も受けて行ってほしいんですが……」と申し訳なさそうに言った。でも私はもう十分だった。

「楽しかったよ、ありがとう。大学生なってみたいと思ってたときもあったから、……楽しかった」
「……家まで送ってもいいですか?」
「いやいや、いいよ。私も寄りたいところがあるし」
「でも、危ないかもしれないですから」
「そんな顔をしても駄目です。きみにそんな義務ないもの。私はまだあなたの彼女ではないんでしょう?」

 松下くんは「ちえっ」とわざとらしく言ってから、くしゃりと笑った。

「それで日曜は、デートしてくれますか?」
「……うん、それは約束だからね」
「楽しみにしています。本当に楽しみにしています」
「二度も言わないで」
「大事なことなので何度も言います」

 松下くんはくすくすと笑った。底の見えない笑顔だ。彼は私の手を離し「俺のこと知りたくなったら、ネットで調べてくれればすぐに出ますよ」と私の耳に囁いた。

「……性格悪い。なんでそういうこと言うの?」
「あなたに調べてほしいからに決まっているでしょう?」

 日曜に迎えに行きます、と彼は笑った。そんな彼に手を振って、私は大学を後にした。


→後編
第三話 シュークリームとストーカー 後編

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