見出し画像

執狼記 1-4

 本当に、出来過ぎた姿勢でした。もしこれが一枚の絵であったのなら、誰もが溜息を吐かずにはいられない。そういうような姿勢でした。まもなく狼は獲物を口元から離し、ついっと血塗れの顔をにわかに上げました。一切の迷いなく、まっすぐにこちらに向かって。そして、狼は私たちの方へと歩き出しました。さくり、さくりと雪を踏みつける音さえも聞こえてくるほどにゆったりとした、しかし堂々とした足取りで。おそらく(少なくともあの時点では)好奇心が強い個体だったのだと思います。

 下がれ! 背後の若様が小さく、あっと声を漏らしたのと同時でした。私はあらんかぎりの声でそう叫びあげ、後退りました。

 そうしてこちらに向かってくる子狼に対し、両手を広げて大きく横に振ります。なるだけ巨大な生き物だと、また意気衝天と思われるように激しく、勢いよく。そうしてそんなものから威嚇されていると感ずるように、口汚く罵りもしました。人が聞いたなら眉を顰め、張り倒されるような言葉で。これぐらいしか心置きなく強く発せられる言葉を、私は持っていなかったのです。

 ですが、この試みは今のところは無駄のようでした。どんなに喉を震わせて罵声を上げようと、歩調は変わることがありません。突如として出現した得体のしれない何かに怖気づくことはなく、相手は確実に私たちとの距離を縮めつつありました。

 そのときでした。背後で不意に錠を落とすのに似た、重たい音が連続して起こりました。弾かれたように視線をやると、Yがいつのまにか銃を下ろしているのが視界に入りました。そうして倒したボルトを手早く押し戻しながら、彼は至極真面目な顔つきでこんなことを言い放ったのです。自分はこの狼を連れて帰る、と。

「この森が領主である僕の所有地なら、あの狼だって僕の物だ。好きにしてはいけない道理はないだろう?」
「そんなに簡単に獣を殺せるとお考えで?」
 そう私は言いました。
「殺さない。ただ、少しだけ動けなくする」
「自分の思い通りになるとは限りませんよ」
「そりゃあ生きているのが一番いいけれど、こちらは別にどちらでもかまわないんだ。たとえ死んだとしても、あれが僕のものなのには変わりはないさ」

 それにあれは僕を見つけて、僕のところにやってきた。だからどうしても連れていく……。Yが狙いを定めながら、のたまった、次の瞬間でした。狼のまとう空気がにわかに転変しました。
 またたく間に狼の眦が鋭く吊り上がり、喉を鳴らして唸り声を上げます。めくり上がった唇から覗く犬歯は白く尖り、地を這うように重く低い唸り声は発しています。その唸り声は同時に朝霧に似た、ある種の冷たさを帯びてもいました。そのような様子の狼と、若君はスコープ越しに相対していました。

 彼らのあいだにふと一陣の風、吹き抜けます。そ勢いこそは強かったけれど、刹那的なそれはすぐに止ました。そうして、わずかに――ほんのわずかに狼は身を低くします。

 まもなく架空の、まだ発生していない足音が私の脳裏に鳴りました。地下の深くまで刻みつけていくみたいな重厚な足音です。銃声はありません。ついで引き裂かれた肉と砕かれた骨の痛み、そして吹き出る鮮血の温かい感触がまざまざと肌の上を疾駆します。私は身を硬くし、そのときを待ちました。ですが、何も起きません。かわりに、朗々とした遠吠えがあたりに響きました。

 まるで教会の鐘を思い起こさせる、どこまでも澄み渡っていきそうな伸びやかな鳴き声でした。それを耳にした途端、狼の子どもは素早く踵を返し、来た道を矢のように駆けていきます。力強い足音を鳴らしながら、その姿は瞬く間に遠ざかり、野原を越えて森林に飛び込み、鬱蒼とした樹々の影に隠れてやがて見えなくなりました。

「やっぱり、まだ子どもだな。そんなに親が恋しいか」

 こう言って、Yは銃口を地面に向けて下します。ふとその横顔を見てみると、かすかに微笑を湛えているのがわかりました。力が抜けた、少しだけ困ったような笑みでした。

←Prev【続く】Next→

ヘッダー:Marek Szturc @unsplash

◆サポートは資料代や印刷費などに回ります ◆感想などはこちらでお願いします→https://forms.gle/zZchQQXzFybEgJxDA