執狼記 2-1
羊を連れ帰らなかったことについて、当然ながら牧場の主人は良い顔をしませんでした。考えるまでもなく1頭の羊を育て上げて子どもまで産ませるのには手間や労力、費用がかかります。後々にそれらを補って余りある利益が回収できればけっこうなのですが、その見込みが失われたとなると損害は甚大なものになります。そこはYが相応のお金を出すことで、どうにか手打ちにしてもらいました。もっとも牧場の家畜も彼の所有物の1つなのですが。
若君はその冬のあいだ、羊の敵討ちを大義名分に、ずっとあの不思議な毛色をした子どもの狼を探し求めていました。朝早くから夕方になる寸前まで1日中、森を歩いていたのを覚えています。しかし彼の熱意と行動量に反して、得られた報酬はさほど多くありませんでした。
私たちが例の狼を直接目にしたのは、あれから2回ぐらいでした。しかもどちらのときも遠目にちらりと姿を覗かせるだけで、しかもすぐに繁みや木陰に隠れてしまいます。ほかに発見できたのは爪痕や排せつ物などの痕跡のみでした。
そのような数少ない成果でも、1度手にしてしまえば若君は喜色満面といった風情になりました。しかし彼のその表情が、私にとってはあまり好ましいものには映りませんでした。順当に考えれば誰であれ不機嫌であるよりも、上機嫌である方が良いに決まっています。ただYの場合は、なんと表現すればよいものか、とにかく見ている方が据わりの悪くなる顔つきだったのです。
「ごらん。ほら、足跡がまだ僕の手のひらの半分くらいしかない。可愛いじゃないか」
このようにして狼探しにのめり込んでいくうちに、彼は自分が執心している狼のことを“カリスト”と勝手に呼び始めました。本人曰くあの狼がこれまで見てきた獣の中で、もっとも美しいからだそうです。
またカリストとは異教の神話で女神の逆鱗に触れたために動物の姿を変えられ、最後には大熊座として夜空に召し上げられた仙女と同じ名でもあります。だから名前から連想されるイメージは狼よりも熊の方が強いのですが、そんなことは彼にとっては些末ことのようでした。本人が頓着していないので、私も深く掘り下げないことにしました。いま振り返ってみると私は彼の不誠実さについて、きちんと言葉にすべきだったのですが――。
何事にもきりがあるように、森を探索し続ける日々もいずれ終わります。降誕祭が終わり新年を迎えて一週間が過ぎると、Yがとう街の大学に戻らなければならない日がやってきたのです。そして去り際に馬車の窓……私の頭の上から、丘の屋敷の若君はあることを言いつけました。
いわくあの狼の様子を監視して、逐次文書で報告するようにと。
「何から何までよく見ておきなさい。僕のカリストが、けして他の者にとられることのないように」
このようにして私の暮らしの中に新しい日課が加わりました。木や動物の数を計測し、間伐などの作業の合間をぬって、カリストの居所を草の根をかき分けて探し出すのです。そうして獣を追跡して行動を記録し、日が暮れて森番小屋に戻ると文書に書き起こし、街にいるYに送信します。
こうして表現してしまうと、どことなしに簡単そうな仕事に思えます。ですが、実際にはなかなかの重労働でした。冬季は日が短いので行動量は限られている上に、仕事が増えた分だけ日常の業務が免除されることはなく、私は体力や時間を上手にやりくりしなければなりませんでした。
そもそも命の危険だってあります。森に入るとき私はいつも猟銃を携帯していましたが、これが必ずしも安全を保障してくれるわけではありません。どんなに射撃の腕前が良かろうとも、タイミングや運が悪ければ死にます。私が課されている仕事……とりわけYから与えられた獣に接近するという任務には、このような側面が確かに存在していました。
生命の問題はともかく労働量については、彼が帰ってくればましになるかと最初は考えていました。しかしそんな簡単に物事が進むことはなく、張本人であるYは春の休暇も、夏の休暇も村に帰ってはきませんでした。なんでも個人研究や実験で忙しいのだと、手紙には書いてありました。
この報告は私を落胆させ、失望させました。期待というのは身勝手であればあるほど、裏切られたときの痛手は筆舌につきがたいものなのです。またたかだか獣一匹のために時間と体力を消耗しているという事実が、なおさら腹立たしさを誘いました。ですが同時に私に慰めを与えたのも、またカリストなのでした。
疲労していく私と比するように、あの狼の姿かたちはどんどん洗練されていきました。小柄だった体は瞬く間に重量を増し、体躯もしなやかに成長しました。まるっこかった顔つきも徐々にほっそりとしてきて、鼻筋がすっと通ってきます。鉛筆でさっと描いたような輪郭や冷たい蒼色の瞳からは、どこか高貴ささえ漂わせていました。そして張りつめたような気品はどんなに血や泥で汚れても、けして損なわれることがありません。
しかし際立っていたのは見た目だけではなく、カリストが自身の真価を発揮するのは大地を疾駆するときでした。
この狼が仲間とともに獲物を求め、風を切って木々の合間や野原を駆けるときの体勢は均等が取れて、一切の歪みがありません。それはまるで突きつめて設計された機械のごとく、どこをとっても文句のつけようの無い姿でした。くわえて花びらのように軽やかで、弾丸みたいに速いのです。そして獲物へ狙いを定めると、このような速度で一気に距離を詰めて食らいつき、噛み殺します。その動作は一つたりとも無駄がなく真実、鮮やかでした。
そんな風にカリストが疾走する瞬間を見るのが、私はとても好きでした。毛皮に光が走って青や緑にきらめくのを眺めるのが、いっとう愛おしかった。躍動する狼をじっと眺めていると、何だか洗われたような穏やかさを覚え、あれこそがまさに完全で完璧な生き物なのではないかとさえ思ったものです。そしてこんなに素晴らしいものに触れられるのなら、この仕事も悪いことばかりではないと感じるのでした。
そうして狼を追い続けるうちに春が終わって、夏が過ぎました。ついで日ごとに秋が深くなり、もうまもなく冬に差し掛かろうかというころ。カリストにつがいが出来ました。
ヘッダー:lngmar @unsplash
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