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執狼記 1-3

 その狼は少しばかり、不思議な毛色をしていました。雪と血に濡れた毛皮が日差しを受けて、しなやかな体躯にぬらりと光が抜けるたびに、あるいは運動のために体の角度が移ろうたびに、毛皮の色合いがまるきり変化するのです。ある瞬間には真夜中の川底を思い起こさせる黒みがかった深い青色に、また別の刹那にはモミの葉に似た暗い緑色という風に。あるいは朝焼けに染まる以前の空のような濃厚な紫や、かまどから上る煙みたいな薄い灰色にも変わります。それら色彩が万華鏡じみてあまりにめまぐるしく入れかわるので、私は驚きあきれたものでした。

 くわえて子羊とほとんど同格の体格も、私の目を惹きました。ピンと伸びた耳や体つきは、以前から見知っている狼よりも小ぶりである気がしたのです。そういえば顔や四肢のつま先も、何だか丸いように見えました。まだ、子どもなのかもしれません。

 とはいえ、どんなに幼く体が小さかろうと狼であるのには変わりありません。泣きどころへの狙いは的確で、着実に獲物へダメージを与えているようでした。狼が飛び掛かり、体に爪が掠めるごとに羊の体から鮮血が散って、新雪の上にぽつぽつと痕をつけます。それは狼の複雑微妙な毛皮とあいまって、色とりどりの花びらを散らしたように鮮やかでした。

 その様を眺めながら、私は悩みました。羊を連れ戻して欲しいといわれていましたが狼――いや、どんな動物でも獲物の横取りは許しません。無理に取り上げようとすれば、必ず反撃にあいます。とはいえ手ぶらで帰っても、相手に納得してもらえるかどうかはわからないのです。後々の対応のことを考えると頭が痛みました。
 また、懸念はもう一つあります。

「あれは雌だろうか、それとも雄だろうか」
 あんなに動くから雄かな? でも、あんなに奇麗な毛皮をしているから雌でもおかしくはないな――。私の隣で若君が言いました。
「私にもわかりかねます。ここからは、少しばかり距離があるので。それに狼は雄でも雌でも狩りをします」
「なら、今のところはどちらでもあるというわけだ」

 そう口にしながらYが双眼鏡を取り上げたのと、羊はとうとう捕らえられたのは、ほとんど同時でした。狼は獲物を前脚で組み伏せ、絶叫しながらのたうつ羊を全身で抑え込みます。そうしてキスをするように、何度も相手の首筋に噛みつきました。
 上に乗っかったまま、狼はどんどん獲物を貪っていきました。裂かれた部分の皮がめくれて、内側の真っ赤な肉が覗いているのが、遠目からでもあきらかにわかります。羊は依然として鋭い悲鳴を上げていましたが、苦難から逃れようとする気力は失われてきているようでした。みもがき、あがく動きはだんだんと弱くなっていきます。あんまりにも鈍いありさまなので、もはや抵抗はうわべだけなのではないかとすら思われました。

 双眼鏡を両目に当てたまま、Yはこの光景に釘づけになっています。彼は呑気な様子でしたが、傍らにいる私は気が気ではありませんでした。なぜなら子どもの獣の近くには、たいていその親がいるというのを私は経験として知っていたからです。
 くわえて狼たちは群れで行動し、育児も仲間総出で行う習性があります。彼ら彼女らがひとたび異変を察知すれば、なんとしても子どもを守ろうとするでしょう。こちらには猟銃があるとはいえ、群れに囲まれてしまったら勝ち目はないに等しい。まさに多勢に無勢というわけです。

 しかしこちらが撤退を促しても、Yは一向に動こうとはしません。私の言葉を、彼は毎度小声で遮ります。まだだ……まだ見ていたい、と。その呟きには、確かに陶酔感を伴っていたのを覚えています。まるで目新しいおもちゃにはまり込んで、延々と遊び続けている子どもを連想させるような陶酔感が。
 決めた――。しばらくしておもむろにYが双眼鏡を外し、ほのかに紅潮した顔を私に向けて言います。何を決めたのかと、私は訊ねようとしましたが叶いませんでした。狼が羊を咀嚼する動きを止めたのです。

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ヘッダー:Marek Szturc @unsplash

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