献呈の別れ 2-1
*犯罪行為(盗撮)の描写があるので閲覧注意
そうするつもりは蘭二には毛頭なかったし、けして自ら切り出しはしなかった。けれどもジュンイチロウが持つ目の不可思議さは、ほどなくして赤江に知られてしまう。言外の要求に従って渡した、ジュンイチロウのスナップショットから見抜かれた。
「幽霊を見る人の目だね」
幽霊を見る目。オウム返しでそう唱えた己の声の細さ、小ささを蘭二は今でもありありと思い出せる。相手から発せられた一言にはそうか、と信じ込んでしまいそうな力があったのだ。自分の抱えるジュンイチロウのイメージに、見事にはまり込んだ評価でもあった。
献上された写真……ひいてはその被写体であるジュンイチロウを、赤江は至極気に入ったらしい。ときどき新しいものを催促してくるようになる。
やはり直截にくれとは乞わないし、よこせとも命じない。君のきょうだいはどうしているのか、何か変わりはないのか。このように自分のしてもらいたいことを、迂遠にこちらに理解させてくる。
他人ならうっとうしいだけの言動だろうが、彼の唇から発せられると奇妙に似つかわしかった。自分を従わせるときの言葉の響きはどこか高貴で、心地よく酔わせる何かを含んでいた。ジュンイチロウに写真を見せるのとは、異なる快楽がそこにはある。また隠し撮りをする後ろめたさと、どんなに好き放題しても当人は何も知りえない状況が、さらに蘭二の愉楽を深めた。
もし事が露見すれば一蓮托生に罰せられるというのは、彼はちゃんと理解している。しかし、この罪は自分だけが被ってもいいとさえ蘭二は思う。この人をあらゆる刑罰から免れさせためには、己は永遠に追放されてもかまわない。そんな気さえした。
赤江の方もこんな彼の気持ちを、どこかで覚っているらしい。彼はよく蘭二の両手を包み込んで、そっと親指で撫でる。血が滲んだ瑞々しい傷を労わるみたいに優しい触り方で。写真を受け渡したあとは、ことさらに丁寧に触れてきた。
「嘘をつくが、心のある者の手だ。リンゴみたいな匂いがする」
何回目かにジュンイチロウの写真を渡したとき。そう言われて、蘭二はちょっとだけ泣く。彼の声を聞き入れた瞬間、肩がふと軽くなったから。重荷を背負うのは、独りだけでないのがわかったから。おそらく赤江が与えたのは、このときの自分が欲していた言葉だったのだ。赤江はそういう機微に敏い男だった。
悪行を重ねるうち、彼らはどんどん大胆になっていく。盗撮という行為の性質上、ジュンイチロウのスナップショットは無防備なものが多い。だが、次第にもう一段階くらいに程度が剥き出しになった。あからさまな裸体こそ写されなかったけれど、薄着で身体の線がわかる内容が増えてきたのだ。
「この黒いのはコルセットかな」
降って湧いた問いかけに、蘭二はゆっくりと頷く。つでどんな形だと訊ねられたので、――掻き合わせたところに、はと目が左右にたくさん並んでいて――と彼は順々に答えていく。毎朝そこに紐を交互に通して、自分で結んでいるようです……というあんばいで。
たいていはそこで問答は終わる。だが、さらに追い打ちをかけられることもある。そのとき、どんな顔かな? わからないです。でも、おそらく苦しんじゃないでしょうか。ぎゅっと胸を絞るわけですから。
こんな回答を繰り返すうちに、蘭二はどんどん気分が高揚してくる。過熱していく感じの興奮ではなく、何か、生暖かいものが体内に徐々に溜まっていく感覚だった。同時に、ある種の緊張を伴っていた。こんなので身体いっぱいになったら、自分は一体どうなってしまうのだろう――。
そんな熱に浮かされた心地で質問に答えるあいだ、蘭二の頭の中には、いつもジュンイチロウの影がある。唇が言葉を紡ぐたびにそれはどんどん大きくなって、混然一体となるようだった。そうして自分と相手との境目が曖昧になり、やがて立ち消え、二人とは違う一匹の生き物に変化する。そんな妄想がひどく掻き立てられた。
それが身振りや手振りに、自然と現れていたらしい。やがて彼はジュンイチロウの分身として赤江から扱われる。
正確には因果関係は逆で、蘭二の中に潜むジュンイチロウに似た部分を、赤江が見出したのが先だった。睫毛から落ちる影の形とか微笑むときの唇の角度とか、そんなところに宿る面影に気がついたのだ。そうして二人のあいだに重なり合う箇所を、彼は一つずつ丹念に掬い上げては、蘭二に教えた。
類似点を際立たせるために化粧をさせ、かつらを被せ、服を着せる。体格をきょうだいに寄せるためにコルセットもはめさせる。基本的には穏やかで親切に、ときとして淫奔で野蛮な手段をもってして。
わからせる方法がどちらであっても、蘭二にとっては少なからず苦痛はあったし、また後者であれば加えて羞恥心もひどく煽られた。だが、彼は甘んじて受け入れる。個人性にひびを入れられる怖さよりも、己の内側に隠れたジュンイチロウ――アーヤを露わにされる嬉しさがはるかに上回った。もっとも教え込まれた分だけ、自分たちの身体の差異が強調される悲しみも常にあったが。それは、どんなに努力しても、覆し得ない差異だった。
とはいえ蘭二の内に、ジュンイチロウが存在する事実に変わりない。そのことをすっかり自覚すると、彼はやがて本人のパロディとして振る舞えるようになった。箸やスプーンの運び方や歩幅から、手紙やメモの字体まで。何から何まですべて。
もちろんこれらが赤江と蘭二の欲望によって、形づくられているのは大前提だ。けれども造り上げた虚構にどこか真実味を感じてもいて、その成果を、彼らは自分たちの口や手や足で思うまま貪った。
そして遊びに耽り続けた、ある日。赤江がこんなことを言い出す。
「こちらばっかりがいい思いをして、あちらには何もないのは不公平だとは思わないか」
思う、とジュンイチロウ風の蘭二は答えた。あの幽霊写真の撮影が決まったのは、そのような経緯だった。
*
彼が人差し指で示してみせた先に、赤江の別荘がある。ほのかに日光を反射した白い壁と、鮮やかな青い屋根を持つ二階建ての別荘。青い屋根の赤江さんの家。行ってみようと誘ってみるが、ジュンイチロウは首を縦に振らない。
「けっこう近場だな。そんな都合のいい話があるのか」
「あるんだよ。で、いつでも遊びに来ていいって」
「馬鹿。社交辞令に決まってるだろう」
とにかく、あっちには行かないと相手は断言する。誤解させる余地を一切残さない、力強い語勢だ。まさしくにべも、とりつく島もない。あんまりにぴしゃりと言い切るので、なんだか蘭二は切なくなった。自分が伝えた赤江の言動はすべて本当のことなのに、どうしてわからないのだろう?
あるいは本当であるからこそ、拒んでいるとも考えられた。平常からジュンイチロウは、限られた人々と交流しない。それも両親がこれと選んで、送り込んでくる人たちだ。だから、正真正銘の他者との出会いに臆病になっている可能性は十二分にありえた。そこに誰かがジュンイチロウの内側に立ち入ろうとすれば、相手にどのような感情を持つかは明白だ。
そういった機序が存在するのを、頭では理解した。けれども自分とジュンイチロウの意見が折り重ならないのが、やはり蘭二の心を寂しくさせた。そして相手の言葉が、なおさら彼の胸を締め付ける。
「君はこんな写真を撮れる人じゃない」
淡い人影が、ふと蘭二の頭を過る。ジュンイチロウが横笛に手にかけたときのシルエットだ。それを皮切りにうなじの後れ毛や、フルートの歌口と触れ合う直前の唇などが次々と浮かんでは消えていく。どれも本人が知りえない、あるいは知っていたとしても、些末な事として取り合わないだろう光景だ。そのすべてを彼はレンズ越しに見た。そしてかたっぱしから印画紙に焼きつけて、赤江の懐に収めにいった。
そこまで蘭二が思い至ったとき。首筋に氷を当てられた感じがして、同時につと口元に薄笑いを湛える。まるでタバコを切らした人のように、何かを待ちかねた笑いだ。そうして、こいつは本当に良い子なんだなと彼は心底思った。
ヘッダー:Robert Shunev@unsplash
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