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献呈の別れ 1

 伊勢物語や源氏物語などで描かれるように、須磨は古い時代にはやんごとなき人々の流刑地とされていた。だが、同時に歌枕となるほどに風光明媚な土地柄でもある。在原行平など名だたる歌人が、この地に対して愛憎相半ばする名歌をいくつも残している。

 そのような歴的な流れを引き継いでか、戦争前には保養地として、お金持ちたちの邸宅や別荘が軒を連ねていた。しかし戦中の空襲と戦後の改革で急激に数を減らし、近年のレジャー施設の開発でさらに淘汰されつつある。しかしまだ、前時代の匂いはいくらか残っている。

 数少ない前時代の残留物が、このあたりに二軒あった。海側にはコテージを模した素朴な、山側にアメリカ風の意匠を施した別荘がある。どちらもずっと昔から続く旧い家で、戦前は要職に就いて戦争に協力していた。一つは武士――軍人、もう一方は神官の家柄だ。ともに終戦を迎えると進駐軍により公職追放の憂き目にあう。だが命令が解除された今では、また、素知らぬ顔でそれなりの地位に就いている。そんな家だった。

 そして、おのおのの家には子どもがいる。二人とも終戦の年に産まれた。しかしそれから十七年後の今に至るまで、彼らは直接顔を合わせたことはない。

 その山側にいる片方は今、バルコニーから双眼鏡で眼下の海辺を眺めていた。覗き込んでいるグラスには、揺るぎない水平線と悶えるような波濤のうねりとともに、二人の人物が映っている。自分と同じくらいの年ごろの少年たちだ。

 子どもたちは、それぞれの方法で海遊びに励んでいた。一人は盛んに泳ぎ回り、もう一人はパラソルの下でゆったりと読書して過ごす。そんな具合に。その光景を彼は気を逸らさずに、ずっと注視していた。まるで、どんなに小さな変化でも見逃さないという風だ。しかし過度な気負いはなく、どこか楽しんでいる向きがある。

 実際、彼は笑みすら浮かべていた。庭のバラの花が開いたのに最初に気づいた朝みたいな、密やかで静けさに満ちた笑いだった。そんな風に微笑んで、彼は二人が楽しく遊ぶ様子を盗み見ている。


      *


 ころあいだと蘭二が思ったのは、両腕で海を切っているときだ。陸に上がったら、あれをアーヤに見せよう。夏休みに入るまではいつにしようかと長々と悩んでいたが、今、ここでようやく決心がついた。別荘を訪れて二日目の朝だった。

 蘭二の家では、須磨にある別荘に行くのが夏の慣例行事となっている。祖父の代に竣工し、今は父が譲り受けている別荘だ。そこで七月の終わり間際から八月に入るまでの一週間ほどを過ごし、盆に入る前に帰る。混みごみとした道は家族全員が嫌いなのだ。

 別荘滞在中の蘭二は、朝から昼まで海遊びに耽る。朝一番の少し生ぬるい海が、日が高くなり空気が蒸していくにつれて、ほどよく冷たくなっていくのが気持ちいいのだ。また自分たちを嫌って地元民が寄り付かないのも、泳ぎに熱中するにはうってつけだった。

 一度心を決めた後の彼は、ひたすら水泳にのめり込む。スクロール、背泳ぎ、素潜り。知りうる限りの水泳法を片っ端から試みる。足や腕を海面に叩きつける度に、あたりに白く飛沫が上がった。身体の骨と肉に力強さを増しているためか、精神的な要因のせいか。白波の働きは高く激しかった。その有様は熱中しているというよりも、どこか気を紛らわせている風に見えた。

 ふいに。彼は浅瀬まで引き返し、地に足をつけて浜辺を顧みる。彼から少し離れたところに、紅白模様のパラソルが立っている。その下には二台のチェアベッドが置かれていて、片方に絢一郎(ジュンイチロウ)が寝っ転がっている。

 まもなく彼はアーヤ――家の中ではそう呼ぶのだ――と声を張り上げ、浜辺に向かって手を振った。それから、こっちに来いとも。ややあってから相手は、パラソルの下からこちらに向かって腕を掲げて振り返す。楊凪の枝に似てほっそりとした、優し気な手だ。

 だが、その場から動きはしない。以前に質の悪い風邪で肝臓を傷めて以来、医者から海水浴を止められていたのだ。また、両親が人前で肌をさらすのを固く禁じていたのもある。ジュンイチロウはどちらの命令も律儀に守っていた。

 日光浴自体は強く推奨されているので、こうして遠くから弟の活躍ぶりを目の当たりにしながら、日陰でフルートの楽譜や運指表を読んでいる。そうしてときおりテーブルに置いてある、クッキーやビスケットなどのお菓子をつまむ。夏の海岸でジュンイチロウは、おおむねそういう風に過ごす。

 しばらくすると休憩のために、蘭二はパラソルまで戻る。彼が日陰に入ってすぐ、ジュンイチロウはタオルと麦茶の入った水筒を渡す。すると彼は手短かに礼を言う。それきり二人は沈黙に陥った。しかし気まずいわけではない。深い信頼に裏打ちされた静かさだ。

 潮水と麦茶で濡れた顎を、蘭二はタオルでごしごしと擦る。それが膚(はだえ)を破けんばかりに乱暴な仕草なので、ジュンイチロウは彼の手からタオルを奪い、かわりにそっと口元を拭いてやる。このままだと生傷で染みるだろうという気遣いだ。

 そんな相手の優しみに身を任せながら蘭二は切り出す。

「アーヤは良い子だよな」
「だめかな。これでも一生懸命に生きているつもりなんだけど」
「そりゃあわかるさ。親父たちはともかく、医者の言うことは聞いてなんぼだし。でも、ときどき怖くなるんだ」
「怖い?」

 怖い――濡髪や頬を拭かれながら彼は口にする。そうして顔を撫でるタオルの隙間から、ちらっとこちらを見やる。眼差しには細い光が宿っている。鋭さを帯びた輝きだった。肌の下に潜り込んでくるようだ、とジュンイチロウは思う。

「もう少ししたら、今度は一緒に遊ぼう。波打ち際くらいなら大丈夫だろ」
「くるぶしか、膝までならね」
「うん」蘭二が答える。言葉そのものは明快だったけれど、頬張ったお菓子のせいで発音が濁ってしまっている。お腹が空いていたのだろう。端の方に寄せているのか、食べ物は覗いてはいないが行儀が悪い。

 タオルでごしごしと全身を拭きながら、蘭二は反対側のチェアベッドに腰を落ち着ける。ついで、さりげなく鞄に手を突っ込む。大いに俊敏な、迷いのない動作だ。何をどこにしまったのかは、あらかじめわかっている。

 あのさ。蘭二が口を開いたので、何だとジュンイチロウは訊ねる。これ見てよ。そう言うついでに彼がテーブル越しに何かを差し出したのが、視界の隅の方で捉えられる。あらためて相手に目を向けると、卓上に一葉の写真が置いてあった。

 どこかの部屋――蘭二いわく学校の音楽室を撮影したものらしい。真っ白に感光した窓ガラスを背景に、前髪を軽く横に撫でつけた制服の少年が映っていた。演奏している最中か、その寸前であるようで、座奏でフルートを構えている。左耳に集中したやや斜めの画角と譜面台に注がれた眼差し、そして光を反射するメガネのレンズために、顔立ちは判然としない。

 ただ楽器は自分のものよりも若干太いようにみえるから、これはおそらくアルトフルートだろうというのは見当がつく。また、彼がなかなかに修練を積んだ者ではないかともジュンイチロウには思われた。

 歌口はちゃんと頭に寄せていて、顎も方も程よく力が抜けている。胸と楽器の距離感も適度に取られていた。基本に従った、理想的な姿勢だ。まさに注目に値すべき事柄だが、これはあまり大事ではない。問題は周囲の風景の、ところどころに灰色の人影が写り込んでいることだ。

 窓から外側から身を乗り出している人影が、最初にジュンイチロウの目につく。人影はカーテンをわずかに持ち上げ、顔をカメラの方を向けていた。まるで部屋で寝ていたところを外から妙な物音を聞きつけて、恐るおそる様子を覗き見るような恰好だ。しかし、なんだかおかしかった。顔かたちはインクが滲んだみたいに曖昧だし、身体の厚みものっぺりとしているのだ。

 また、縮尺もなんだか変だ。遠近法があるのを考慮しても、その姿かたちはあまりも小さい。窓枠の幅に比して、頭や手小さすぎるのだ。どんなに接近したとしても、膝から下の半分くらいしかないことになってしまう。そんなものが写真のあちこちに映っている。床の木目や吸音材に落ちる影、あるいは少年の膝上や肩口。そういったところに。

「これは何?」
「幽霊の写真」

 ジュンイチロウからの問いかけに、蘭二はそう返す。ついでに、こうも答える。これは自分が撮ったのだと。そして学校の先輩に手伝ってもらったとも。誰、なんて人? そう相手が訊ねる。赤江さんと彼は答える。

 赤江三千彦とは高校の先輩で、蘭二とは部活動を介して出会った。

 今年の春。蘭二が属するカメラ同好会は多数の新入生の参加により、写真部として校内で正式な部活動として認可された。それ自体は喜ばしいことだが人数が増えた分だけ、フィルム代や薬剤の購入費などの経費が重くのしかかる。しかし学校から配分された予算は、ろくな活動実績がないのを差し引いても、いかんせん少なかった。

 あたりまえのことだが学校の財布には限りがあり、また建物修繕費や備品の交換費用、電気代や水道代など優先されるべき項目は多くある。そのうち生徒たちが行う課外活動の占める割合は、まったくなくはないが薄い。しかも生徒会の活動費とひとまとめで渡されるから、実際の手取りはさらに少なくなる。

 制限のある予算のなかでも優先されるのは、基本的に野球部やテニス部など実績が見えやすい体育会系で、文科系の部活は後回しになりがちだ。このような状況下で充分な活動資金を確保するには、予算折衝会で生徒会と掛け合わなければならない。その連中うちの一人が赤江だった。

 どこか冷たさのある、澄んだ声をした男だった。また縁のないメガネや、三日目の月を思わせる、やや吊り上がり気味の目つきが、冷ややかな印象に深みを与えていた。一番目を惹くのが肌で、血が通っていないような白さなのだ。軽く横に撫でつけた黒檀に似た髪や、淡い唇の色合いが容貌の異質さをなおさら際立たせた。

 生徒会の会計を任されただけあって、並び立つ論敵のうち彼がもっとも手ごわかった。こちらの痛いところを的確に突っ込むうえに、包帯を巻くみたいに優しく説得に掛かってくるのだ。その言葉が聞く者を酔わせるような、不思議な魅力に満ちているのもまた難儀だった。

 そこを蘭二はどうにか食い下がる。他の部のように後援してくれるOBはいなかったし、校則上、家から金を引っ張ってくるわけにもいかなかったのも、彼の勢いを後押しした。結果、設定した目標にこそ届かなかったものの、おおむね満足のいく額の予算を勝ち取った。

 このときの様子が、お互いの記憶に焼きついたらしい。以降二人は顔見知りになり、校内で出会うと会釈するようになる。そこから言葉を交わす間柄になるまで、さほど時間はかからなかった。

「僕と一緒にいるのは、不愉快じゃないんですか。あれだけやりあったのに」

 いつか蘭二は、赤江にそう訊ねたことがある。予算の件を抜きにしても、当時の態度は生意気だったかもしれないと気がかりになったのだ。後から彼とのやり取りを振り返ると、発言が人格否定とも捉えられるのもなおさら蘭二の気を揉ませた。

 しかし彼の不安とは裏腹に別に、と相手は何でもない風に答える。ついで、こうもつけ足す。

「僕は世界中の子と友達になれる」

 先輩と後輩として当たり障りのない雑談をするうちに、お互いの家の別荘が近所にあるのが発覚する。赤江が述べた家屋の特徴は、蘭二にも覚えがあった。毎年彼が遊ぶ浜辺を望むように、裏山に張りついた建物だ。陽光を受けてほのかに輝きが宿る白い外壁と、鮮やかな青い屋根を持つ二階建ての一軒家。それが赤江家の別荘だった。

 ――……不思議なこともあるものだ。――――もしかしたら、すれ違ったことがあるかもしれないね。――……そう言い合ったあとに、赤江はさらにこう言い出す。

「そういえば僕のおじいさまのお友達に、小松さんという人がいたらしいんですね」小松は蘭二と同じ姓だ。もしかしたら自分たちと同じように親しい仲だったのだろうかと述べる彼に、蘭二はこのように答える。

「こっちはまったく聞いたことはないです。親父も何も言ってなかったし」
「ふうん。やっぱり昔のことなんて、君にはわからないか」
「でも別荘もなにもかも元々じいさんの持ち物だから、関係があるかもわかりませんね」「かもわからない、ね」

 そのような会話を経て、彼らはより親密になった。そのうちジュンイチロウと同じように、赤江にもフルートの心得があるの知った。

 彼の機嫌が良いときには練習を兼ねて、ときおり音楽室で腕前をみせてもらえるようになる。こういうとき彼はエルガーの『愛の挨拶』やビゼーの『アルルの女』など、どれも馴染みのある曲ばかりを吹き鳴らしてみせる。あきらかに、こちらに気を遣ってくれた選曲だった。

 きっと彼なら、蘭二の聞いたことのない音楽も知っているし演奏できただろう。でも、そうしなかった。そんな相手の思いやりが、彼には心苦しくも嬉しかった。浮かれた気持ちに任せて、蘭二は自分のために用意された音をうっとりと受け入れる。

 また奏者による音質の違いも、蘭二には興味深く感じられた。ジュンイチロウが繰り出す旋律は、どこか散りかけの山茶花を思わせる儚さを内包している。だが、こちらには消し切れなかった火のような強かさがあった。もしかしたら楽器が違うせいかもしれない。

 彼が使っているのはアルトフルートと呼ばれるもので、一般に耳にする機会が多いコンサートフルートよりも音が低いのだという。ジュンイチロウが常用しているのは後者の方だ。蘭二は納得する。楽器が違えば、音が変わるのも当然の話だ。

 しかし事の差異は、それだけでは説明しきれない気もした。その違和感の源を表せる語彙を、蘭二は持ちえなかったけれど。でも得体の知れない言葉の正体が、彼にはひどく気になった。

 小さな蟠りが積もり積もった、ある日。赤江が笛を操る手を休めていたとき。彼はジュンイチロウのことを打ち明ける。

 ジュンイチロウ……絢一郎あるいはアーヤは蘭二のすぐ上のきょうだいで、本来ならば赤江と同級生になる。『本来』というのは、病弱のために学校には通っていないからだ。小学校にも、中学校にも。

 その代わりに、お抱えの家庭教師たちから日毎に五教科の指導を受けている。それ以外の時間は蘭二とポーカーに興じたり、庭で木登りをしたりする。そういう毎日を、幼いころから過ごしていた。日が昇ってから暮れるまで、ずっと家の中で。

 我が子に出不精を強いているのを、両親たちはいたく気にしているようだ。古今東西世界各国の絵描きの画集や、世の中のあらゆる場所や人々を収めた写真集などを定期的にジュンイチロウに買い与えている。習い事も家内で収まるものなら、いろいろやらせてみせている。そのうちの一つにフルートがあった。

 これが本人の性質に上手くはまり込んだらしい。隙があれば教則本どおりに演奏したり、あるいは即興でメロディーを奏でたりしている。

 そのときの歌っているみたいは音色が蘭二は好きだった。不透明な、一枚のガラスを通り抜けてきたような音色が好きだった。少しだけ斜めに傾けた首、伏し目がちになった目。練習を重ねて次第に滑らかになっていく指運びや、楽譜を読み込むときのジュンイチロウの真剣な表情が好きだった。もっともこれらがすべて窮屈な暮らしによって、もたらされたものなのは理解してはいたけれど。

 このような風変わりな生活の中で育ったからか。ジュンイチロウは不思議な目をしている。真夜中の森を歩く動物を思わせる密やかで、でも卑屈ではない目だ。そしてそんな眼差しで、いつも自分の周囲を眺めまわす。すると、少しだけあたりの風景が変わるのだ。

 どこが、というのは具体的にはわからない。だが、確かに変化した感覚だけはある。このようなことがジュンイチロウと一緒にいると度々あった。赤江には告げはしなかったが。

 しかし、たとえある程度の事実を省いたとしても、蘭二のきょうだいに奇妙なところがあるのには違いはない。彼はジュンイチロウについて、強く興味惹かれたようだった。

「少し、かわいそうな気がしますね」
「かわいそう?」
「だって、ずっと家の中にいるんでしょう。晴れの日も、雨の日も。魚が降ろうが、花でも降ろうが」

 言い切られた後、蘭二はジュンイチロウの姿を思い返す。小さい頃から、この日の朝に至るまでを順繰りに。このとき彼の脳裏に過るジュンイチロウの顔つきは、特別楽し気でもなければ、さして退屈もしていないように見えた。それが生来の暮らしに馴染みきったせいなのか、あくまでも己の主観に過ぎないのかは判断がつかなかったけれど。でもどちらにせよ『可哀そう』という表現は、いまひとつ噛み合わない。そんな様子だった。

 ひたすら逡巡している蘭二に対し、赤江が重ねてこう問いかけてくる。君が写真を撮るのはその人のため?

「君は、その人の目になりたいんだ。違うか」

 投げかけられた問いに蘭二は答えない。ずっと口を噤んでいる。相手の言ったことが、当らずといえども遠からずという風だったから。

 始まりは確かに赤江の述べた通りだ。初めのうちは外出が制限されているジュンイチロウのために、通学路や近所の風景を撮って回っていた。父親のカメラを借りて、街から街へ。あちらこちらへ。そうして現像した写真とともに、本人に外の様子を話して聞かせるのだ。今でこそ自力で同好会を作るまでにのめり込んでいるけれど、カメラに手を出した初めのうちはそれが一番の楽しみだった。でも、やがて別のものが入り込んでくる。

 蘭二が撮影してきた写真を、ジュンイチロウはあの神秘的な両目で眺めてくれた。まるで鑑定士が宝石についた傷を探し出そうとするみたいに、隅から隅まで、じっくりとしっかりと。そのときの眼差しや写真を上下左右に弄る仕草を見ていると、自分の内側のある種の情感を煽られるのを、いつからか蘭二は実感し始めた。それは昂る寸前とよく似た若干の寒気と、わずかな痺れを伴った快さだった。

 ついで、こんな空想の虜にもなる。自分もあんな眼で世界をまじまじ見つめることができたなら、それは一体どのように映るのだろう?

 ジュンイチロウが自分の作品を奇麗だとも、上手だとも褒めてくれるのはもちろん嬉しい。それは本当のことだ。だが、こういった後ろめたい楽しみも確実に存在した。しかし、さすがに直截に口にするには憚られた。本人は当然として、他人に対しても。

 僕も見てみたいな。彼が黙り込んだままでいると、突然、そう赤江が呟く。自分以外誰もいない部屋で呟くのに似た、どこか浮遊感のある一言だ。しかし彼が放つそういった言葉の裏側には、強い要求が存在するのを蘭二は知っていた。

 幽霊ね――。不意に。そんなジュンイチロウ……アーヤの声が、蘭二の耳に入ってきた。

「夏らしいだろ」
「夏らしいけどね」

 もっといっぱいあるけど、見たいか? 蘭二が問いを投げるが、ジュンイチロウは首を横に振る。もうお腹がいっぱいで、これ以上は何一つ食べられないというみたいに。それよりも、もっと興味が惹かれる事柄がある。

「他のも先輩と一緒に撮ったの?」

 こちらの問いかけに、そうだと彼ははっきりと頷く。さらにこうもつけ加える。

「仲直りさせたい」
「なに? なんて?」
「仲直りさせた後みたいな友達にさせたい」「そんな強引になるものだっけ、仲直りも友達も」
「みんなが仲直りした後みたいに、仲良くなってほしいだって。あらゆる時間の、あらゆる場所のみんなが。だから友達にさせるんだと」

 ジュンイチロウは何も言わなかった。寄せては砕けを繰り返す白波の音だけが、二人のあいだに響く。それは光の届かない海を思わせる、息遣いと運動性が潜んだ沈黙だった。そこには生き物の気配がある。

 静けさに包まれて、いささか経った後。ねえ、と彼は口火を切った。

「アーヤには友達が必要だよ」

 先輩も楽器をやってるから、もしかしたら本当に友達になれるかもしれない。そんな蘭二の言葉に、ジュンイチロウはぴくりと眉根をあげた。ついで何の楽器かと訊ねてみると、フルートだと返す刀で答えてくる。

「やっぱり出来過ぎた話だ。その先輩って、本当にいるの?」
「なにを……」
「もしかしたら、これと同じ幽霊だったりして」

 それなら初めから、どこにもいない人たちだ。唇を動かしながらジュンイチロウは、ちらりとテーブルに置いた写真を横目で見やる。蘭二もさりげなく相手の視線を追う。そうして再び、自分の作品を目の当たりにしたとき。彼はあっと声を上げかけた。

 写真は依然として、フルートを奏する赤江を映している。しかし、それ以外には“何も”ない。



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