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献呈の別れ 2‐2

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 もう少し休憩をとってから、今度は一緒に波打ち際で遊ぶ。そうして正午近くに別荘に帰る。玄関の敷居を跨ぐと迎えに出てきた母の暁世が、濡れネズミのジュンイチロウを見て眉をひそめた。シャツが若干透けていたのだ。もちろん上にタオルケットを羽織っている。けれど布の端かき合わせた合間から、わずかに肌の色が覗いていた。

「気をつけなさい。どこに人の目があるのかは、わからないんだから」

 交代で汚れた脚や身体を洗い、使用人の作ったお昼ご飯を摂った。冷たいトマトスープと、チーズと焼肉を挟んだクロックムッシュだ。サラダもついている。これらをすべて平らげると、各自自由行動となる。二人の午後はたいてい、昼寝か読書か宿題のうちのどれかをやっている。今日のジュンイチロウは、裏山にフルートの練習に行く。

 別荘の裏口を出てすぐに、山に続く道がある。そこを少し――中腹の半分くらいまで登り、横の小道に逸れると開けたところに出る。瑞々しく豊かな樹々と草々に満ちた場所で、音を出して迷惑をかけるような家や別荘は近くにない。木陰には疲れたら腰掛けるのにちょうど良い岩があるし、何より誰も来ない。楽器の練習をするには、まさにうってつけの場所だった

 この習慣はあらかじめ赤江三千彦に伝えてあった。そして裏口の扉が閉じられたあと。蘭二は電話に飛びつき、ジュンイチロウが山へ向かったことを彼に報せる。このような結託があろうとは、本人は知るよしもなかったが。

 いつもの場所に着くと、ジュンイチロウはおやっと眉を上げる。いつも椅子がわりに使う岩に、障子戸が立ててあった。市松模様の腰板が入った、両開きの障子戸だ。梢が落とす薄暗い陰の下でも真っ白な和紙は目に眩しく、近づくと木の匂いがした。もちろん、こんなのはありえない。だから消しておく。

 『消す』とはいっても取っ組み合いみたいな、痛いことや難しいことをする必要はない “間違い”を指摘してやればいい。 “間違い”は“間違ったもの”として扱われるのにとても弱いのだ。

「こんなところに戸なんてあるはずない」

 そう口にした次の瞬間、障子戸は岩の上から消えた。このようなことが、絢一郎(ジュンイチロウ)の周りでは、しばしば起こる。

 生来からの物覚えが良い性分なのか、ジュンイチロウは幼い頃から間違い探しが得意だった。家の内だろうが外だろうが、いろんな所でよく“間違い”を見つけた。

 “間違い”にも、いろいろ種類ある。たとえば津波みたいに廊下の奥から、こちらに迫ってくる暗闇。これはわかりやすい。あるいは自分の部屋でも外出先でも、その場にあったはずの物がなかったり、反対になかった物が増えていたりする。こっちは意外にわかりにくい。寄り集まった大小のモザイクタイルで構築されたウサギや、壁や鏡を泳ぐ出目金などが目の前に現れる。絶えず組み合わさり続けるタイルの動きや、うねるたびに白光りする銀色のうろこはとても美しい。けれど“間違い”は“間違い”だ。

 そういうことがジュンイチロウにはわかった。しかしその他には、誰も気がついていないようだった。正当な存在として空間に馴染もうとする性質なのか、人間にとって物事の真偽は極めて些末な事であるのか。あるいは、その両方なのかもしれない。このような状態が出来心を擽るのか、たいていの“間違い”は悪さをする。

 あるとき、こんなことがあった。家の物置を開くと、真夜中の海影が眼前に現れる。真夜中と判断したのは、新月の日みたいな真っ暗な空間だったからだ。そんな月のない――濃密な闇の中でさざめく波が、浜辺に打ち寄せては退いていく。そうして水が砕ける度に、ちらちらと外からの光を海面に照り返した。

 ジュンイチロウはたちまち潮騒の虜になって、一歩、前に踏み出す。刹那、つま先がぐっと下に落ちる。砂の感触がない、空虚な感覚に驚いて反射的に後退る。

 まさか。ジュンイチロウはその辺にあった小石を引っ掴み、ドアの向こうに落とす。しばらくして遠くの方で、こつんと小さな音が響く。何か、硬いものにぶつかる音が。どうやら外見よりも高低差があるらしい。“間違い”とは、このようなことをする。だから、見つけたらいつも片づけるようにしていた。誰かが怪我をしたら大変だ。

 元通りになった岩に肩にかけのケースカバーを置いて、中から楽器を取り出す。パーツを組み立てながらジョイントやキー、タンポなど各部の動作をチェックする。ロッドを使い、反射板の位置も確認する。全てのパーツに異常がないのを確かめ、キーに両手の指を添えた。

 しかし、すぐに奏で始めない。すべてのキーを封じ込めて、息を吹き込んで歌口を温める。ついで顎の角度を調整。そうして笛を支える指先や手のひら以外の身体の力を抜く。練習を始めるのは、すべての点検を終えてからだ。

 薄い銀の鈴を思わせる、澄んだ音が青々とした森林のなかに響き渡った。その音色はお風呂場のハミングのように、複数の音階のあいだを不規則にさまよっている。それから少しして一拍の休みを挟み、まもなく明確な旋律へと変化させる。バッハの『無伴奏フルートのためのパルディータ』だ。これは舞曲をモチーフにした音楽だから、浮足立った、はしゃいでいるような調子になる。本当に、正しい方法で演奏ができたなら。

 現実には躍ると表現するよりは、無暗に手足をじたばたとさせている風情だった。ときおり指がもつれて、音がつっかかる。テンポが指示よりも早くなったり、逆に遅くなったりする。こういうときは指を止めて、持ってきた教則本の楽譜や運指表を見直す。記されている音符を丹念に注意深く辿っていけば、つまずいた個所や原因は高確率でわかるのだ。このように技術を磨き上げ、整えていく試みがジュンイチロウは好きだった。

 演奏をしては資料と睨み合い、やり直しを繰り返す。幾度も、幾度も。そうするうちに旋律は次第に滑らかになっていく。曲がりなりにも音楽らしい体裁が整ってきた、あるとき。ジュンイチロウが奏でるのとは違う、別の音色が入り込む。

 その楽器が何なのか、ジュンイチロウにはわかる。フルートだ。しかし、こちらよりもいくぶんか音域が低い。おそらくこちらと種類が違う。アルトフルートだ。

 ジュンイチロウは指を止め、つと歌口から唇を離す。すると同じようにあちらの音色も止む。また演奏を再開すると、こちらを追いかけるように楽器が鳴った。

 ややあってから、ジュンイチロウは再び手を休める。ついで旋律が聞こえてきた方、怪しげな草むらをまっすぐに見据えた。目線だけで相手を殺すようなつもりで。実際、足元には投げるのに手ごろな石がいくつも転がっている。問題はどのタイミングで武器を手に取り、投擲するか――だが。また、確かめたいこともある

 機を伺いながら物陰を見据えていた、あるとき。ジュンイチロウは独り言を気取って、こう口にしてみる。

「おかしいな。ここには誰もいないはずなんだけど」

 まもなく草むらの陰で、誰かが強く咳き込んだ。ただの空咳ではない。粘着質で水っぽい音質だ。まるで息と一緒に、身体中の水分を吐き戻すみたいに。

 同時に生い茂った草々が、ひときわ大きく揺らぐ。ジュンイチロウは素早く身をかがめ、傍にあった石を掴む。握りしめたと同時に、草陰の奥から人影がふと覗く。

 それは自分と同じか、少し上くらいの年頃の青年だと思われた。でもすぐに陰に隠れてしまったので、正確な見目形は判然としない。しかしわ薄闇にふうっとわずかな間だけ浮かんだ、横顔の青白さは目蓋の裏に残っている。逞しく隆起した喉や、ストロベリージャムを貪ったあとのようにべっとりと赤い唇も。

 握りしめた石を、ジュンイチロウは振り構え、唇を開く。おまえは誰だ? そんな問いが、はっきりと声に変わる寸前。おーい、アーヤ。朗々とした声があたりに響く。ジュンイチロウは腕を下げ、背後を顧みる。すると自分のへ向かってくる蘭二の姿が目に入った。

 彼が地面を力強く踏みつけて、こちらに歩を進めるさなか。それとは別の足音が混じっているのを、ジュンイチロウは聞きとがめた。密やかで、明確な意思を持つ足音だ。

 どうしたのかと蘭二が訊ねてきたので、なんでもないとジュンイチロウは答える。でも、彼は納得していないらしい。今一つ合点がいかなそうに首を傾げて、何かを言いたげな面持ちでいる。これ以上相手に追及される前にジュンイチロウは、そちらこそどうしたのかと質問を返す。

「迎えに来たんだ」

 そう相手は答える。日の入りの時間までは間があるが、やはり山中のことだから心配だったのだとも。次の瞬間には、こうも口にする。戻るぞ。

 弟の一言に対して、ジュンイチロウはわずかに反感を覚える。練習量はまだまだ物足りなかったし、これまでの経験からして時間的にも余裕があるはずだ。しかしさきほどの出来事が頭にちらつき、もう少しだけとは言いかねた。

 楽器や資料を片付けたのちに、二人は山道を歩き出す。日の傾きとともに、濃密になっていく影のなか。眼下に積み木じみた街並みがうかがえる坂道を、探るような足取りで降りるさなか。蘭二は前を向いたまま、背後のジュンイチロウへと切り出す。そういえばさ、アーヤは発表会に出たことがないよな――。

「下手の横好きっていけない?」
「いけないとは言ってないさ。いつも家の庭や、こんな寂しいところで吹いてるから、ちょっともったいないなって。先生からも言われてるんだろう?」
「うん。でも人に楽しんでほしいとか、そういうことでしてるわけじゃないから」

 音楽担当の家庭教師が、ジュンイチロウを発表会に出したがっているのは蘭二も知っていた。ホールを借りた大がかりな会が嫌なら、自分の友人知人だけ集めた場を提供してもかまわないとも掛け合っているのも。この教師は人前で演奏することが音楽に対する礼儀だと信じていた。

 教師の再三にわたる要請に、ジュンイチロウは応じずにいた。自分は譜面上の記号が、美しい旋律に変わるだけで充分なのだと。それは照れ隠しや臆病さに由来する言い訳ではなく、紛うことなき真実だった。聴衆の存在は関係ない。ジュンイチロウが執心しているのは、楽譜に記された旋律を、どれだけ上手に端麗に己の手で再現できるのか……それだけなのだ。これは極めて純粋で、シンプルな信念だった。また純度が高く、単純な分だけ頑なでもあった。

 蘭二はさっきまで、あるいは今まで目にしてきたジュンイチロウの練習風景を思い返す。誰もいない部屋や人気のない物置、あるいは早朝の庭。そんな他人の来ない場所で、一人きりで練習を繰り返す姿。たどたどしさが消えて洗練されるまで、いつまでも反復される続けるメロディー。それは極めて閉鎖的な、けれども、とても惹きつけられる光景だった。

 一方で、疑問もある。演奏者以外に求められない、音の行きつく場所とは一体どこなのだろう。そしてジュンイチロウが奏でるそれは、本当に音楽といえるのだろうか。

「君のそのスタイルはとても、よく似合ってる。でも、ずっと一人で何でもできる顔をし続ける気なのか。庭に間借りする隠者みたいに。そんな風に死ぬまで過ごせると、本当に思ってるのか」

 ジュンイチロウ――アーヤは何も言わなかった。蘭二も口を噤んだままでいる。土を擦り、小石を蹴る足音だけが周囲に響く。

 現在の状態がいつまでも続かないのは、ジュンイチロウ自身もわかっている。その認識は両親も同じであるようだ。以前に両親が自分のことを話し合うのを立ち聞きしたことがある。自分たちが始めたこととはいえ、今さらどうしたものか。こうしているあいだにも、あの子の背丈も体つきもどんどん変わっていく、とうてい他人の目は誤魔化しきれない。そんな話を。

 時間切れが迫っていた。その事実をジュンイチロウも、蘭二も理解している。だから、彼は赤江という奴の話をしたのだろう。何か現状に変化をもたらさねばならないと。あるいはこれ以上、秘密を抱えきれないということなのかもしれない。とはいえ、話に乗るわけいかない。あの“間違い”に満ちた写真が無ければ、事は違っていたろうが。

 赤江とはどんな男なのか。と、ジュンイチロウは思いめぐらす。もしかしたら彼も、自分と同じような人間なのだろうか。でなければ、あんな写真を……本物の“間違い”を蘭二が撮るなど不可能だ。そんな力を蘭二は持っていないはずだし、仮にそうだとしても、彼の指や五感は“間違い”を捉えるためにあるのではない。

「会わないよ、なんとか先輩とは」

 出来るなら、そいつにはもう会うなと蘭二に言いたかった。同じ学校なら完璧に避けるのは難しかろうし、物言いが口うるさいはずなのも理解していた。かといって見過ごすわけにもいかず、どう切り出したものかとジュンイチロウは言いあぐねている。

 ときおり身近で発生している不可思議な事象について、蘭二は他の人たちと同じように一切悟りえなかった。また、現象の存在さえ彼は知らない。“間違い”のことは家族には共有せず、個人的な秘密にしていたからだ。これ以上の隠し事を、両親に……特に弟にけして背負わせまいとジュンイチロウは決めていた。

 詳しいからくりはとうてい理解できないが、奇妙な気配は蘭二も察知している。朝、例の写真を見せたとき――そしてさっき赤江と引き合わせようとしたとき、ジュンイチロウはあの目をした。同時におかしなことが起こる。写したものが消えたこと。赤江がいるはずの繁みから、何か、粘っこいもの……たとえば血のようなものを吐く音がしたこと。

 ジュンイチロウが不穏な動きを見せたので、とっさに前に出て、あの場から連れ出してしまった。だから赤江の正確な消息を、蘭二は知りえない。自分のそれに紛れて足音がしたから、おそらくは大丈夫だとは思う。だが、自分の別荘に撤退する途中で力尽きることも十分にあり得た。

 そして、それはジュンイチロウが害わせたせいだという直感が蘭二をことさら臆病にさせる。具体的な方法は彼にはわからなかったし、二人とも睨み合っていただけなのはこの目で見たから断言できる。だが、疑念は根を張ったみたいに強かった。

 アーヤは一体、あの人に何をしたのだろう?また、 どうして彼にあんなことをしたのだろう? そんな戸惑いや心細さがふと表れたらしい。気がつくと蘭二は歩調を緩めている。それから少しだけ顧みて、ジュンイチロウに手を伸ばす。

 ジュンイチロウも応える。石と握りしめたときとは違う、加減のきいた触れ方だ。人間の骨は思っているよりも脆く、崩れやすいのを知っていたのだ。そうして別荘の前に来るまで、お互いに手を離さなかった。



 あとはいつもどおりだった。何事もなかったみたいに二人は過ごす。決まった時間に食事を済ませ、おのおの好きなことをしてから歯を磨いて眠る。次の日もそう変わらない。身支度を整えて朝食を摂り、海に行って午前いっぱい泳ぐ。

 休憩のとき。さりげなく先輩の別荘に行ってみようと蘭二から誘われたが、ジュンイチロウは断る。あからさまに怪しかったし、純粋に気が向かなかった。

 昼食をとった後は、夕方まで自由行動だ。お父さんは堤防に釣りに、お母さんはお寺に須磨琴の演奏を聴きに行っている。ジュンイチロウといえば自分の部屋で、家庭教師から与えられた数学の課題をこなす。蘭二のことは知らない。食べ終わった後に、早々に部屋へ引きこもってしまったから。

 手を動かしているうちに、やがて今日の分の課題が済む。休憩がてら机の前でぼんやりしていると、次第に楽器に触りたい気分が湧いてくる。しかし昨日の今日で山に向かうのは、怖い。とはいえ一度燻り始めた火は、なかなか消えはしない。

 どうしようか、我慢しようか。でもなあ――。そんな風にうんうん唸るうちに、ぴんと思いつく。別の場所を探せばいい。

 あんなことで場所を変えなければならないのは業腹だが、習慣とマンネリは紙一重ともいうし、ちょうど良かったのかもしれない。もしいい感じの練習場が見つからなかったとしても、それはそれで諦めがつく。そう考えるうちに、ジュンイチロウの胸は段々高鳴ってきた。

 そうしてさっそく上着を羽織り、フルートのケースを肩にかけた刹那。一階で電話のベルがじりじりと鳴る。

 一度は、蘭二が取るだろうと放っておいた。だが、ベルはいつまでも鳴り止まない。どうやら彼もどこかに出かけているようだ。不承不承、ジュンイチロウは階段を降りていく。そのあいだにも、ベルの震えは途切れなかった。ようやく家内に静けさを取り戻したのは、受話器を取ったときだ。

 もしもし。ジュンイチロウは切り出す。途端、かさりと相手の側で何かが動く。衣擦れの音だと、ジュンイチロウは思う。まもなく電線の向こう側で、はっと相手が息を呑む。緊張。そう表現するよりも、準備と言い表すのが似つかわしい息遣いだった。次の瞬間、電話の主はこちらに向かって話し始める。小松さんですか――? 若い男の声だ。

「そうですが。何か?」
「私は裏の、赤江と申します」

 高台に佇む別荘ありさまが、ぱっとジュンイチロウの頭に浮かぶ。青い屋根の家で暮らす、赤江さん。弟の学校の先輩で、みんなと仲良くなりたい赤江さん。

「実は、そちらの蘭二くんをお預かりしていまして」

 蘭二を? ジュンイチロウが鏡の如く訊ね返す。ついで、はいと相手……赤江は応答した。まもなく事の次第が明かされる。二時間前に赤江家に彼が訪問したのだが、歓談に興じるうちに寝入ってしまったという。

「どうやら少しばかり、疲れさせてしまったようで。この様子だと狩りが遅くなるかもわかりませんから一応、ご連絡を差し上げた方がよろしいかと」
「はあ、それはお手数をおかけしまして」
「いえ、ご迷惑など。こちらとしては家がそのまま教室になったみたいで、むしろ楽しかったですよ。ご存じですか、彼がいると空気が華やぐんです」

 それきり会話は途切れる。相手は明らかに、こちらの返答を待ち受けていた。しかしジュンイチロウは何とも言えない。ただ、ひたすらに視線を泳がせる。そのうち、ふと階段の小窓に目が留まる。

 窓ガラスは光に満ちて、まだ明るい。だが、どうやら少しずつ陽が傾きつつあるらしい。小窓を差し込む日射しはわずかにくすみがあった。影が、確実に濃くなっている。

「寛大なお言葉に感謝しますが、弟は連れて帰ります。やはり長居になるのはよくないので」
「そうですか。では、お待ちしています」

 ジュンイチロウは受話器を電話に戻すと、すぐに家を出て、裏山の方に向かう。赤江の別荘は山の上にあるから、もちろん昇りになる。とはいえ坂道はなだらかな高配で、地面もコンクリートで整備されているからあまりキツさはない。これらの条件が助けになって、目的の場所には想定よりも早く着く。

 赤江さんの別荘は全体的に四角くて、住居というよりは、大きな箱のように映る。そして遠目で見るよりも、はるかに立派だった。青と白のシンプルな配色もそうだが、玄関扉を中心にしたシンメトリーの外観は端整だ。的確に計算された高さと長さ、左右平等に与えられた四枚ずつの窓。過不足も、寸分の狂いもない完璧な対称性だった。ジュンイチロウはそんな家の前に立つ。

 電子ブザーの代わりに獅子の頭を象ったノッカーが、屋根と同じ青色をした玄関扉に付属している。それをジュンイチロウがこんこん叩く。すぐに三分の一ほどドアが開き、合間からエプロンをかけた男の使用人が顔を出す。

 その男の様相を見て、ジュンイチロウは一瞬ぎょっとする。つうと吊り上がり気味の涼やかな目を、どこかで見た気がしたからだ。いつなのかは、思い出せなかったけれど。

 小松さんですね――そう相手から訊ねられて、ジュンイチロウは頷く。まもなく扉が全開し、家に招き入れられた。

 家内は黒いもやがかかったみたいに薄暗い。渋みのある床板が艶めく廊下の奥……玄関を開けた正面に、明り採りの小窓があることはある。だが(時間帯のせいもあるだろうけれど)こじんまりしたサイズのために、採光量が少ないようだ。

 玄関を入ってすぐの左手に部屋があって、そこが応接間と定められているようだ。黒革のカウチが二組、テーブル越しに向かい合わせで置いてある。靴からスリッパに履き替えたあとは、とりあえず、そこで待つよう使用人に言われた。ついで飲物を取ってくると告げて、相手は部屋から出ていく。正真正銘一人きりになってから、ジュンイチロウはあらためて室内を見回す。

 部屋のどこにも“間違い”や、おかしなところはない。でも、ひどく古びていた。脚に彫刻の入ったテーブルや、オーク材の重厚なキャビネット。鈴蘭の花に似た造形の電灯などの家具はひと昔、ふた昔、あるいはもっともっと昔に流行したデザインなのが見て取れた。たぶんこの別荘が竣工したときか、少し前くらいの。

 しかしこの有様は、『時が止まった』と表現するには似つかわしくない。使い込まれてはいるが、どれも丁寧に磨き上げられた感じがする。過去に存在したある時間を、懸命に再現し続けている風だった。

 そのために絶え間なく刻まれたであろう努力にジュンイチロウは感心する。こちらの別荘もなかなか古いし、年季の入った家具もある。もちろんそれらも大事に扱われている。だが、ここまで洗練されてはいなかった。

 カウチの皮の感触や刺しゅう入りの赤い絨毯の足触りを味わい、ラッパが生えた旧式のレコードプレイヤーや無線機じみた目盛りのラジオなどに見入っていたさなか。ノックの音が響いて、再び、誰かが応接間に入ってくる。

 さきほどの使用人かと思ったが、違う。今度は自分と同じ年くらいの青年だ。氷水の入ったウォーターピッチャーやグラス類を乗せた通い盆を携えて、敷居の向こうに立っている。

 涼やか、というよりも寒々しい印象の青年だった。生成色シャツもほのかに黄色味がかったズボンも、ほとんど白に近い色彩だったから。一番目を惹くのが肌で、まるで血が通っていないような白さなのだ。軽く横に撫でつけた黒檀に似た髪や、健康的な色づきの唇がなおさら澆薄さを際立たせ、また縁のないメガネも容貌の冷たさに深みを与えていた。ジュンイチロウには彼が誰だかわかる。写真の子だ。

 正面から相対する彼は、細い月を彷彿とさせる目つきをしている。こいつは何もかもが冴えざえとしているのだ――そう、青年と相対したジュンイチロウは考える。けして好意的な感想ではない。敵意。そんな言葉が今の感情に一番相応しかった。

 しかし睨み合っていたのは最初だけで、彼はジュンイチロウを認めるとすぐに口元が綻ぶ。手品師の手つきに似た、鮮やかな転換だ。そうして盆を持ったまま、青年がそう訊ねてくる。アーヤさん?

 初めのうち。相手が口走った内容を、ジュンイチロウは上手く受け止められなかった。青年が呼んだ名前は遠い国の、知らない人もののように聞こえたのだ。しかし頭で理解するよりも先に、首は勝手に縦に振れている。そうさせる力が、青年の声にはあった。

 この彼こそが赤江三千彦なのだった。

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