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マロンパイ

 家のどこかで鍵が開く音が響いて、痛みのある夢から目が覚めた。ソファでうとうとするのに、午後2時はちょうどいい時間だったのだ。まもなく廊下の方でぱたり、ぱたりとゆったりとした足音が起こる。どうやら彼が帰ってきたらしい。
 足音は次第に大きくなって、部屋の前で不意に止まる。音が鳴り止んでいささかの後に、まるで水の中を進んでいく魚みたいにリビングドアがゆっくりと開く。そして扉が完全に開き切ると、向こう側に立つ彼の姿が現れる。
 彼は左手にケーキ箱を提げていた。散歩のついでに頼んだ買い物は、夕飯に使う原子インクだけのはずなのだけれども。
「マロンパイだ」と、その場に立ち尽くしたまま彼は言う。
「マロンパイ?」
 相手から受けた言葉を、私は鏡のようにそのまま返してしまう。マロンパイという固有名詞が、私の耳にはまったくなじみがなかったせいだ。今まで生きてきた中でマロンタルトや、モンブランなどの名は幾度となく聞いたことがある。けれどもそんなお菓子があるとは数秒前まで知らなかった。

 もちろん世の中にはイチジクのパイやバナナパイなどがあるのだから、栗のパイが存在していても不思議ではない。しかしそのようものがあるだなんて、今までちっとも考えたこともなかったので少しだけ驚いてしまう。
「確かに製菓業界において、マロンパイはメジャーな存在であるとは言い難い。キーワード検索のヒット件数においてもマロンタルトや、モンブランに比べてはるかに後れを取っている。しかし、そのことがマロンパイ自体の名誉を傷つけることにはならない。本当にこのお菓子の尊厳が損なわれる瞬間はケーキ屋のチルドショーケースの片隅で、誰にも顧みられないまま消費期限を迎えて廃棄されるときだ」
 そして自分がこのパイの尊厳を守ったのだと彼は言う。そういうことにしておこうと私は思った。確かに未知の存在が、いきなり目の前に現れてびっくりした。けれどもどんなに疑問に思い、異議を唱えたとしても、マロンパイが目の前にあるという事実は厳然として変わりようはない。

 キッチンから食器や果物ナイフを持ってきて、私たちはパイを切る。パイが集合体から一つのピースに切り取られた瞬間、お菓子の断面からもったりとした甘い匂いが立ち上った。栗そのものと砂糖の混じった匂いだ。焼けたパイ生地の香りが、さらに栗の甘やかな匂いを際立たせている。10月だな、とそんな言葉が私の頭の中に浮かぶ。
 私たちは切ったパイを、それぞれのお皿に取り分ける。手のひら大ほどの10月だ。その目の前にある10月は三角形をしていて、私が想像していたよりもずいぶんと小さかった。

 パイをつついているあいだ、私と彼とのあいだには言葉はない。私たちの食卓はいつだって、とても静かだ。食べながら話すことが、彼も私も好きではなかった。なのでただパイ生地が割れる乾いた音と、フォークがお皿に擦れるかすかな音だけがダイニングに響いている。そのなか、私はテーブルの向こうにいる彼の様子を盗み見る。けして気取られることのないよう、慎重に。

 しかしそんな小細工をしなくても、お互いに視線が交わることはない。皿の上のマロンパイに意識を集中させているために、相手は伏し目がちになっているからだ。そのエメラルドがはめ込まれた両目の下で、長めのまつげが影を落としていた。その影やまつ毛、そして身綺麗に整えられた髪の暗い色合いが肌の白さを強調する。これら二つのコントラストが強いせいか、心なしか、彼の周りにはほのかに光が宿っているようにさえ思われた。まるで頭上に天使のわっかでもあるみたいに。
 
そんな彼を私はとても美しいと感じる。でも、この感覚が起こるのは実にあたりまえのことに過ぎない。彼はそのような印象を覚えるように容姿を設計され、製造されたバイオノイドなのだ。

 鉄の骨格に人工的な筋肉と疑似神経回路をまとわせて、外見を人間並みに整えたところで、既存のカテゴリー内ではやはりバイオノイドは機械に過ぎない。人造生命体やロボットが大衆に普及した現在でさえ、彼ら彼女らの食事摂取に抵抗を示す人たちは少なからず存在する。どれほどまでに人間に似ていようがしょせんは偽物に過ぎないのだし、機械の類には必要に応じて電池かガソリンか何かを与えていればいいのだとその人たちは考えているのだ。そして限りある貴重な資源が、計算装置たちの人間ごっこに無駄に費やされてしまうとも。

 しかし実際には経口摂取された食べ物は、火力発電の要領で活動エネルギーに変換されるので無駄にはならない。塵すら残らないくらいに徹底的に燃やされて、使いつぶされる。だから排泄の必要もない。とても合理的で清潔、そして美しさを兼ね揃えた生き物。それが彼を始めとした人造生命体や、ロボットなのだった。

 このような生き物はつい最近まで、地球上には存在しなかっただろう。そう考えてみると、なんだか不思議な感じがする。その感覚には高度な技術力に対する驚嘆と、ティースプーン一匙くらいのわずかな後ろめたさが含まれていた。おもに彼のような人間の役に立つ存在を、人間に似た姿で、かつ大多数の人間が好感を抱くような外見になるように作り上げたという事実に対しての罪悪感が。
 ある意味では私と彼らとでは、兄弟や姉妹と言ってもいいのかもしれない。事実、似たような標語やスローガンは各所で度々耳にする。人造生命体は私たち人間と同じように心を持った存在です。思いやりを持って、キョウダイのように仲良くしましょう――。そんなような文言を、お役所のロビーとか街中の掲示板とか、いろんな場所で。

 しかしよくよく考えてみると、これは人間が口にするのはとてもおこがましいというか、不自然な理屈なのではなかろうか。何かに対して手荒く扱わないのは、あたりまえのことではないのだろうか。自分たちが作ったものであるなら……家族同様であるならば、なおさら。
 そんな愚にもつかないことをつらつらと思い巡らせていると、ふいに記憶から呼び覚まされる事柄がある。

「実を言えばつい最近まで、栗とウニは生き別れのキョウダイなんだと思っていたんだ」
「キョウダイ?」彼は顔を上げて、こちらを見遣る。
「兄と弟とか、姉と妹とかそういう関係性のことかい?」
「うん。そういう意味」彼の言葉に私は頷く。
「一体何をどうしたら、そんな間違いを?」
「わからない。でも、いつのまにかそう思い込んでいた」
 少しだけ考えこむような表情をしたのちに、彼は手にしていたフォークと、小皿をテーブルの上に置く。それから、まじまじと私の顔を見つめる。エメラルドの瞳にちらちらと光が走った。そうして彼は私に向かってこう訊ねてくる。
「ちょっと、その話をくわしく聞かせてくれないかな」

 話はこうだ。自分たちが生きている場所とは別の時空間に、栗とウニを象徴する根源的な存在がいる。人間の両目や縮尺では計り知れないほどに巨大な存在だ。そこから涙のように(たぶん、あくびでもしたのだろう)剥がれ落ちた小さな欠片が、ときおり何かの間違いで地上に落ちてくる。その落下地点が仮に陸であるのならば根源的存在は栗に、海ならばウニになってしまう。そんな仕組みがこの世界にはあるのだ、とかつての私は信じ込んでいたのだった。

「栗はウニのことを知らないし、ウニの方も栗などというものがこの世界に存在しているのを知らない。ただそれぞれ木の上で風に吹かれていたり、海の底で生きていたりする。もともとは同じものだったはずなのに。なんだか物悲しいと思わないか?」
「それは君の感傷に過ぎない。ウニと栗は決定的に別々の存在だ」
 そう彼は言う。
「確かに生命誕生までさかのぼるのなら、君の考えはあながち間違いではないだろう。けれども栗には栗の、ウニにはウニの生き方やふさわしい居場所があるという事実には揺るぎはないんだ。もしお互いに住む場所を交換したら、どちらもすぐに死んでしまうだろう。君が口にしていることはそれくらいの致命的な間違いだ」
「そこまで言われるほどの間違いかな」
「もちろん目の前の物事に対して君が抱いた感情は君だけのものだから、大事にした方がいい。いや、そうするべきだ。でも、それはそれとして間違いにはきちんと対応しなければいけない」
「不安なの? 栗とウニを同一視する人間が」私は訊ねる。
「違う。僕は君に正しい認識を持ってほしいんだ。間違ったことしか知らなかったせいで何でもないことで苦しんだり、嫌な思いをしたりすることだってあるんだ。そして僕は君に厄介で、面倒な気分になってもらいたくはない。ただ、それだけなんだ」

 そう、とだけ私は短く答える。右手に握った柄に力をかけると、フォークがパイの中にゆっくりと食い込んでいく。フォークはおおむねフィリングの中を順調に進んでいったが、最後にクレームダモンドの抵抗を受ける。それでもずっと食器を押し続けていると、やがてパイの底は完全に割れてしまう。お菓子を突き破った次の刹那。銀色をした爪の先は皿とぶつかり、かちんと小さく硬い音を立てた。

 彼は私に正しいことを知ってほしいという。要求が善意に由来しているのは理解できた。私が無知によって誰かに対して間違いを犯さないように、私自身が危険な目に遭わないように教えてくれているのだ。このことは、とてもありがたいことに違いなかった。本当に。
 でも感謝の念がある一方で、同時に彼にもこちらのことをわかってほしいとも考えている。パズルのピースがぴったりはまるみたいに。おそらくその熱意だけは、彼には負けないだろう。けれど、それがどだい無理な話だというのは直感的にわかっていた。彼と私はまるきり別の存在で、思想はもちろん立ち位置や課せられていた役割も何から何まで違うのだ。立場が異なるのなら、物事において譲れないポイントも異なってくる。そして栗とウニの違いが彼にとって譲歩ができない事柄だというのは、ここ1年のうちで充分に承知していた。
 ならば、私はこの気持ちを一体どこにやればいいのだろう?

「でも、やっぱり悲しいな」
「そう」

 彼はそれ以上、何も言わない。私も口を噤む。彼に伝えるべき、あるいは彼を説き伏せられそう言葉がまるで思いつかなかったからだ。それからの私たちは、ただひたすらパイを食べ続けた。一切声を出すことなく、空っぽの収納庫みたいに静かに。もはやこの世界に栗とウニが存在し、目の前にマロンパイがあるという事実だけでたくさんだった。

(2020.9.28)

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