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献呈の別れ 4/終

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 宵の口がもう間近なったころ、海側の別荘では騒ぎになっている。家主である小松夫妻の子どもたちが、どこかへ出かけたまま帰ってこないのだ。これが事件事故なのか、あるいは幼さに任せた冒険のためなのか判然としなかった。

 小松守安は使用人を下がらせて、夕暮れのバルコニーに妻の暁世を伴って出た。昂った神経を落ち着かせたかったのだ。また吹きすさぶ潮風が自分たちのみっともない、浅ましい部分を隠してくれると彼と彼女は信じていた。

 夕焼けが赤く滲む水平線と、紺色の空を映しながらうねる海を二人は眺める。そうしてこれからなにをすべきなのか、また、どうしてこんなことになったのかを考える。夫妻にとっては文字通り、珠のような子どもたちだった。特に上の方は間違いのないように、自分たちの手元で守ってきた。性別を偽り、死産したものとして隠し通してまで。

 ふと飛び交う鳥の声や寄せては返す潮騒に紛れて、金属質な音が聞こえてきた。笛の、フルートの音色だ。二人してその源を辿っていくと、ある瞬間に、守安の隣でひゅっと妻が息を呑む。裏山にある邸の窓に、淡黄色の光が灯っている。赤江家の別荘だ。両家はもともと刎頸(ふんけい)の交わりの間柄だったが、この二十年近くのあいだは没交渉となっている。

 今、一家がいる別荘は、守安が先代から譲り受けた。これに限らず彼は富や権力などを父親から受け継いだものだ。しかし、遺産のすべてが素晴らしい物ばかりではない。医療費や賠償金の支払いや借金の返済など、面倒な約束事も含まれる。その中の一つに、赤江に関する事柄があった。

 小松家は今でこそ世俗にまみれているが、もともとは中世の下級神職から発する家柄だ。当時の小松家は現代における警備員の役割を担っており、神社を守るために薙刀を見せびらかして歩いていたそうだ。実際に、白刃を閃かせもしただろう。その時分に仕えていた主人が、大氏神の社家である赤江家になる。

 この主従関係がいつから始まったのかは、今となっては知りようがない。ただ永い時間経過とともに、二家が縁深くなっていたのは事実だ。そのあいだに小松家の子どもが、奥の方に召し上げられることも度々あった。そういう約束が交わされていた。赤江の事情に合わせて、子どもを青田買いさせる約束が。

 親として勝手が過ぎたのだ――。そう守安は思う。絢もちろんだが、蘭二の方も(幼いながらも)世の中を知っているだけに秘密を堅く守ることは窮屈だったに違いない。ましてや家の中では縦横に動き回る姉を、死者として扱わなければならないのは凄まじい抑圧だったろう。その鬱憤がいずれ、どこかで爆発してもおかしくないのは、たやすく想像がつく。

 しかし一方では、自分たちの決断に間違いはないという確信に揺らがない。それは隣にいる彼の妻も同じだった。

 出来るなら、何の憚りなくあの子を育ててやりたかった――。彼女がそう思わなかった日は、娘を生んでから一日としてない。しかし骨身に沁みるほどの痛みを伴って感じられたのは、今日が初めてだった。もっと娘を(ついでに息子も)伸びやかに生かすための、上手な方法を紡ぎ出せなかったのが、今さらながら口惜しくなる。その深刻な悔しさがもとからあった赤江――あるいは小松の家風に対する反感をさらに強めた。

 自分で交わしていない契約で、子どもを取り上げられるのはおかしい。それは現代に生きる人間として至極、まっとうな反感だ。だが異議を唱えるために採った手段が、今の彼と彼女の足を引っ張った。蘭二はともかくとして、最初からこの世に存在していない者を、いなくなったとは訴えられない。また影のごとく娘を育てた後ろめたさが、よけいに二人の腰と口を重たくさせた。

 そうこうしているあいだにも、時刻は淡々と過ぎていく。すっかり陽が沈み切って、空の色が夜のそれに変わったころ。窓の向こう――建物の奥で、どこかの扉が開いて閉じた。その場所がどこなのか、誰が開けたのかも彼らにはすぐに見当がつく。二人が急いで玄関に向かうと、蘭二が三和土に立ちすくんでいる。

 息子の佇まいは、まさしく棒のようだった。呆然としたまま、まったく口を利かない。揺さぶられても、ひたすら身を任せている。そうして肩をぐらつかせるたびに、むっとした香りを相手の鼻先に漂わせた。おしろいの匂いだと、暁世にはすぐにわかった。

 蘭二は黙りこくったまま、携えた手紙を両親に差し出す。現代においてはだいぶ古風な折紙だ。おそらく相手に直接持たされたのだろう。面には小松様と宛名があるだけで、消印はない。裏返してみると送り主は赤江とある。

 守安は息子から文書を奪いとり、封を開く。三つ折りになった紙を広げ、素早く目を通していく。そしてすっかり全てを読み通してしまうと、次の瞬間に妻のもとに紙を突き出して渡す。

 彼女も夫と同じように文面を追う。その視線の動きは、伴侶よりもいくらか鈍かった。文章がおしまいに行くにつれて彼女の目線の流れはより鈍さを増し、どんどん遅くなっていく。

 けれども、ゆったりとしているだけ書かれた内容を深く読み取ったようだ。全文を読み切った途端、彼女は堰を切ったみたいにどっと泣き伏す。まさに家全体を震わせるがごとき号泣だった。その激しい歔欷のさなか。今にも息が止まりそうな、途切れがちな調子で彼女は話し始める。

「あの娘を帰してもらえたときには、褒めてあげませんか。よく帰ってきたと。ね、そうしましょうよ」

 伴侶の言葉に守安は逡巡する。少なくとも、本人にとってみればそうしているつもりだった。なのに、それがいいと彼は妻に返す刀で応えている。強固な義務感に由来する、やむにやまれぬ衝動だった。今、こう振る舞わなければ己の人生がすべて無意味になるという風な。また同時に、非常な悲しみに裏打ちされた行いでもあった。まもなく彼の喉の奥から熱いものが込み上げてきた。

 すぐ傍で繰り広げられる光景に、息子は虚ろな眼差しを送っていた。しかしある瞬間に、ふと視線を外す。ついで静かに身を翻し、玄関のドアを開く。眼前にぽっかりとした暗い空間が広がると同時に、追駆する二つのフルートの旋律が、両親のすすり泣きのなかに紛れ込む。そのいつまでも絶えない笛の音を蘭二はじっと聞き入りっている。

 そうして耳を澄ませながら明日、また、あの人のところに行かなきゃと彼は思った。

2022.9
ヘッダー:Ani Adigyozalyan@Unsplash

第1話

→2022年

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