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影響を受けるということ

世の中には色んな人がいるけどみんなと仲良くしようとして、尊敬できないような人とも連んだり視界に入れることを許していると何が起こるかというと、

たとえば人間だからふと魔が刺す時ってあると思うけど、そういう時に脳裏に浮かぶのは尊敬できる行いよりもクズな行いのほうだったりするんじゃないかな。

魔が差すというのは、とにかくもう何もかも上手くいかず、ツイてないとき。
会社をクビになったとか恋人と別れたとか友達と絶縁したとか、そういう大きなことから
連勤で疲れてて頭も腰も脚もなにもかも痛いとか寝不足だとか日常にありふれたことなどがそれぞれ一気に重なって、とにかく心に余裕が無くなるようなとき。

思考力とか判断力とかが落ちてそんな時に買い物に出かけたらやたら赤信号に捕まるとか、せっかく買いに来たのにいつものコーヒーが売り切れてるとか、渋滞にハマるとか物をなくすとか、トイレットペーパーきれたとかなんでも。そんなのは普段であれば些細なことだけど。
心の許容量のうつわがすでにいっぱいになってるところに1滴でも水が落ちると溢れてしまうみたいに、最後の1滴は、もしかしたら取るに足らない小さなことかもしれないんだけれど
それまでに、すでにうつわが一杯になっていたせいでたった1滴が引き金になってヤケを起こして自棄になる。

自棄、は自分を棄てると書く
自分の未来に対する期待を放棄して、無計画で無鉄砲な行動をとること。
もうどうでもいいと思ったら、酒もタバコもやるしいい加減な態度で人に絡んだり喧嘩を売ったりするようになるかもしれない。
秩序と優しさと思いやりのあるような行動とは真逆のものに走るのがこういう時。でもこれは別に条件さえ揃えば、どんな人間にも起こりうることで。普段はそんな事しないのに、魔が差して、衝動的な行動に走るというもの。そういう時に、想起されるのは悪い方の行いのほうなので

冒頭に戻ると、普段からこんな不正を働いてたりこんなあくどいことしたりしてる人がいるんだ
というのを見てると下の意味で価値観が更新されることがある。そういうのが、想起されやすくなるんじゃないかってこと。

ゲーテが失恋をして自殺しようとしたみたいに
そしてそれを題材として、実際に死んでしまう物語を書いて、それに影響され、実際に命をたつひとがわらわらと続出して「ウェルテル効果」と名前がつくほどまでになったように。
もし、冷静沈着で滅多なことでは自棄にはならず、立ち止まれるような人と極力付き合うようにして、その人をロールモデルにしていたら?あの人ならそんなことはしないだろう。そう思い直せたかもしれないし自棄になる前に立ち止まれたかもしれない。
失恋なんてのは、よくあることだと。
ごく普通の、ありふれたことなんだ。特別なことでもなんでもないんだと。それでもまた新しい出会いはあるし、もしかしたらもっといい人と巡り会うために上手くいかなかっただけかもとか
まあ色々考えることは出来る。
上手くいかなかったという事実は1つでもそれをどう解釈して、どう次に繋げるかは自分次第だから。そんなふうに思えたら、耐えれたりするんじゃないかなっていう。

だから、判断力や思考力がにぶくなって魔が差した時の対応にこそ、実は普段から見てるものや、認識してることが反映されやすくなるんじゃないかということを考えていた。
自分が思っているよりも、自分が視界に入れるもの、見たり聞いたりすることに人は影響されている。
自然なことといえばそうだけど、だとしたら、
よりシビアに何を見て何は見ないようにするのか
ちゃんと選ぶようにしたほうがいい。
まあ、色んなものが勝手に視界に入ってくるので
難しくはあるけれど...

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