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私と美術館

何をするにも、「うってつけの」日があるのだろうと思う。偶然に偶然が重なった出来事だとしても、振り返ってみると、まるで初めからそうと決まっていたかのような日が。これは「相応しい」というとどこか違って、「とびきりの」というと近い。誰かはこれに、カンガルー日和と名付けた。桜舞う、4月のある晴れた日の日記。

仕事の日用に設定したアラームを解除し忘れ、朝、いつもと違う家で目が覚める。いつもだったらそのまま夢の中へ戻るところを、折角ここまで来たのだからとその日のプランを考えはじめる。
部屋に入り込むぽかぽかとあたたかい日の光に、相応しい服がほしくなる。マップで衣服店を探していると、1年ほど前からずっと「噂では聞いていた」美術館とそう遠くない距離にいることを思い出す。洋服をとるか、美術館をとるか、どっちも行くか、それとも何もせず帰るか。

朝のうちにさよならするはずだった家主と、それぞれの1日の予定を話しながら、上記の話をすると、「美術館、いいですね!」となり、パタパタと予定が決まった、朝。

コンビニでおにぎりをひとつだけ買って電車に乗り、初めて聞く駅名たちにいろんなことを想像しながら、たどり着いた、美術館。
思えば、絵画を中心に展示をする美術館に事前知識がほとんどない状態で新しい美術館に行くのは、とても久しぶりだった。
愛着をもっている画家の作品があるというのは知っていたが、いつも見ている彼の作品の解釈とは違う展示のされ方で、彼の新たな側面を見ることができた気がして心が躍る。私の知っている彼の作品が描かれた年を思い浮かべながら、全ての作品を見てしまう。彼があの絵を描いた年に、この画家はこの絵を描いたのか、そのときの世界の情勢は、などと。作品に描かれていない部分に想いを馳せてしまうようになる。
何を伝えたくて、あるいは、どのような状況下で、この絵を描いたのだろうかと想像する。
最初に訪れた部屋のなかで、一番小さいサイズであった作品は、10年かけて絵が描けていた。その間、彼にはどのような変化があったのだろうか。
この絵の額縁は、誰が選んでいれたのだろうか、なぜこの額縁なのだろうか。
この部屋の作品の並び方にはどのような意図があるのだろうか。
1部屋目と2部屋目の違いはなんだろう。なぜ…
いくつか、気になる作家の名前を、手帳にメモしながら、足を進める。
美術史はどちらかというと苦手で、自分からすすんで学ぼうと思ったことはほとんどなかったけれど、作品を見ていると、もっと知りたくなってくる。
まだまだキャプションを頼りに、何歳まで生きた人が何歳の頃に描いた絵で、そのころはどんな年だったのかを想像する。インプット中心の鑑賞。自分を落とし込むには、まだ回数を重ねないとなと感じた時間でもあった。次は音声ガイドに頼ろうか、その次は全てを忘れて対峙しようか。
その鑑賞に耐えうる美術館か、が、空間を好きになる基準なのかもしれないと、一目惚れした空間たちを思い出してみる。

いままでと違う美術館の歩き方をいつの間にかしてしまうようになった自分を振り返りながら、
あるひとつのものさしができることにより、
これまで見えていなかった世界が広がると同時に
まっすぐの世界以外を描くことが難しくなるような気がして、こわくなる。
思い込みから脱して、次なる思い込みに堕ちてしまっているような感覚。

1年後にはまた、変わってしまっているのだろうか。
数年後に変わらない場所に変わってしまった自分を落とし込む旅に出る、ために、いまはまだ準備の途中。ものさしづくり。

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