交換様式Dの入り口としてのベーシックインカム~『力と交換様式』書評➀
だが、そんな思いに至った読者はほとんどいないだろう。柄谷自身も本書で1度ベーシックインカムに触れているが、社会主義革命を掲げたロシア革命の失敗を例に出して取り合っていない。
『力と交換様式』のベースには柄谷哲学の中枢にある“資本=ネーション=国家”という世界観があり、柄谷は交換様式Dによってこの歴史的な悪循環を克服できると説く。
僕にとってそのDの入口はBIである。アメリカや北欧の社会実験の成功から、全世界にユニバーサル・ベーシックインカムが広まれば、資本=ネーション=国家はいずれ消え去るだろう。書評と重ねて持論を展開したい。
1:マスク忖度が示す庶民が作り上げた国家
まずは大いに賛同した『力と交換様式』のベーシックな世界観について。
大体、本書にはそういった指摘がある。国家権力に関すれば、安倍政権が顕在化させた官僚・マスコミの忖度や、アフターコロナ時代の「マスク忖度」などにも見て取れるものだ。
2023年、日本では、WHOがコロナ解除宣言し、病院がコロナをインフルエンザと同じ5類扱いにし、さらには5月の猛暑日が始まっても、多くの日本人は未だにマスク習慣を止めない。
多くの人々は国から圧力もかけられていないのに、またはそんな立場にさえないのに自発的に「マスク忖度」を続けた。しかも多くはマスク着用がコロナ感染をほぼ防げないことを知りながら続けているのだ。
こうした例は柄谷が本書で明かしたよう、国家権力とは庶民が自発的に望んで作ったことを表す事例になる。『生権力』という内なる監視者を見出したフーコーもまた、根本的には権力が下から来るものだと見ている。
後の資本主義やネーションにも同じことが言える。マスク忖度のような自己欺まんもふくむ庶民の同意があるからこそ自発性が生まれ、人は喜んで資本=ネーション=国家というアリ地獄に落ちようとする。
ただし国家権力が上から作られたことも確かなことだ。
それは支配層によって下を従わせるための暴力装置として作られた。富を独占しようとする精神病者たちが、そのソシオパス的病理をパンデミックのように広め宗教や政財界ができあがる。彼らは世襲の元で内々の近親交配を続け、その病をさらに悪化させる。
僕はこのように現代社会の荒廃の元凶に、ソシオパスの近親交配による長期的な世襲劣化を見ている。
最近、TV放映された映画『ルパンVS複製人間』も偶然、ほぼこの観点から歴史の闇を暴いているのが見て取れた。
つまり国家権力は上と下の両方から作られたと言える。
だが後述するよう、僕は資本に仕える国家の圧力、そして圧力の余韻こそが、国民を従わせているものの正体だと捉えている。
2:資本=ネーション=国家の本質にある自己欺まん
僕は資本=ネーション=国家の元凶に自己欺まんを見る。その自己欺まんの元には庶民の臆病なプライドがあるのだが、詳しくは後述する。
自己欺まんとは、作家オーウェルが名作『1984』で用いた二重思考とも同じ。2つのことが矛盾すると知りながらも受け入れる病的な心理のことだ。
例えば国家は国民に戦争や犯罪からの保護を与える代わりに税金を徴収しそれを再分配する。柄谷はこれを交換様式Bと呼ぶ。
だが、歴史を通じてほとんどの場合、戦争とは国家のごう慢が引き起こす外交上の失敗によるもので、国民の多くはそれに巻き込まれて多大な犠牲を払っている。犯罪も似たようなものだ。
問題は多くの国民もそれを知りながら受け入れていること。それが自己欺まん・二重思考の闇である。
友愛の共同体・ネーションも同様。柄谷は本書でネーションを国家(交換様式B)と資本(交換様式C)の抑圧によって復活した友愛(交換様式A)と見て、BとCを支える意味で交換様式Dの低次元の回復とみなす。
僕もその通りだと思う。
ネーション・ナショナリズムは1つの友愛に満ちた国民意識を持つことで、国家と資本の巨悪を隠し、現状維持を図るものだ。
民主主義国家のネーションは基本的人権の尊重など憲法に明文化されているが、それも幻想に近い。
最近日本ではジャニーズ事務所の創始者による少年への性加害スキャンダルが取りざたされているが、どの民主国家でもセクハラなどの人権侵害が実質的に横行している。
この自己欺まんに気づくことが、資本=ネーション=国家の克服にもつながる。なぜ。この自己欺まんが起こるのかについては後述する。
パート2につづく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?