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引っ越しがただただ不安な件について

noteのフォロワーが増えるたび、また、意識を高揚させるような記事を読むたび、かっこつけたがる自分が出てくる。
こんなことをnoteに書くの末代までの恥だ、と思わずためらいがちになる。

いかんいかん、決めただろう。
もうかっこつけるのはやめようって。
いつまでも上ばかり見上げて、見上げるだけで終わるのはやめようって。

SNSやネットにあがる情報たちは、その人の良い面を顕著に映し出している、とは分かっている。
それでも、そういう情報ばかりに触れていると、無意識のうちに自分と比べてしまう。自らの怠惰な人生に、嫌気が差してくる。



私が暮らした最大級の都会は、仙台だ。
そして新卒で気仙沼に移住した身からしたら、大都会は正直めちゃくちゃ恐ろしいところだ。
慣れ親しんだ気仙沼からの引っ越し。
不安じゃないと言ったら真っ赤な嘘になる。

逆に、何も情報がない土地なら、こんな不安には駆られていないような気がする。
しかし、もう私は仕入れてしまっている。
大都会で生きている人たちの情報を。
その生活や仕事の様を。
今さらSNSを全て遮断したところで、都会に対するイメージは変わらないだろう。
良い面だけを見せられているのは分かっている、分かっているのだが、目に入ってくるものがすべてだと、思い込んでしまっている。

私の頭の中では、大都会、特に東京はバリバリに働く背筋ピンのキャリアウーマンしか生き残れない街になっている。
朝6時に起床し、カーテンを開けて朝陽を浴び、プロテイン入りのスムージーを飲む。出勤途中にあるカフェに立ち寄り、資格の勉強を1時間ほどこなし、業務開始時刻の30分前には出勤。部署の全員に快活な挨拶を交わし、業務の進捗を確認、素早く次の指示をし、家から持って来たノンカフェインのコーヒーを口にする。そんなバリキャリウーマンが溢れかえっている街。

ここまで自分で妄想しておいて言うのもなんだが、こんな人ばかりいるはずが流石にないとは分かっている。
偏見がすごすぎて大炎上しそうな内容である。
もはやこの妄想も、多様化が凄まじい速度で進む昨今では、色々と時代遅れだろう。
それでも、一度定着してしまったイメージはなかなか拭い去ることはできない。


立ち返って、何が不安なのか、考えてみる。
バリバリキャリアウーマンで溢れかえった(と思い込んでいる)大都会の、何が不安なのか。

恐らく、一つの生存本能なのだろうなと思う。
色んな生き方が生まれているこのご時世においても、私はまだ世の中はシンプルな「弱肉強食」だと思っている節がある。
弱い者は切り捨てられる世の中で、私は弱者だ。と思っている。
バリバリキャリアウーマンは私の中で圧倒的強者のイメージとしてあるのかもしれない。

私は、幼い頃から小さなことでも責められてしまうとすぐに泣く子供だった。
今はかなりましにはなったが、それは責められる事態を回避する能力がある程度ついただけで、責められるとすぐに泣いてしまう性質自体は変わっていない。お恥ずかしい限りである。


私の中のバリバリキャリアウーマンは、決して人前で泣かない。
何を言われても泣かずに凛として立ち、冷静に話をする。
そういう人が、私の中では「強い人間」のイメージなのだと思う。
そして、そういう人間だけが、社会で生き残っているのだ、と思い込んでいる。
歪んだ認知である、ということのは、百も承知なのだが。

つまり、社会の中で生き残れないのが怖いのだ。
そして、生き残れない自分の弱さを改めて見つめ直すのが、怖いのだ。
それが私の不安のひとつの正体であるような気がする。


冷静に考えれば、縁もゆかりもなかった気仙沼という地に単身で乗り込み、8年仕事をしながら暮らし、それなりに多くの人との繋がりを持てている時点で、それほど自分を弱者だとみなす必要はないような気もするのだが、それでも不安は不安なのだ。
この身を寄せた気仙沼という地が偶然にも私に合っていただけで、この地でぐんと成長したように見えたのはまやかしで、他の土地に住んだら子供の頃の弱い私が飛び出してくるのではないか、と。
そして、その弱さは社会的に受け入れられないものなのではないか、と。

バリバリキャリアウーマンのような「強さ」にずっと憧れてきた。
お前は弱いな、と言われ続けてきたから、強くなれば受け入れてもらえるんじゃないか、と、そう思って必死に強くなろうとしてきた。
強さの意味も今だに分からずに。

が、だんだん分かってきた。
私は、強い人間になりたい訳ではないのだ。
なれないことも身に染みて理解してきた。
私はただ、生き残っていたいだけなのだ。
弱い自分でも受け入れてもらえる場所に、身を寄せていたいだけなのだ。


ぐだぐだと弱音を吐いているが、結局はやってみるしかないのだ、ということも分かってきた。時が解決してくれると言うべきか。
やる前が結局一番不安なのだ。やってしまえば、やる前の不安は不思議と消えている。また新たな不安は生まれるのだろうけど。

不安とともに私はきっとこれからも生き続ける。
今となってはその不安を完全に解消しようとは思わない。
付け焼き刃の不安の解消法なんて、私にはもう通用しない。
不安を感じている自分を、もうこれ以上否定しない。


不思議と、そう思い始めてから、不安はありつつもそれに押しつぶされそうになることは減った気がする。
こういう性質なのだと理解しつつ、墓に入るまで、私は自分の弱さと付き合い続けるつもりだ。

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