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【哲学対話の記録】私は「大人」を着込んだ子ども

 自分に対して「もう大人なんだから、」と言うことが増えた。もう大人なんだから、自分の機嫌は自分でとれるでしょ。もう大人なんだから、時間を守れて当然でしょ。もう大人なんだから。

 「大人」ってなんだよ。私は21歳だから法律的には「成人」で、つまり大人で。だけど、お酒は好きじゃないし、煙草も吸わない。夜更かしは好きじゃないし、むしろ朝型人間。昔の私から今の私を見たら、きっと大人なのは、化粧と料理とパソコンと朝の珈琲一杯。

 ねぇ、私は「大人」かな、と昔の私に問い掛けたい。
 今の私的には、今の私は全然大人じゃない。経済的には自立しておらず、上手く日々のスケジュールも立てられない。世界一幸せだなって思う日もあれば、食べたもの全部吐き出して、お腹の中が空っぽになったら、内臓も皮膚も骨も吐き出して、すべて水洗トイレに流せたらなと思う日もある。
 気分の浮き沈みでこの間友達に迷惑をかけた。

こんな訳が分からない文章を書いている私は「大人」ですか?
今回、私たちは「大人とは何か?」という問いと向かい合いました。

この記事では、20代の若者が集まり実施した「哲学対話」の記録を行っております。
前回の記録は以下よりご覧いただけますと幸いです!

また、私たちに関しては以下の記事をご覧ください!

はじめに

 オンラインの画面越しに、また今週も「コンピューターオーディオに接続しています」の文字が複数浮かび始める。だけど、今回は微妙に集まりが悪い。みんな、就活で疲れているのかなぁと思いながら、5分開始を遅らせた。
 けれど、私はそわそわしていた。なぜなら、今回は、私が話したいテーマを持ってきたからだ。あんまり参加者が集まらなかったのが痛手だけど、対話は強制するものではないし。私はふふふ、とワクワクしながら三つのテーマと、挙げた理由を説明し始めた。

大人とはなにか。
 「私たちって大人じゃないですか。だけど、大人ってなんだ?って思って。いや、なんか大人になったら、って小さいこと思ってたけど、意外と自分は大人じゃないかもって思うことがあって。大人になる、とか、大人なんだから、とかよく言うけどさ、大人が何か、とかどうしたら大人になれるのか、とかよく分かってないなと思って」

成功とはなにか。
 「すごく、気になっていたことで、何を持って成功っていうんだろうって思って。お金をたくさん稼ぐことが成功、とか、バズって話題になれば成功なのか、けれど、そうじゃないけどいいこと、とか成功って感じることがあって。うーんって難しいなって思って、このテーマを挙げました」

「過去」は存在するか?はたまた一つなのか?
 「過去ってものすごくあやふやなものだと思っています。なんか、歴史って資料の解釈とか新たな発見とかで変わるじゃない?どんなに事実を刻んだとしても見る人によって感じ方は変わるわけだし。それに、文字があるからと言ってその「過去」が本当に存在したのかなんてわからくて。ものすごく疑問に思っているから話せたら、と思ってこのテーマを挙げました」

問い出し:話したい問いを皆で考える

 話してみたいテーマと理由、もっと話してみたい問いを参加者それぞれに聞いていく。

一人目
 「どれもめっちゃ気になるって思ったんだけど、一番は過去についてかなぁ。自分の過去は知ってるじゃないですか。自分は自分の過去が積み重なってるから。だけど、自分が好きになりたてのキャラって自分が知った時点のキャラを好きになって、その過去を後から知って、その付随した過去によって、もっと好きになる、みたいな。積み重なりじゃない過去、なんて言ったらいいんだろう.…?なんか、過去がすごく気になって…」

二人目
 「僕も過去について話したいと思いました。わりと昔から、どうして自分は存在するんだろう?とか、宇宙の外ってどうなってるんだろう?とか考えるタイプで。過去が存在するから未来が存在するのか、逆に過去が存在しないとしたら未来はどうなんだろう?とか考えてみたいなって思いました」

三人目
 「大人について興味を持ちました。まぁ、僕たちは20歳を過ぎたから、大人なんだけど実感ないなって。子どもの頃よりも自由度は上がったけど、中学とか高校の友達関係はもう作れないんだろうなって思って。ここから、大人になって、社会人になったら、あの、小さいときから知ってる関係性っていうか、そういうのはなくなるのかなぁって。大学での友達も、確かに友達だし、仲良いし、これからも関係は続いていくんだけど、あの、中高の時の感じとは少し違う」

四人目
 「私も大人について話したい。同い年の友達が、大人だからさって言っててびっくりしたことがあって。私は大人である自覚は全然なくて。だって、めっちゃ親の脛かじってるし。友達すごくえらいなーって思って。あと、太宰治が大人とは裏切られた青年の姿であるって言ってて、確かになって思ってる。私も想像してた大人とは自分はかけ離れてて、心は子どものまんま理想の大人像に裏切られてる」

五人目
 「私は過去について話したいなって思いました。理由は、中学の時の友達と昔の話をしてる時に、自分の記憶とは別の見方をされているなって思うことがあって、過去って一つ…?って思ったからです。その記憶っていうのは、元恋人との記憶だから、割とはっきりしてるはずなんだけど、友達の目を通してみると違う視点もあるんだなって思って」

 「大人」と「過去」が優勢。どれも今ここにいる全員が自分事の話題。一度はもやもやした経験がある話題。
 うんうん、と聞きながら、共感する部分と新しい発見がある部分があって、やっぱり人の話は面白いな、と思う。今すぐにでもいろいろ聞いてみたい部分があったけれど、ちょっと立ち止まって今日の目標、というかゴールというか指針というか、今日の対話の道筋を忘れないための「問い」を絞る。「問い」のもとで私たちは平等に向かい合う。

上の話をしながら、いくつか問いを立ち上げた。

「過去とはなにか」
「過去と未来の関係性はあるのか」
「大人って何だろう」
「今の自分を大人だと思うか」

の四つの問いが出た。
多数決を取り、「大人って何だろう?」について話すことに決定した。

対話:「大人って何だろう?」

 「さっき、想像していた大人像に裏切られるって話が出てきたんだけど、想像してる大人像ってどんなの?」

 参加者の多くから、「自立していること」という要素が挙げられた。
 一人が「自立」についてまとめてくれた。

「大人の条件としての自立には二種類あると思う。経済的な自立と精神的な自立!経済的自立は自分で働いて、生活してることで、精神的な自立は余裕がある、みたいな」

「余裕があるってどういうことですか?」
「えーっとね、」

冷静でいられる、聞き上手、相手のコトを考えられる、経験が豊富……
様々な条件が上がっていく。まぁ、そうだよねって話が進んでいく。
周りで「大人だなぁ」って人の話を楽しそうに話してくれる。   

「やっぱり大人だなぁって人は話してていろんなこと教えてくれたり、教えてくれるんだけど、私の話を聞いてくれたり、すごく気遣って人と話してると思う。私、一杯おしゃべりしちゃうんだけど、それを、うんうんって聞いてくれて」 

けれど、大人だなって思う人もそれぞれタイプがある。
「逆に大人じゃないなって感じるときはどういうときだろう?」

「良い意味で、なんですけど」と一人が声を挙げてくれた。
「いい意味で、大人じゃないっていうのなんですけど、没頭する趣味があるのってすごく少年心があって、それって大人っぽくないな、と。だけど、大人だなと、思ったり」

んんんん……大人っぽくないことが、大人、かぁ、と一気にその矛盾について聞いてみたくなるが、一旦立ち止まって、「少年心」ってなんだって話を私は聞きたい。

「少年心って、人のことを気にせず、ホントに社会的な意味みたいなものがあんまり感じられないことに熱意を注ぐこと、かな。例えば、鉄道とかおもちゃ、メカ、戦うもの、とかに熱中するとか。大人なら切り捨てるようなことに自分一人で集中すること、それはだって、未熟さがあるから少年……遊び心がある大人とも言えるかも……」

鉄道写真愛好家、車やバイクに熱中する人、コレクター…確かに、少年心があるよなぁ。それってすごく大人な趣味な感じはするけど、とても子供っぽくも感じる。この違和感の咀嚼が追い付かない。

「分かる。なんか、社会で生きる上で合理的じゃないことをすると“大人気ない”って言わるじゃない?それと似た感覚を感じる。なんか例えば、誰かのことが苦手だとしてもお仕事で関わりあわないといけない時に苦手だからって無視してたら、お仕事にならないし、そんなことしたら、“大人気ない”って言われる」

「社会で生きていなければ、“大人気ない”はないってこと?」
「そう、だね。だって、社会に生きていなければ、大人になる必要がない、みたいな」

 私たちは「大人」じゃないって自覚はあって、だけど、大人であること、大人になることも当たり前の自覚としてあって。なぜ、私たちは大人にならなければいけないと思っているんだろう?

「…あのさ、ちょっといい?」
ひとりが控えめに話し出す。

「今さ、子どもと大人の二項対立で話してるよね?けど、大人はかつて子供だったわけで、まるで別物になってるわけじゃないんじゃないかな?対立するものとして考えられない、みたいな。グラデーションであるみたいな。20歳になったからっていきなり大人になるわけでもないし、子どもから積み重ねられて大人になっていくわけなんだし」

対話の途中で「子どもは汚されていない」というキーワードを挙げた人がいた。太宰治は「大人とは、裏切られた青年の姿である」と表現した。
社会という大きな何かに裏切られて、何も信じられなくなって、諦めて表面だけ大人になって、それで、また誰か青年を裏切る。

私たちはずっと大人の皮をかぶった子供なのかもしれない。けど、グラデーションなら、いつか完全に子供ではなくなって大人になるときが来るってことかな?
子供が社会に出て、経験を積んで「合理的」とか「聞き上手」とかそういう大人要素を着込んで、大人に見えてるみたいなイメージが浮かぶ。参加者の一人がそれを洋服に例えた。どこまで着込んだら、私は大人になるんだろう?

 私は聞いてみたくなる。

「グラデーションならいつか完全に大人になるってことだよね?完璧な大人っているのかな?」

ここで対話の時間は終了してしまった。
ぷつんと切れて浮いてしまった質問に、感想を共有する時間で「違う」という意見を話してくれた人がいた。

「そもそも、「大人」って誰かの一瞬の言動を切り取って、社会的に周りの人間がその言動に対して評価でしかない。人にはいろんな面があって、完全に大人、とか子供とか、というか人格にそういう分類はないんだと思う。ましてやそれを自分で判断することは出来ないんだと思う。いつだって社会が言動を規定していて、評価してるに過ぎないんだと思う」

誰かの発言、目線、態度、その一瞬だけが社会的に「大人」っぽいのか「子ども」っぽいのか、の評価でしかない言葉なのかな。

私たちはその評価をどうやって共有しているんだろう?
彼の感想でその場がまた、ちょっと浮遊感覚に浸る。
だけど、今日はこれでおしまい。私は淡々と時間を刻む時計を確認した。

まとめ

 もう少しで、掴めそうだったのに、今日も時間が来てしまった。あーあ、あと少しだったのに、という一抹の口惜しさがあるが、きっと続けてももっとモヤモヤするんだろうなって時間を区切りながら思う。

「大人になったら何になりたい?」っていつの間にか聞かれなくなった。
代わりに、「就職はどうするの?」って聞かれるようになった。

大人に近づくってどうですか?近づけてますか?
どうですか、社会の皆さん、私たちは社会的にみて、大人という評価になりますか?

うん、私たちがやってることは全然大人じゃないね、この一瞬だけ切り取ったら。でも、すごく難しい話をした。
だって、私たちは子どもから見れば「大人」なんだもの。

どうか、この時間だけはオンラインの画面の先の誰かを、社会的な評価に当てはめないで、「誰か」としてしっかりと見つめ、一緒に考える時間になっていますように。
しっかりと向き合って、「誰か」を受け止められますように。

そう願いながら、私は今日も会議を終了させる。
あぁ、お腹が減った。

おわりに

オンラインだから、皆がどんな表情をしているのか読めない。
分からない。ちょっとだけ不安になる。

 早く皆に直接会って話をしてみたい。

 みんなで一緒にうーんって悩みながら疑問や考えを惜しげもなく部屋中に溢れさせてみたい。その移動時間とかは合理的じゃないけど。というか、みんなで大人について考えているんだったら、就活したりバイトしたりする方がよっぽど社会的には合理的だよな、って思ったりする。

 だけど、合理的な判断だけでは苦しくなるから、私たちはこの活動をしているんです。
 合理性だけでは、私は誰かの不合理な人間的な部分を愛せない。
 私は目の前の誰かを社会的な立場や損得勘定以外でフラットに見つめる時間が必要だと、今回改めて感じました。

 着ぶくれした「大人」を取っ払って、人間同士が素直に真剣に向かい合い、何かについて対話する場を創り上げてくれている参加者の方に敬意を表して、そしてこれを読んでくれているあなたに感謝して、今回は筆を止めようと思います。

 本日も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
 これからもじっくりと誰かと真剣に向き合う時間を続けていこうと思います。 是非、読んでいただけると幸いです!

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