見出し画像

言葉つかいのわたしたち

悲しいこと、辛いこと、耐え難いこと… 
誰かのそのような体験を聞いたとき、皆さんは何を思うでしょうか。 
そしてどのような言葉をかけるでしょうか。 
その言葉には、どのような意味が含まれていますか? 

はじめに 

私達の住まう地域に、どこか春めいた香りが漂い始めました。 
進学や受験、就職活動など、新しい何かに向かって走り出す季節がまた、 
寒さを乗り越えやってきたのだと感じます。 

さて、今回の対話も、前回同様、テーマを準備して対話を行うことになりました。 
前回は「怖いとは何か」について対話しました。下のリンクからご覧になれます。


今回の対話では、いつもファシリテーターを務めている代表が体調不良のため、 ピンチヒッターとして副代表がファシリテーターを務めました。 

会議の議長ともまた違う緊張感。 
好奇心よりも不安に覆い尽くされてゾワゾワする感覚。 

対話の始まりです。 

テーマと理由 

今回出してくれたテーマは2つありました。 

・可哀想とは何か 
・個性的とは何か 

どちらも面白そう。 
テーマを出してくれた参加者に、そのテーマに至った理由を聞きました。 

可哀想とはなにか 
「可哀想という言葉を使っているのを聞くと、一方的に気持ちを押し付けているように感じてしまうんだよね。本当にその人は可哀想なのか?って。 可哀想という感情になること自体は自然なことだとも感じるから、自分がひねくれているだけかもしれない。そう考えたとき、可哀想ってなんだろうと思ったんだよね」 

個性的とはなにか 
「個性を大事にと言われる社会。人は存在するだけで既に個性を持っているはずなのに、目立つ人しか個性的と言われない。制服を着崩しているただそれだけで個性的の枠に分類されることがある。私はこういうところで個性的という言葉の使われ方に違和感を抱いているんだけど、みんなはどう感じているのか知りたいと思った」 

その後、問いだしのために参加者に2分の時間を与え、 
どのテーマについて話したいと思ったのかを話してもらいました。 

問い出し 

ある参加者は、可哀想とは何かについて話したいと発言しました。 

「母親とニュースか何かを見ていたのだけど、口からぽろっと"可哀想"という言葉が出ちゃって。そしたら、それは違うんじゃない?と言われて慌てて訂正したんだけど。 
可哀想って言葉は同情であって共感ではないから、そう言われたのかなと思ったんだよね」 

可哀想は同情であって共感ではない。 
興味深いお話がありました。 

そこから、同情と共感の違いはなにか?という問いが生まれました。 

また、ある参加者は、個性的とは何かについて話したいと発言しました。 

「高校時代は、どこか息が詰まるような生きづらいようなそんな心地がしていたけど、大学に来てからそういったものがなくなったんだよね。そこで、自分は今まで自分自身を表現することを控えていたと気づいて。表現することって楽しいって心から思えたんだよ」 

反対に、個性的についてこう話す参加者もいました。 

「ダイバーシティとか個性を大切にとか言うけど、逆に個性によって自分自身が苦しめられてしまうことも少なくはないよね」 

個性的ということがそもそも良いことなのか? 

また新しい問いが生まれました。 

他にも、"個性的という人はどんな人なのか"、"個性を表現するというのはどういうことか"といった問いが上がりました。 

そして今回選ばれたのは、「"可哀想”は同情か共感かそれ以外なのか」という問いです。 

対話スタート 

まずは問いの通り、可哀想はどの位置付けになるのかを聞いてみました。 

ひとりが、可哀想は同情である、と考えを話してくれました。 

「自分が相手と同じ状況になったことがなければ想像するしかないのだけど、自分の中の理解度が低いことで、その状況に対して言える言葉がそれしかない。だからどこか他人事のように感じられてしまうから、共感ではないかな」 

「どこかそっけない印象にも感じるよね、可哀想って言葉は。相手の状況を想像しておしまいなイメージ。共感はその先まで想像できているイメージ」 

同情と共感という感覚の違いから、可哀想は同情だと考える人が多くいました。 

同情を求めていないのに同情される。 
この違和感がなぜ起こるのか。 

そんなことを考えながらこんな質問を投げかけました。 

「意思と反した同情が向けられたとき、嫌な気持ちになる人が多いようだけど、 そんな気持ちにならなかった経験がある人はいますか?」 

ひとりが、こんな経験を話してくれました。 

「ゲームのガチャで全然推しが出なくて、本当に自分が可哀想だと思って。そのときに妹に自分の状況話したら、ガチの顔で"可哀想だね"って言われたのだけど、そのときは嫌な気持ちにはならなかったなあ」 

自分が抱く可哀想のベクトルに対して、相手も同じ方向だった。 
そのときは向けられた同情を、自分の中にストンと落とし込める。 

(それって実は共感なのではなかろうか…でも向けられている気持ちは同情だな… と、今書いている途中で感じました) 

私はひとつ疑問に思い、みんなに投げかけました。 

「同じ同情でも方向性が自分と相手との間で成立していたら違和感がない。 だとしたら、その違和感はいったい何だろう」 

ひとりがある経験を話してくれました。 

「自分の推しについてちょっと悪いニュースがあって、そのときの友達との会話で可哀想と言われたのだけど… 自分のことを考えて思ってくれているのは理解できるけど、そこで他の言葉はなかったのかってずっと引っかかってしまった。 

可哀想という言葉は意外と抽象的だから、共感を求めている状況下だったら具体的な言葉がほしいと思ってしまう。そこが違和感の正体なのかな」 

自分がその話題を出したとき、相手がその話題を出したとき、 
自分は、相手は、互いにどんな返しを求めているのか。 

無意識の中でそれは決まっているかもしれないし、意図的に決めたかもしれません。 求めているのは、同情なのか共感なのか。 

何やら、可哀想という言葉のせいではないような気もしてきました。 

そこで、このような質問をしてみました。 

「可哀想という一言に全てを託してしまうことによって違和感が生まれるのか、可哀想という言葉そのものに違和感があるのか」 

ひとりが口を開きました。 

「私は可哀想の一言で終わらせてしまうからだと思うな。どうしても悪いイメージがついてしまっているのもあるし、やっぱり何を思ったのか分からないのがいちばんの理由かも」 

「私もそう思う。だけど、その起こった過程やその人自身の性格とかを理解できていれば、可哀想の一言でも違和感がないよね」 

なるほど、と感じていたところで、 

今回の対話は終了です。 

対話を終えて 

何人かに感想を聞いてみました。 

「可哀想という日本語は、同情とか様々な感情を含められるという上ではとても奥ゆかしくて、それ故にいろんな捉えられ方をしてしまうと感じました。それでも美しい表現だと思います」 

「言う立場、言われる立場、そのどちらにも自分自身はなる。それぞれの立場で可哀想という言葉は変化していくんだと改めて感じました」 

ニュースを見て、会話をしていて、本を読んで。 
日常のどこかで誰かが口にする"可哀想"という言葉。 

ひとくちに同情だけ込められているとは思えないなあと、 
感想を聞きながら感じました。 

ファシリテーターを経験してみて 

ちょっとだけ、私の感想を話させてください。 

対話を終え、パソコンの画面が真っ暗になったとき、 
緊張の糸がプツンと切れて、 
疲れがドッと波のように押し寄せてきました。 

ファシリテーターばかむずいやんけ… 

汚い言葉になってしまいましたが、これが終わった瞬間の私の本音です。笑 

対話の流れに乗りながら、着地点からは逸れないように進む。 
まるで宝物を探して大海原を漂う海賊のようだ、そう感じました。 

つたない進行だったにも関わらず、 
葉脈のようにたくさんの話を広げてくれた参加者の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。 

最後に 

普段何気なく使ってしまっている言葉たち。 
長い長い歴史の中で、生まれては消えていく言葉たち。 

新しく意味が付けられたり、逆に意味が減っていってしまったり。 

私達はその意味に自分の感情を乗せて言葉を使います。 
そしてその言葉は、自分を守る盾にもなれば相手を傷つける矛にもなる。 

可哀想という言葉を通して、 
言葉を使うことに対しての、何か本質を見たような気もします。 

さて、次回はいつものファシリテーターが復活です。 
また面白い対話になればと、それを皆様に届けられればと思います。 

ここまで読んでくださりありがとうございました! 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?